明日からしばらくお出かけというこの一週間、育児生活におけるちょっとした『台風の目』現象で、いろんな人の協力もあって自分の時間がとれたので、ブログも毎日更新できたし、自分の『興味』に時間をあてることができた。

(「自分の興味に時間を当てる!!」---育児ママの語録には存在しない文章ですね。)

  

そんな中、今回興味を持って追っかけをしていたのは、『脳』について。

 

といっても、私はまるきり理系が駄目で、ロジカル思考もできないし、『脳』関係のブームが日本で巻き起こっていた頃にはヒマラヤの僻地にいたしで、これまでまともにそういう本を読めたことがなかった。

 

でも今回、池谷祐二氏という、一般人には逆立ちしてもわからない難しい話題を平易な言葉で語ってくれる方のサイトに出会い、目から鱗の面白い論文を見つけてしまった。

 

海外に暮らしている人、英語の上達に興味がある人はぜひ読んでみてください。

http://gaya.jp/english/katakana.htm

少し難しいけれど・・・というのは嘘で、ほんとうに面白いですから。

 

<ここからは、論文を読んだ後の感想になります。>

 

池谷氏も書いていたが、西洋人、とくに英語を主言語とする人たちは、文法的な間違いにはかなり鷹揚なのに対して、発音の間違いに対する想像力は、ほとんど、ない。

 

私も新婚時代に、義母が来たある日曜の朝、

 

「今朝は何をしていたの?」

 

と訊かれ、

 

「お風呂を洗っていました ( I was washing a bath.) 」

 

と答えると、「は?」という顔で旦那の方をむき、

 

「。。。 どうして、朝からバス(Bus)を洗うの?」

 

「Bus じゃなくて、Bathtub のことだよ。」

 

と平然と答える旦那に、後から大泣きして訴えたことがある。

 

東洋人の私を馬鹿にして、義母はなんて狭量なんだ!と。


なんで私が朝からバスをあらわなあかんねん、かんがえればわかるやろー!と。

 

でも、6年たって思うに、あれはけっして義母の意地悪ではなく、ほんとうに わ・か・ら・な・か・っ・た のだ。日本語のように、想像する言語を持たないあの人たちには。

 

ちなみに昨日も、テーブルで、コーンフレークを食べている娘に、「何を食べているの?」と聞いた義母は、日本語で「フレーク( fu re e ku )」と言われ、きょとんとして私を見るので、笑いをかみ殺しながら、気をつけて「Flake」と答えた。「Frake]ではなく・・・。

  

 

日本人がもっとも苦手とする・・・というより、ほとんど聞きわけが不可能な「R」と「L」の発音についても、ここにはっきりと書かれている。私たち日本語音節で育ってしまった者には、その二音を聞き分ける、脳の回路が「できていないのだ」、と。

 

このことを狂喜乱舞して旦那に報告すると、むこうも「ぱっ」と花が咲いたように表情が明るくなり、

  

「出逢ってからこの10年間、RとLの発音は出来るくせに、聞き分けられない君を、僕はずっと、面倒くさいから、わざと聞き分ける努力をしていないのだと思っていた。」

 

とのこと。

 

この論文は、将来夫婦の溝、になったかもしれない小さな誤解をも解いてくれたのである。

 

 

この論文から始まって、いろんな脳に関する話題の本を読んだが、やっぱり科学を学ぶということは、そしてその成果が、凡人の私にもこうしてアクセスできる世の中に生きるというのは、素敵なことだなあと思う。

 

今までは、同じ状況に遭遇しても (例:外出先から帰ると、家の中が目も当てられないくらいに散らかっている。)、まったく違った反応をする旦那の態度 (例:何も見えなかったかのように素通りする) に対して、「なんでなんとも思わないの?!」といちいち激怒していたことも、「小さい頃からの経験の違い(旦那のお母さんは、掃除がとにかく嫌いで逃避する主婦であった。すごい散らかりようの家の中で、彼は積み上げられた物の上で百科事典を愛読し、成長した。)で、これをヤバイと認識する『脳の回路がな・い・ん・だ』と思えば、ふっと肩の力も抜け、怒る気にもならない。私が今後十数年かけて、『整然とした家に住むのは気持ちがいい』という彼の神経回路をつくるしかないのだ。 

 

子育ても然り。

子どもなんてまさに、神経回路が今できている最中なのだから、できないことを怒ったってそれはまったく無駄であって、いろんなパターンの神経回路を一緒につくる作業を楽しむ過程こそが、子育てなのかも・・・と開眼してしまったりして。

 

 

そういう訳で、池谷祐二先生、ほんとうにありがとうございました。

これからも体を大切にして、いっぱい面白いことを教えてください。

 

※ 池谷先生と糸井重里さんのもろもろの対談も、とても面白いですョ。

http://www.1101.com/ikegaya2010/2010-09-27.html




 






 

ゆっくりと時間の過ぎていく12月初めの土曜日、午後。
娘がつくりはじめたのは、「…駐車場。」


ギリシャに暮らせば/アテネ発

  
確かにアテネは駐車事情が最悪だけれど、いくらなんでもここまでひどくはない…。
  
一番最初に入った車はどうやって出るの?
 
と訊くと、後ろから一台ずつ全車をいったん出して、また同じ順番で駐車していた。
これができるとしたら、案外、アテネはユートピア的都市なのかもしれない。
(実際に、やっていなくもない。)
  
それにしても、どんどんと進化したその後の彼女の駐車場設計図はすごいことになっていた。
 
  
ギリシャに暮らせば/アテネ発
 
 
ここはどこ?


と訊くと、
 
マンハッタン!
 
 
いわれてみれば、そう見えなくもないです。
 

ギリシャに暮らせば/アテネ発
 
 
 
 
 
 



ギリシャに暮らせば/アテネ発

 


私に似て金髪碧眼好きなのはわかるが、

なにもそんなに片膝立ててまでがっちりと捕まえなくても・・・と思う、我が家の三歳女。

   

捕まえられている美少年は、親友のロシア人のご子息です。

故郷から送られてくる服が、なんだか日本の昔の体操服みたいで、なんとなく旧共産圏のイメージなのがおもしろい。

 

ところでその母上との会話は、オムツや幼児食からすぐに飛躍して、ペレストロイカやチェチェン紛争・・・子供のブランコを押しながら、公園で熱く談義しています。

これぞ国際結婚子育ての醍醐味! 

  

それにしても、あのダンディーなゴルバチョフ元大統領は、西では救世主でも、旧ソビエトの大半の民にとっては、刺客を送り込みたくなるような相手として、いまだ受け止められているんですね。

一人の人物の行動が、ここまで正反対に捉えられる文化圏の溝は、覗き込んでも覗き込んでも底の見えない沼のよう・・・。

 

こういう環境で子どもを育てていて、今、私に伝えられることは、「どちらが正しいか」ではなく、「溝は深いのだ」ということなのだと、つくづく思います。 

  

 

 

 

  

 

 



 

 

  


夢を見た。
 
私は乗客の一人として電車に乗っている。
その電車は、特急なのか快速なのか、いくつもの駅を、停まることなく通り過ぎていく(この時点で、すでに-電車が各駅停車の-アテネではない)。
 
駅の寒々としたホームには、ベンチが、ちょうど通りすぎる電車に背を向けるかたちで並べられていて、どの駅にも、ひとつのベンチに、一人の女性が、同じくこちらに背を向けた姿勢で座っている。旅に出るのか、みな脇に形のよいボストンバックを持っている。
そして電車が通りすぎる瞬間、彼女、あるいは彼女たちは、さっとこちらを振り返る。
一様に、美しい、怯えた、濡れた目をしている。
  
これから起こる奇怪な事件に、そのひとりひとりの女性が巻き込まれていくことを、乗客であり、観客でもある私は知りつつ、視線を交える。そして彼女たちもまた、私がその結末を知っていることを、知っているのだ。

- と、まるで火曜9時のサスペンス劇場のエンドテロップに流されるような情景の夢であった。
 
こういう意味深な夢はよく見るのだが、今朝のもまた一風変わっていて、おもしろかった。
 
そんな朝に限って、主人がまた「何か夢、見た?」などと、一年に一度しか聞かないようなことを聞くものだから、そのままいつもなら忘れてしまうことを、意識して思い出してしまった。
 
ちなみに主人は、会社に行ったら、髭が半分剃り残されていて、残りの半分はボウボウであせった、という夢を見たらしい。

映像にしたら私の夢の半額以下の値にしたいような単純さだが、何とも彼らしい。

数か月前には、「気がついたら自分はジュラ紀の空飛ぶ恐竜で、ふつうに空を飛んでいて、ふと気がついたら羽が消えていて、うわっ」と焦る夢を見たといってうなされていた。
 
途中で「ふと気づく」というのが、彼のポイントであるのにたいして、私のテーマは「…知っている。」なのだろうか。
考えると、どちらも怖いなあ。
   

われの神なるやも知れぬ冬の鳩を撃ちて硝煙あげつつ帰る

こんな句を遺していった詩人がいた。
 
何気ない日常のなかで、心構えもなく、何かのはずみにこんな句に触れてしまうと、
まるで小さなぬくぬくとした布団から、突然嵐のような人さらいの手で鷲掴みにされて宙を越え、天空に屹立した途方もない氷山の前にポン、と置き去りにされたような気持ちになる。
 
才能の力。
非凡さに触れた瞬間。
  
文章を闘いの剣ではなく、そのレトリックの光陰に逃げこむ手段にしてしまっている者にとって、どこにも逃げ場を持たない、真正面から闘いを挑んでくる文章ほど、恐いものはない。

そして、憧れるものもまた、ない。
 

 






ギリシャに暮らせば/アテネ発





この間生まれたばかり、のような気がしていたこどもが、
もうこんなパンを作ってくれるようになった。
 
人生の「あっという間」を大切にしないといけない意味が、
わかる気がする。
子育てというものは、楽しまなきゃ本当に損! とやはり思う。

不思議な縁でそばに生まれた誰かの人生に、こんなに密着してすごせるひと時の濃さは、世紀の恋人たちなんて軽く越えてしまっているかもしれない。

だとすれば、やはり真正面から向かい合わないともったいない。
 
不思議な縁のその人は、今はすやすやと夢の中・・・。
 
 
 

ナタリア という名前。

 

ナタリーでも、ナターシャでもなく、ナタリアという名前がある。

 

ヨーロッパに暮らしてみると、そのどれもが同じ由来であることはすぐにわかる。

もしかしたら現代においても、あまり違いはない名前で、その国の言語によって a という母音がついたり s という子音が入ったりするのだろうが、厳格には分別されていないような気がする。

 

そんな気がするのは、呼ぶこちらの気分によって、ナタリーといったり、ナターシャといったりても、呼ばれた本人が余り気にしている様子はない、というところにしか、根拠はないのだが。

 

そう、私には、ナタリーとかナターシャとかいう知り合いが、6人ぐらいはいる。

 

 

 


でも

ナタリア という名前には、ナタリー にも ナターシャ にもない、特別な響きがある。

そんな気がする。

 

歌のように詩のように響くのに、それほど甘ったるくはない。

芳しいのに、節度を持ち、ひかえめなのに、ほんとうは強い。


でも、「ナタリア」と呼べば、いつもちゃんと答えてくれるその彼女は、目をこらした先には、いつも見えない。

たった今までそこにいたのに、もう今は、白いカーテンが彼女の座っていた椅子の背にはためいているだけ・・・。

そんな印象を与えてくれる名前だ。

  

そして私には、その名前を持つ友人が一人、いる。

ナタリアと呼びたいのは、後にも先にも、彼女一人だけだろうと思う。

 

ナタリアについて・・・。

 

私はナタリアについて、何かが書けるだろうか。


 

 

 

 

 




 




娘を送って、幼稚園まで行く。

 

昨日、迎えに行ったときは、あんなにはしゃいで『まだ帰りたくない。もっとここで遊ぶ。』と校門にしがみつくほどだったのに、今朝になると『行きたくない。おうちでお人形で遊ぶ。ママと遊ぶ。』という。

 

どちらが本当なのだろう・・・?

どっちが楽しいんだ? 


 

・・・ 

  

 
ギリシャに暮らせば/アテネ発

   

・・・どちらも本当なのだろう(笑)。

どっちも楽しいんだ。

 


「答え」はひとつじゃない。

それが、3年間の育児でやっとわかってきたひとつの答え。

 

 

 

  



 





 


昨夜から一晩、旦那が娘と犬を連れて義母のいる田舎の家へ遊びに行っているので、本当に久しぶりに一人で家で一泊二日している。

 

娘とも旦那とも(犬とも!)離れて家で過ごすなんて贅沢、もしかしたら、初めてのことかもしれない。

  

いつも娘の後追いをだましだましなだめすかして、と思えば掃除機の前にででんと寝転んで動かない犬を追い払い追い払い、ともすれば半日もかかってしまう掃除も、自分ひとりだと30分ですんでしまった。しかも、その後、一時間たっても二時間たっても家の中が散らからないのには、あたりまえだが、驚愕・・・。

そうか、汚す人がいなければ、家の中は散らからないんだ・・・という事実に、思わず感涙に咽びそうになった。

  

考えてみれば、女性の一生とは変化にとんだ、見方によっては面白い、また見方によっては残酷なものだと思う。

少女から女、女から妻、妻から母親、母親から祖母へと、いったいどれほどの役割を与えられていることだろう。

その変化の醍醐味を楽しんでやる、ぐらいの器量の女性でないと、これはなかなか厳しい道のりだ。

 

私なんかは、男女が平等に働ける社会に生まれて、ともすれば女性のほうがキャリアアップが目覚しい世の中でちやほやされて育って、結婚するまでは、怖いぐらいに何事も、自分の足場だけを着々と築いておけばよかった。それでうまく生きていると思っていたのだから、救われない。

   

子供ができたとたん、その役割のあまりの変化に、いまだに驚いている。

たとえば、仕事が速い、結果が見事、なんて評価軸は、はっきりいって子育てにはほとんど役にも立たない。 

なぜなら、子育ては、その過程を楽しめないことには、何の意味もないからだ。

 

育児は育自というけれど、ほんとうにそう。

今は子どもに教えられて、また一年生に戻った気分。

そう思えば、新学期に胸がわくわくしたあの気持ちで、また新しい扉を開けて進んでいけばいいんだな。

 

こんなフレッシュな気持ちになれるのも、たまに休みをくれた旦那さんのお陰。

今日は何かおいしい料理を作って待っていよう。