第123どんとこい 「ボヴァリー夫人」 | ナメル読書

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時にナメたり、時にナメなかったりする、勝手気ままな読書感想文。

「ボヴァリー夫人」(フローベール、山田じゃく訳、河出文庫)


小説は「聖」またはその反転としての「悪」を描くことを得意とする、と言うよりはそれに傾きがちである。あるいは「美」またはその反転としての「醜」にも傾きがちである。その理由は簡単である。その方が話が作りやすいからに他ならない(あるいは話の原型が既にして太古より存在しているからに他ならない)


ここで「聖」─「悪」をx軸、「美」─「醜」をy軸とする直交座標系を思い描こう。凡庸な小説群のほとんどは原点の近辺に位置し、名作といわれる作品はいずれかの方向へと極端に遠く飛躍し、(あるいはドストエフスキーの諸作品のように)あらゆる遠方の地点にポイントを打つのである。


しかるにフローベール「ボヴァリー夫人」はこの座標系のいずこに点を打つことも否定する。言い換えれば原点に居座るのである。x軸、すなわち「聖」─「悪」への傾倒を否定していることについては、本書を一読していただければ明らかであろう。問題はy軸、すなわち「美」─「醜」である。私は別段主人公の美醜のみを「美」─「醜」といっているわけではないが、ここでは仮にボヴァリー夫人=エンマの容姿に限っておこう。するとひとは言うかもしれない、夫となるシャルルを最期まで魅せらしめ、その他幾人者男性を魅了するエンマは「美」に傾いているのではないのか、と。


しかし、ここで注意しておかなければならないのは、確かに作中エンマの美しさが語られることがあるが、それはあくまでシャルルらの主観においてであり、この作品の語り手はあくまでエンマを「美」でも「醜」でもない者として扱っているということである。いや、シャルルの主観を通してさえエンマの「美」には留保がつけられていることに注意をしておかなければならない。


「シャルルは彼女の爪が白いのに驚いた。つややかに光って先が細く、ディエップの象牙細工よりもすべすべに磨かれて、アーモンド形に切ってあった。だが手は美しいとはいえなかった。皮膚の白さが不足気味だったし、間接もいくらか骨張っていた。それに手全体が長すぎて、輪郭をふくよかな丸みがなかった。彼女の美しいところは目だった。茶色い瞳が睫毛のせいで黒く見えた。無邪気な大胆さでその視線は素直に相手を見つめた」


エンマの最も従順な礼賛者をしてこの描写である。彼女はいかにも小説的な「美」を有しているわけではなく、言ってしまえば、あくまで田舎出の娘にしてはきれい、ぐらいの扱いである。


さらにここで「偉大さ」─「愚かしさ」というz軸を導入したい。すると、この作品は「愚かしさ」へと──特にエンマの心性・行為によって──方向付けられるはずである。そしてこの「愚かしさ」への運動は、「聖」─「悪」、「美」─「醜」の否定(「の否定」)を原動力としてなされる。エンマは時に「聖」(「悪」)であらざる者であるはずなのに「聖」(「悪」)を求め、「美」ではない者であるはずなのに「美」を求めることによって、結果的に「愚かしさ」を演じてしまうのである。


しかし私たちはここにきて、またしてもフローベールが小説の陥りがちな傾向性を回避していることに注目しなければならない。すなわち「愚かしさ」との対峙によって発動しがちな(読み手の)道徳的哀しみも、あるいは嘲笑も決して起こらないようにしているのである。例えば「愚かしき」エンマの最期は、確かに現象だけかいつまんで聞かされれば哀しみであるか、あるいは嘲笑の対象であろう。しかし、驚くべきことに本書を読んだ者はこうした感情が喚起されないのである。


一体それはなぜであるか。その秘密は語り手が作中に無数に埋め込んでいるヒューモアに他ならない。私たちが哀しみ、あるいは嘲笑といった感情に動かされるようなシーンがくると決まってヒューモアが発動され、喚起されるべき感情がはぐらかされてしまうのである(その最大のものはやはりエンマの最期であろう)。


かくして「ボヴァリー夫人」は、「聖」─「悪」においても、「美」─「醜」においても安易な傾倒(小説の自動運動)に犯されることなく、またその結果として生じる「愚かしさ」という運動の影響もまた、ヒューモアによって無化されてしまうのである。


この小説と呼ばれるものは最も小説から離れた場所に位置している。


ボヴァリー夫人 (河出文庫)
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