第112どんとこい「夜の樹」 | ナメル読書

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時にナメたり、時にナメなかったりする、勝手気ままな読書感想文。

T・カポーティ「夜の樹」(川本三郎訳、新潮文庫)


私は以前T.カポーティを取り上げた際(以前の記事 )、「許されている者」でも、「許されていない者」でもない者=非-社会的な者を視ることできる非-人と書いた。これは誤っているとは思わないが、その後にカポーティの著作を読み進めていく内に、さらに付け加えなければならないことがわかった。それはやはりカポーティの視線についてである。付け加えるべきは、彼の視線は平等であるということだ。この「平等」という言葉には倫理的な意味はこめられていない。単に「平等に」、「許されている者」も、「許されていない者」も、「何者でもない者=非-社会的な者」も視てしまうことにカポーティの特異性が、並の人を越えている部分があるのである。


つい昨日私は「夜の樹」に収められた『ミリアム』と『夜の樹』を読んだ。カポーティ初期の短編であり、当時は恐るべき子供と言われたらしい。仮に「恐るべき子供」という表現が、「若いにも関わらずこれだけの作品を書いた」という意味で使われているのだとしたら、誤りではないにしても正確ではない。正確に言えば、カポーティはこの時期においてこうした作品しか書けなかったのだ、と言うべきであろう。「こうした作品」とはつまり自分自身についての作品というわけで、その象徴化の巧みさにおいて、「恐るべき子供」なのだ。


『ミリアム』も『夜の樹』も作品構造は同じである。ほぼひとつの舞台設定において、「主人公=ミラー=ケイ」が「何者でもない者」と遭遇してしまい、なにかしら(カメオのブローチ=1ドル)を奪われるのである。ただしこの奪われには「強奪」の意味合いは希薄であり、意識下において「献上」しているような気配を匂わせている。したがって、「主人公=ミラー=ケイ」は、「何者でもない者」に対して表面上は恐怖や嫌悪を抱いているものの、離れることもできないでいる。


ここに自身の特異性に対して無自覚であり困惑しているカポーティを見ることができる。特に「何者でもない者」が自然と視えてしまうという宿命に対して困惑している。なぜならそれは社会生活上視えなくてもまったく困らないものであり、むしろ視えてしまうことが弊害を生むことすらあるからである。


並の人間においては認知にも記憶にも残らない存在が自分にはまとわりついてしまう。しかも彼らは非-社会的であるが故にコミュニケートの手段としての言葉を持たない。ただ存在するのである。ここで想起したいのが、言葉以前のコミュニケート、つまりモノの交換である。人間がまだ部族単位で生活していた際、その部族間のコミュニケートはモノによってなされた。その原初的なコミュニケートが(「何者でもない者」が催促しているわけでもないわけにもかかわらず)強迫的に若いカポーティに迫っているのではないだろうか。自己自身の生み出した強迫的な観念が、作品内では、「何者でもない者」からの催促に逆転してしまっているのでないだろうか。つまり、作品内でみられる「催促」や「献上」は、カポーティ自身の「何者でもない者」とのコミュニケートへの強迫、あるいはひょっとすると期待の表れではないだろうか。


ちなみに「カメレオンのための音楽」といった晩年のカポーティにおいては、「何者でもない者」(並びに「許されている者」、「許されていない者」)へのコミュニケートは断念されている。一見交流が描かれているように見せながら、それは結果が書かれているにすぎず、どのような返事が返ってくるか未知であり不安定であるはずのコミュニケーションは描かれていない。この意味において今回取り上げた初期短編でカポーティがとらわれている困惑は克服されている。それが幸いだったか否かは知れないが。


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