第九十八どんとこい 「愛国者たち」 | ナメル読書

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「愛国者たち」(藤枝静男、講談社文芸文庫『愛国者たち』所収)

こんにちは てらこやです


先日、三池崇史監督「十三人の刺客」(2010年)を見ました。


江戸時代末期、明石藩主、松平斉韶(稲垣吾郎)は残虐横暴を極め殺戮に手を染めるものの、将軍の弟という立場から公(幕府)には手の出せない存在となっていた。そこで時の老中は御目付役、島田新左衛門(役所広司)に暗殺を依頼する。島田は侍ほか十三名の精鋭を組織し参勤交代中の急襲を画策するが、それに立ちふさがるのはかつての同門であった鬼頭半兵衛(市村正規)率いる300名を超える武士であった。


──と、いう話なのですが、興味深いもののひとつは、島田と鬼頭いずれの立場も私たちには同調できるし、だからこそ緊張感が保たれているということです。


民の平安の為には将軍家の血筋であっても討たねばならないとする島田に同調できるのは勿論ですが、一方で、たとえ暴君であっても配下としての役割をまっとうせねばならなず、そうでなければ秩序(公儀)は維持できないと考える鬼頭の立場にもまた、多くの人は理解を寄せることができるでしょう。


作中では、相反するどちらもが「侍」として合一されます。この合一を私たち観客の多くは自然と理解してしまうのですが、ひょっとするとそれは極めて特殊な理念型に依っているのかもしれません。


と、いうのは最近読んだ米歴史家、テツオ・ナジタ「明治維新の遺産」(講談社学術文庫)に次のような記述があったからです。


「それゆえに、近代日本の歴史は勝者─敗者の観点から見るよりも、大久保に典型的に見られる官僚合理主義的価値観と西郷に代表される理想主義的価値観の両極端の相互作用という観点から見た方が、よりよく理解しうるように思われる。この両極の原型の間に、日本人の理論的忠誠がつくられたりこわされたりする素材である文化的個性の力動的な現実が、度合いを異にし複雑に混じりあって存在しているのである」


無論、官僚的合理主義的側面を体現するのが鬼頭であり、理想主義的側面を体現するのが島田です。そして、そのいずれもを併せて呑み込んでしまえることに、ナジタは日本人の特殊性を見ています。


明治24年の大津事件を扱った藤枝静男「愛国者たち」は、「愛国」という観念が極端から極端への幅広いスペクトラムと持つ日本人「たち」複数によって様々に体現される様を描いた作品です。


ロシアへの脅威に対して、理想主義的、というよりはロマンティックな熱情から皇太子への凶行にはしる津田三蔵。その反作用ともいうべき、同じくロマンティックな自己陶酔から自死によって国の謝意を表そうとした畠山勇子。また公の立場に置いては、明治天皇の意をめぐって、まさしく官僚的合理的に事を納めようとする閣僚らと、司法内部においては官僚合理的に、外部に対しては理想主義的に、司法の独立を強言する児島惟謙とが対立します。


事件をめぐる記録に終始しながら、この作品が緊張を維持し続けている理由は、それぞれの「愛国者たち」の行動理念ひとつひとつが、私たちの理念型の中に潜んでおり、普段はあまりに自然すぎて見えなくなっているそれらの葛藤が、一挙に顕現するからなのでしょう。

愛国者たち (講談社文芸文庫)
愛国者たち (講談社文芸文庫) 藤枝 静男

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