第五十八どんとこい 「ガリレオの生涯」 | ナメル読書

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時にナメたり、時にナメなかったりする、勝手気ままな読書感想文。

「ガリレオの生涯」(B・ブレヒト、谷川道子訳、光文社古典新訳文庫)


こんにちは てらこやです


なぜでしょうね。科学に奉仕すること、合理性をもってして自然を探求せんとすることはもっぱら是とばかり考えられて疑義が指し挟まられず、それは純粋、無垢という価値観とも結びつきやすい。


ブレヒトの「ガリレオの生涯」の中に次のようなやりとりがあります(アンドレアとは、作中ガリレオの弟子です)。



アンドレア (大声で)科学の掟はただ一つです、それは科学に貢献すること。


ガリレオ そして私は貢献したってわけか。同学の士で、裏切りの仲間よ、この溝にようこそ、だ。君は魚を食うかね?うちでは魚も売っているよ。だが臭いのは売り物の魚ではなく、売り手の私だ。今大売り出し中で、買い手は君だ。この著作、有り難い商品に、抗いがたく引き付けられておるぞ!生唾がわいてきて、呪いの言葉も呑み込まれる。深紅の男殺しの獣で、偉大なるバビロン女だ、そいつが股を開けば、全てが変わる!あくどい商いをしながら、潔白を証明し、その実、死を恐がっている我らが同盟に祝福あれ、だよ!


アンドレア 死を恐がるのは人間的です!人間的な弱さは、科学とは関係ありません。


ガリレオ そうかね?──サルティ君よ、こんな状態にある私でもまだ、君が身を捧げている科学はすべてのことに関係があるのだ、というのがどういうことなのか、いくらか指摘してあげられそうな気がするよ。



地動説の撤回以後も、ガリレオは自然の探求を止めてはいなかった。一度は師を見限り、交流を絶っていたアンドレアも、その衰えぬ科学的探求心に触れ、また極秘にコピーされた著作(オリジナルは書くたびに教会に没収される)を託されたことで、ガリレオへの尊敬を新たにし、上記のように言ったのです。


ここでは明らかに、アンドレアにわたしたちがいかにもイメージする科学者像・理念が写されている一方で、弟子の言葉に水をさすガリレオに、あるべき(とブレヒトの考える)科学者像・倫理が写されています。


解説によると、この作品の第一項(デンマーク版)が執筆されたのが1938,39年であり、アメリカ版、そして1955,56年のベルリン版と書き直されました。


無論数々の化学兵器や、その究極と言える原子力爆弾が現に存在することとなったという状況認識が、この作品を覆っています。ブレヒトが亡くなったのは1956年ですが、それ以後も科学が繁栄とともに何をひとに与えたのかは、語るのも陳腐でしょう。


あたかも匿名のように振る舞って、科学のみに貢献することなどできない。他のあらゆる行為と同じく、それは固有の名において、個的な欲求において行われているはずだ。さらに科学は個人的な楽しみ=探求に収まるものではない。それはあらゆることに関係している。世界と独立してあろうなどとは思うな。死を恐れ弱い人間であること、「科学者」とはそれを捨てる仮面ではないこと──その自覚を倫理としてガリレオ(ブレヒト)は語っているのだと思います。


現在に至っても、とうの科学者があたかも「科学者」としてあるとしたら論外ですが、私たちのイメージにおいても未だに、およそ人間離れした「科学者」が描かれ、時に望まれてはいないでしょうか?


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