第三十八どんとこい 「冥土めぐり」 | ナメル読書

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時にナメたり、時にナメなかったりする、勝手気ままな読書感想文。

「冥土めぐり」(鹿島田真希、文藝春秋2012年9月号所収)


こんにちは てらこやです


鹿島田真希「冥土めぐり」を読みました。今年度上半期の芥川賞を受賞した作品です。


何度も推敲を重ねたと作者も述べているだけあって、明瞭な言葉を重ねながらも冗長な場面はなく、最後まで緊張が持続します。ひとによっては扱われる題材、表現方法に新鮮味がないと感じられるかもしれませんが、それでも作品の芯のつまり具合、(登場人物たちの脆弱さとは反対の)逞しさは好ましく思えます。特異な作品を評価し、奨励することも必要ですが、同時にきわめて総合点の高い作品(それゆえ、注目されづらい作品)にも、脚光を浴びる機会を与える必要があるでしょう。


主人公の奈津子は、脳の病によって四肢の不自由となった夫、太一とともに海辺のホテルへ出かける。歴史あるリゾート・ホテルは、祖父の富を享受した、母の栄華の象徴のような場所だが、現在では区の保養所指定を受けるに至っている。


旅行を無邪気に楽しむ太一とは対照的に、奈津子は自分の生まれた家庭環境を思い出す。現実感覚に乏しく、虚栄心のみを肥大させた母、弟に精神的にも経済的にも依存され、家庭内被害者であった奈津子。そこからわずかでも離れることができたのは、太一との結婚があり、さらには皮肉なことに太一の脳発作があったからだった。


旅中、奈津子は家庭内の暴力を思い出して激しく混乱するとともに、太一の身に起こったことにも改めて思いを寄せる。奈津子には、世界が理不尽なものとして対峙するが……という話です。


登場人物たちはみな欠点を持っています。母や弟、夫の太一もそうですが、奈津子だって例外ではありません。


「快感を反芻するように目を細めた太一の表情は、世の中には意地悪をする人など絶対いないと信じている、過去にした人がいたとしても、すぐにその人の存在を忘れてしまう、そんな可哀想な人間の表情だ。奈津子はなぜか痛みを堪えるかのように微笑する」


ふたつのセンテンスの内、前者は奈津子の一人称独白で、後者はそんな奈津子を描写するものです。


人間に対して、無邪気で無防備な太一を、「可哀想な人間」と奈津子は即座に断じます。しかし、外から見ると、奈津子は痛みを感じながらも、それを堪えている──痛みを表にださないように意図しながらも、それに失敗しているのです。


なぜ痛みを感じるのか。その理由はさしあたってふたつ考えられます。ひとつは、その生育歴から当然人間に対して不信を抱いている奈津子が、太一の到底世間では通用しない純粋さを見て不安を感じている、というもので、ふたつめは、そんな純粋さを「可哀想な人間」と断じてしまうことに胸を痛めている、というものです。


いわば純粋さに対する反発と憧れですが、その両方が奈津子の中にあったと考えてもよいと思います。反発にせよ憧れにせよ、いずれにせよ奈津子は純粋さに対して距離をとらざるを得ない(と自分で規定している)のであり、それが奈津子の欠点です。


だから奈津子は太一を庇護しますが、庇護されることはできません。それに値しないと思っているからです。


昔受けた冒涜について打ち明けようとしても、奈津子はそれを堪えてしまいます。


「太一はその苦しみの全てを吸収してしまうかもしれない。受け止めてしまうかもしれない。太一は、鼻水をたらして泣くかもしれない。だから奈津子は話さない。そんなありがたいものは、見たくないのだ。あんな生活を潜り抜けてきた自分には、そんな純粋なものは不向きであると思うのだ」


自分を純粋なものに不向きだと決めつけてしまうのは、自分を純粋だと思いこむのと同じくらい「可哀想」なことです。そんな奈津子の自己認識が、作品が終わる頃にどうなるのかも読みどころだと思います。


ひとつだけ難点を言います。


太一は作品中聖なる愚者という位置づけですが、その描写があまりに文学的な正しさに従順すぎてはいないでしょうか。例えば聖なる病、脳発作(てんかん発作)中には「数秒、とても神聖な沈黙が訪れ」、世知に疎い太一は足湯まで知りません。


この非現実性とバランスをとるために、アダルトDVDやグラビア雑誌といったアイテムを対置しますが、それではつり合いがとれていません。例えば大江健三郎の作品に出てくる「イーヨー」の食べる「排骨湯麺」と言ったような、思いがけない取り合わせだが、いやに生々しいアイテムが欲しいところです。


最後に難癖をつけてしまいましたが、それは卑しい嫉妬心を押さえきれなかったというだけの話に過ぎません。些細なイチャモンでは揺るがない強さをこの作品は持っているので、興味をもたれた方はぜひ読んでみてください。


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