第二十二どんとこい 「アブサロム、アブサロム!」 | ナメル読書

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「アブサロム、アブサロム!」(フォークナー、藤平育子訳、岩波文庫)


こんにちは てらこやです


「アブサロム、アブサロム!」を読み終わり、さてどうしたものか。


アメリカにおける、南部/北部、白人/黒人(さらにwhite/poor white)、男/女という問題軸、さらにアメリカ文学/ヨーロッパ文学といった軸、それらいずれについても全然知らない身としては、ただ読んだという体験を拠り所とするしかありません。そして、それが案外と有効であるかもしれないのがこの作品なのです。


ひと連なりであったはずの過去の時間は切り刻まれ、幾人もの媒介者を通じて──つまり変形・独断・偏見・憶測を余儀なくされる語りを通じて──読み手に提示される物語は、もとから胃の腑に収まることを拒否しています。トマス・サトペンを中心としたサトペン家の興亡は一般に悲劇とされます。確かに、起こる出来事は悲惨きわまりありませんが、何が故に悲劇であるのかははっきりとしません。


それは精密に読み込めば真実が浮かび上がってくるという類のものではないし、だからといって解釈の多元性といった格好のいい言葉があてはまるものとも思えません。そもそも単数、複数に関わらず因があって、果が生じているのではなく、因果を越えた忌まわしい出来事だけがそれ自体確固たるものとして存在しているように思えます。そして、この作品で行われるのは、クエンティンとシュリーブによる事件への治癒的試みと、その挫折です。


サトペン一族をめぐり、何が起こったのかという筋を追うのはそれほど大変ではありません。作品冒頭で、すでに起こることは提示されてしまっているとさえ言えます。


「そのうち、聴覚が戻ると、彼は二人の別々のクエンティンの声を同時に聞いているように感じた── 一人は、南部にいて、一八六五年以降は死んで亡霊となり、望みを挫かれて怒り、あがき苦しんでいる饒舌な人たちのひしめく深南部で、ハーヴァード大学へ入学する準備をしながらも、おおかたの亡霊たちのようにおとなしく眠っていることを拒絶して、遠い昔の亡霊たちの話を聞かせようとする亡霊の一人に耳を傾けている、また傾けざるを得ないクエンティン・コンプソンと、まだ亡霊になるには若すぎるが、それにもかかわらず、彼女と同じく深南部に生まれ育ったからには、いずれは亡霊となる宿命を免れ得ないクエンティン・コンプソンとの二人だが──この二人の別々のクエンティンは今、とても人間とはいえない人間たちの長い沈黙の中で、とても言葉とはいえない言葉で話しあっているが、それはこんな会話だった この悪魔は──その名前はサトペンといった──(サトペン大佐)──そうサトペン大佐だ。その男はどこからともなく、何の前触れもなしに、見たこともない黒人の一団を従えてこの土地に現われ農園を造った──(乱暴に切り裂くようにして農園を造った、とミス・コールドフィールドは言う)──そうだ、乱暴に切り裂くようにして造った。そして、彼女の姉のエレンと結婚して息子と娘を生ませた──(優しさのかけらもなく生ませた、とミス・コールドフィールドは言う)──そう、優しさのかけらもなく生ませた。子供たちはその男の自慢の宝となり老後の楯でも慰めでもあったはずなのに──(子供たちがその男を破滅に追いやったのか、それとも彼が子供たちを破滅に追いやったのか、何ともわからないが、とにかく死んだ)──とにかく死んだ。誰からも悔やまれずに死んだ、とミス・ローザ・コールドフィールドは言う──(彼女以外の誰からもだ)。そう、彼女以外の誰からも。(それと、クエンティン・コンプソン以外の誰からも)。そうだ。それとクエンティン・コンプソン以外の誰からも」


なんなら下巻に付属する年表さえ読めば、この作品の粗筋は書けてしまいます。しかし、それを書いたとしても、またそれを読んだとしても、この作品を覆う不穏な、引きつける力に触れることはできません。


語るという行為をふたつに分けてみたとき、それは終わらせないための語りと、終わらせるための語りとがあるように思います。前者は昔ながらの語り部で、後者は心理療法の患者に代表されます。特に後者の方は、語ることで出来事の忌まわしい力を解消してしまおうという試みです。それは語ることによる解釈であって、(聞き手=カウンセラーの力を借りるとしても)その解釈が当人にとってさえ了解可能なものであればよいという意味で、個人的な行為です。


さきにあげた引用にこだわるなら、着目すべきは、クェンティンがすでにして終わらせないための語りを「強いられている」という点です。クェンティンとサトペン一族をめぐる接点はほぼないと言ってもかまいません。クェンティンの祖父がトマス・サトペンと友人であったというだけで、彼が生まれた時点で主要人物のほとんどが死に、事件は起こってしまっています。


トマス・サトペンの義妹であるローザになぜだか呼び出され、時系列的にはほぼ最後といってよい事件に巻き込まれますが、それだって、彼自身にとってはなんら傷を負うようないわれのあるものではありません。やたらとサトペン事件に関心を持つシュリーブは、彼とともに解釈=治療する=終わらせることを試みますが、よく考えてみればクェンティンにはそもそも語る理由などないのです。


それでもクェンティンは語らされてしまいます。時に自分の言葉を失い、「亡霊」たちの語り口で、語ることを強いられます。個人であることを剥奪されているにも関わらず、クェンティンが苛立つのはそのことにではなく、あくまで解釈しようとするシュリーブに対してです。


語るという行為にはふたつの意味があるのではないかと書きましたが、そもそもクェンティンは語ってなどいない、語らされているだけだということは重要です。


語らされるという、ひどく隷属的な立場に置かれながら、それを受け入れているという点。そして、それを解釈へと転化することにむしろ抵抗しているという、20世紀に生まれた人間にとってはおよそ考えられない事態こそが、この、筋だけ追えば陳腐とさえ言える事件に、潜む力を証している、あるいは、小説的には暗示的な力を与えているのです。

 

アブサロム、アブサロム!(上) (岩波文庫)
アブサロム、アブサロム!(上) (岩波文庫) フォークナー 藤平 育子

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