第十九どんとこい 「マイナス 1」 | ナメル読書

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時にナメたり、時にナメなかったりする、勝手気ままな読書感想文。

「マイナス 1」(J・G・バラード、創元SF文庫『終着の浜辺』所収)


こんにちは てらこやです


今回も好きな作品を読み直すシリーズです。紹介するのは、J・B・バラードの「マイナス 1」。


舞台となるグリーン・ヒル病院は、病院とは名の付くものの、実際には富裕層のための私設収容所となっています。家にいてもらっては都合の悪い親族を病人として預かっているのです。そのため、この病院においてもっとも重要なのは、病を治癒し病人を退院させることではなく、むしろ完全に世間から隔離し続けることにあります。「患者」が外部に出ることなどあってはならないのです。


到底脱出など叶わない環境下で、ヒントンというひとりの患者がいなくなります。その経路も、またその手段も痕跡もいっさい残さずに消失してしまったのです。さきの理由から警察には知らせずに、院内の人間で捜索しますがヒントンは見つかりません。時間を追うごとに責任問題が深刻化する中で、院長メリンジャーはどうするのか──という話です。



──ここからはネタを割ります──



責任者として追いつめられたメリンジャーは、この事件の問いを転換します。つまり、どうやって、そしてどこへヒントンは消えたのか、という問いから、ヒントンという存在はそもそもあったのか、という問いへの転換です。


「奴はどこにいるのだ?」
 彼の居場所よりもむしろ、いるのかいないのかという点に、重点を移した質問だったが、それはあたかも、彼が作者兼主役であるこの不幸な喜劇の中にあって、ヒントンを捜すという実りのない行動に代わって、彼の存在そのものをあらためて調査することのほうがより重要な意味をもっているということを暗黙のうちに示そうとしているかのようである。


もちろん通常の論理で考えれば、これは現実逃避であり自己欺瞞です。しかし剛腕で知られるメリンジャーは、ヒントンの非実在の可能性を部下へと拡散させ、事件をはじめから「起こらなかったこと」にすることに成功します(最後のオチでひっくり返されはしますが)。


「おそらくわたしがグリーン・ヒルのきまり切った日課からは超越した立場にあったことが幸いしたのだろうと思う。これがわたしだけの功績ではないことははっきり断っておくが、とにかくわたしは充分離れた立場から、ヒントンの失踪の真実の意味するところを考えた末、可能な唯一な説明に到達したーーつまりヒントンは決して実在の人物ではなかった」


この作品は山口雅也によるアンソロジーでも「未来の密室」として取り上げられています。密閉された空間から消失したXについて、その方法をめぐる議論から、そもそものXの存在の自明性を問うことに、密室の未来を見たのでしょう。実際に平成以降の日本の超有名作の中でも、この問いの転換が事件を説く鍵となっているものがあります。


今回読み直すまで、てらこやはメリンジャー自身も、この荒唐無稽な結論を信じ込んでいるものだと勘違いしていました。つまり追いつめられたメリンジャーの狂信が、グリーン・ヒル病院という小世界を支配していく話であると思っていたわけです。


しかし、今回読み直してみるとそれはちがっているのですね。さきに引用したように問いを転換できることに気がついたメリンジャーが、その証拠を作り出すために──逆説めいていますが──密かにヒントンの個人ファイルを燃やす、というシーンがきちんと書かれているのです。メリンジャーはあくまで冷めています。正確にいうなら彼は、事件を「起こらなかったこと」にしたのではなく、「起こらなかったのだと部下に信じ込ませた」のであり、この意味でメリンジャーはヒントン事件の共犯者です。責任問題の回避についていえば、メリンジャーによるアクロバティックな犯罪小説であるといってもよいでしょう。


てらこや自身の好みをいえば、狂信者のままに世界が歪んでいく方が好きなのですが(実際バラードもそう錯覚させようとしているのではないかと思う点もあります。ヒントンの消失に気がついた医師ブースが、なぜ夜中にヒントンの元を訪れたのか、その理由を彼自身も説明できない点です。ここでは明らかに世界が歪んでいく予兆が見られます)、最高権力者と管理者との思惑の一致によって、被管理者の存在など「消失させられてしまう」という不気味さもまた捨てがたい、暗黒の魅力を持っています。


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