というわけで、「借りぐらしのアリエッティ」を観に行った。



宮崎駿脚本、新人の米林宏昌監督(1973年生まれ? うわ、私より年下やん!)。
以下、極力ネタバレしないように書きます。

思えば、「ポニョ」観てないんだったなぁ、と気づく。

「もののけ姫」のあまりのヒドさに宮崎駿監督を見限ったが、「千と千尋の神隠し」が意外に(期待していなかっただけに)面白く、それでも「ハウルの動く城」というワケのわからないシロモノを作り、やはり、ジブリ的には「宮崎駿印は、もう厳しいのだな」と思っていた。
世代交代しなきゃ。

さて、今回はというと、基本的に画としては、間違いなく宮崎印。そして、ストーリー的にも、やっぱり宮崎印だった。

まず、冒頭の30分くらいか。小人のアリエッティの家族たちが「借りぐらし」している生活描写は、実に素晴らしい。
代表的な宮崎印といえば、空間の縦方向の移動。ちゃんと、やってます(「高所」へのあこがれと怖さが足りないといえば、足りないが)。

そして、何といっても「小人」たちの「日常」
我々が当然と思っている森羅万象すべてのものが、我々人間の感覚とは違って見えるし、違って感じられる。

我々の日常、普通に思えるものが、「小人」目線というフィルターを通すと、そこに所謂「異化効果」が起こる。

典型的な例が、液体(水滴)の描写だ。表面張力のため、一滴の水滴は、小人たちにとっては、ボヨ~ン汗とした、頭の半分くらいの大きさのカタマリになる。
ポットからお茶を注ぐとき、スライムみたいなボヨ~ンとしたお茶がカップにこぼれるという描写。
もしくは、雨粒の大きさ。衣服や髪に着いた丸い雨粒を手で払うという描写。

上手いっビックリマーク

と拍手を送りたい。
さすが、ジブリのアニメーターは「わかってる」。

個人的には、「ティッシュペーパー」にめったやたらと感激しました。

いやあ、たった1枚(ホントは2枚重ねか)のティッシュで「ををををっビックリマークビックリマークと思わせる映画は、なかなか他に存在しませんよ。

といったわけで、「借りぐらしのアリエッティ」、少なくとも、お金払って劇場に足を運んで観る価値はあります。

しかぁ~し、である。

ハイ、持ち上げておいて、これから落とします。
以下、読みたくない人は読まなくていいです。
しばし改行。



























これも「異化効果」と呼んでよいのか? と疑問に思うところも、徐々に登場するのである。

まずは、昆虫

小人にとって、昆虫なんてとてつもなく恐ろしく、グロい存在であろう。なのに、劇中では、わざと可愛らしくデフォルメされて描かれる。

バッタの眼は複眼だヨ! なのに、哺乳類みたいな白眼と黒眼があったり……

ダンゴムシをボールにして遊んだり(王蟲キタ━━━(゚∀゚)━━━!!!と思ったのは私だけではないはず)、

ゴキブリさえもカワイイし……

まあ、それもこの「映画のなかのウソ」といえなくもないし、

「(この映画のなかでは)小人たちにはそう見えるのね」

と解釈できない……わけではない。
これもまあ……一種の「異化効果」なのね……と弁護したいのだが……

でもさぁ、だったら、その後に「バッタ(イナゴだったっけ)の脚はグロい」っていうエピソードが出てくるのって、おかしくないか??

「異化効果」を、実にご都合主義的に使っていることが、徐々にバレてくるのである。

少年、翔クンと出会ってから(つまり、映画が本題に入ってから)、ボロボロと出て来てしまう。

そもそも、「小人」たちにとって、「人間」は巨大で怖くてグロい存在のハズだ。

「小人」と「人間」の絶対的なコミュニケーション不全。
両者の共存不可能性。

これこそ、この映画のテーマでもある……ハズ。

わかりやすい例として、人間の声は小人には大き過ぎるし、逆に小人の声は人間には小さ過ぎる……ハズ。

なのに、フツーの声で互いに会話できちゃうの??

しかも、アリエッティの声が翔クンにしか聞こえない、という(そうとしか思えない)場面もある。
うわ、そんなところで声出したら、樹木希林(いや役名は「ハル」なんだけど、見た目が100%樹木希林なんだもん)に聞こえるやん!!
……と思ったら、どうやら聞こえてないらしい。

まあ、これも「映画のウソ」というやつで、心の清らかな翔くんには聞こえるけど、大人には聞こえない……という「小人」は一種の精霊的な「トトロ」的存在の世界なのね、とムリヤリ忖度してあげられないことも……ない……かな。

映画は(実写でもアニメでも「ドキュメンタリー」と呼ばれているものであっても)極論すれば「ウソ」であり、一度「ウソ」をついたら、とにかく徹底して映画が終わるまで「ウソ」をつきとおさなければならない。
そうでなければ、「映画」というもの自体が成立しない。

アニメならば、なおのことである。例えば、
「兵器をわざわざ二足歩行の人間型にするなんて、軍事的にありえねーじゃん」
と言われたら、「ガンダム」は成立しない。

つまり、今回の「借りぐらしのアリエッティ」は、都合のいいときのみ「ウソ」をつき、都合が悪くなると、「ウソ」をつくのをやめる……もしくはその逆、という、たいへんにイビツな形の映画になってしまった。

……この辺、気になる人は気になるだろうし、ならない人はならないだろう。
幸か不幸か、私は、めっちゃ気になってしまう人間である。
「さっきやってたことと違うやん!」
……と(イヤな観客だね、我ながら)。

この言葉はあまり使いたくないが「ツッコミどころ」が山盛りである。

ネコの「ニーヤ」の扱いとか……(「小人」たちと、その存在に気づいているらしい「ニーヤ」と、同じくその存在に気づいているらしいカラスの関係性がよくわからん)

あろうことか、まさかこの「ニーヤ」が「ネコ○ス」だったとはっ!(思わず笑いました)

あるいは、そもそも翔クンが○○○だという設定、要らなくないか?(物語上でまったく機能していない)

もっとも許し難いのがラストである。

アリエッティって、身長何センチだっけ?

……っていう物語の根本にも関わりかねない疑問を、最後の最後に抱かせちゃうか?

予告編にも登場するが、アリエッティは、「スケール」(要するにサイズの比較対象)となる「まち針」を腰に差している。
……ということは、だいたい身長の見当はつく。
「あ、我が家の『綾波レイ』の食玩フィギュアと同じくらいね」
などと。
ということは……アリエッティの「シンボル」的なアレ、勝負するときには必ず身に着けるアレ(人間からの「借りもの」)の大きさは……
「ん? さっきのカットと今のカットで、1.5倍くらいにデカくなってない!?

とまあ、いろいろと不満が募ってしまうのであった。

しかし、初監督作品だし、まだ若いし、ジブリには宮崎駿、高畑勲両者がノータッチの隠れた名作「海が聞こえる」という作品もあるし、今後の(宮崎・高畑抜きの)ジブリに期待する。

追記:
もっと下世話な話。
アリエッティと翔クンが結ばれることは、決してあり得ないッティ。
だって、物理的にサイズが違うんだもん。
ということは……この展開からすると、種族保存のため、アリエッティが今後結ばれ得るのは……彼?
いや、声をアテてるのは藤原竜也だけど、見た目も行動も「ジムシィ」(もちろん「名探偵」でもなく「現・カリフォルニア州知事」でもない「未来少年」コナンの親友)だぞ。
それもあり得ないッティ!
……と思ってしまったのは私だけではないはずだ。人を見かけで判断しちゃいけないんだけど。
あ、それがこの映画の教訓か……。