本年1月1日付けの当ブログ「あけましておめでとうございます」で表明した、関東ローカル枠における『太陽にほえろ!』再放送ヒストリーは、少しずつではありますが進行させています。今回はその経過の一端を紹介していきましょう。


まずは、なんでこんなビミョーなもの作ろうと思い立ったのかをあらためて述べますと、本放送はその日はどんな内容の作品だったかとか記憶がすぐに蘇ったり、なによりもいまはリスト化されていますから振り返ることは容易です。しかし、再放送のものは、いつもやっていたわけではなく、何ヶ月間かやったら他の作品が入ったり、年末年始などは休止していたものです。なので、記憶があやふやなんですよね。自分自身も含めて、そういったものを補完する目的で作ります(当ブログ 「あけましておめでとうございます」 より抜粋)。


それから、かの『妖怪ウォッチ』でもパロディーにされたくらい誰もが知る『太陽にほえろ!』(1972~1986年、日本テレビ-東宝)は、大まかに分けて三種類の視聴者がいました。


(1) 金曜夜8時からの本放送だけを観ていた人

(2) 金曜夜8時からの本放送と同時期に夕方の再放送枠で放送されたものを観ていた人

(3) 本放送も夕方の再放送も終了後に、1990年代にリリースされたビデオ、CS、DVDで初めて観た人


以前、年上の知り合いと会話してて、なにげに『太陽にほえろ!』の話題が出たところ、リアルタイムで最初期の萩原健一演じるマカロニ刑事編からよく観ていたと話してくれました。一方で、夕方4時からの再放送は部活をやっていた学生時代だったり、大学・社会人になっていったので、ほとんど観た記憶がないとも。これが(1)ですね。また、(3)のような方にとっては『太陽にほえろ!』は一期一会のテレビ番組としてではなく、映像作品としての視聴感覚かと思います。


それで、昭和48年(1973年)生まれの自分はといえば(2)に当て嵌まります。幼児から小学生、そして中学生時代に『太陽にほえろ!』の本放送と併行して再放送もやっていて、通っていた保育園や学校から帰ってくれば、4時からの再放送を観ていたという。だから、自分にとっては『太陽にほえろ!』は本放送とともに再放送も同じくらい思い入れが強いんです。



相変わらず前置きが長くなってしまいましたが、それではここからいよいよ研究発表を。


関東ローカルにおいて、初めての『太陽にほえろ!』再放送が始まったのは、本放送から四年も経った1976年9月15日(水)からでした。平日月曜から金曜に掛けての午後4時からの放送で、初日はもちろん第1話である「マカロニ刑事登場!」(1972年7月21日放送)。


1976年9月15日(水)日本テレビの番組表(同日の『読売新聞』テレビ欄より)。

当時は2時から6時半までが、いわゆる再放送枠であった。



そこからマカロニ刑事役の萩原健一が殉職という設定で降板した「13日の金曜日マカロニ死す」(1973年7月13日)を経て、本放送通りに次の回でジーパン刑事として松田優作が初登場する「ジーパン刑事登場!」(1973年7月20日放送)から殉職設定で降板した「ジーパン・シンコその愛と死」(1974年8月30日放送)までが再放送されました。期間にして、1977年2月18日(金)までの五ヶ月間となります(なお、翌週2月21日からの同枠における後番組は石立鉄男主演のホームコメディー『水もれ甲介』がスタート)。


『太陽にほえろ!』におけるモノマネ芸の先駆けであった石橋貴明(とんねるず)と柳沢慎吾はともに1976年度は中学三年生。石橋貴明は野球部だったそうですが、中三の秋以降は引退していたはずですから、この4時からの再放送はきっと観ていたことでしょう。それでマカロニ刑事やジーパン刑事のモノマネに、より磨きを掛けていたんじゃないかと思います。


さて、再放送初日である1976年9月15日は、『太陽にほえろ!』の本放送で沖雅也演じるスコッチ刑事が登場した直後です。この頃の『太陽にほえろ!』はそれこそ全盛期中の全盛期だったので、再放送は四年も待たされた視聴者からの強い要望でしょう。一方で、再放送の役割は本放送ドラマの前宣伝も請け負っています。1976年10月から日本テレビ系で萩原健一主演の『前略おふくろ様』(第2シリーズ)が始まりますから、それへのアシストでもありました。



日本テレビ広報誌『うわさのテレビ』1976年秋号

『前略おふくろ様』(第2シリーズ)の萩原健一、『ひまわりの道』の三浦友和

『俺たちの朝』の勝野洋を表紙に掲載して推している。



『太陽にほえろ!』の最初期は欠番回が多いことで知られています。これらは初回再放送から実施されていたことを確認しました。反対に欠番回と知られるもの以外で、なんらかの事情で放送が見合わせられた回もあるんじゃないかと探してみましたが、それは杞憂に終わり、この初回再放送におけるマカロニ刑事編およびジーパン刑事編ではありませんでした。


放送回ではなく、放送日で見ていくといろいろ面白いことが判ります。期間中の土日以外で放送されなかった日もありました。まず、1976年10月11日(月)と翌10月12日(火)。当初は放送されるはずでしたが、前時間帯2時から3時55分までの2時間枠で、プロ野球デーゲーム 巨人対阪神(後楽園球場)の生中継が組まれていまして、それの延長により4時からの『太陽にほえろ!』第20話「そして愛は終わった」が二日続けて流されてしまう事態に・・・。ようやく10月13日(水)になって放送。この回は本放送当時も再放送当時も絶大なる人気者だった沢田研二のゲスト主演回でして、「『太陽~』で最初の方にジュリーが出ていた」ということはこの頃にはもうすでに語り草になっていましたから、ファンにとっては結構やきもきしたんじゃないかと思います。


1976年といえば、長嶋茂雄監督率いる読売巨人軍が前年の最下位から一躍リーグ優勝を成し遂げた年です。放送休止がなされた10月11日と10月12日は勝率が僅差だった1位巨人と2位阪神の頂上決戦でして、ここで巨人が二戦とも勝利し、阪神を突き放して優勝を確実にしたという意義ある試合でした。ちなみに、10月11日は王貞治がベーブ・ルースのホームラン記録破る715号を打った日でもあります。優勝に向かう巨人の勝利も含めて、今回の調査資料としている当時の新聞ではスポーツ欄ばかりではなく一面や三面まで大々的に王のベーブ・ルース越えを伝えていました。


王貞治 ベーブ・ルースの記録を抜く715号ホームラン (1976.10.11)

https://www.youtube.com/watch?v=2c_OJ3NpL6U


それで巨人がリーグ優勝したことにより、当時デーゲームで開催されていた日本シリーズ 巨人側の主催試合を日本テレビで放送することになりました。その影響によって放送されなかった日が出てきます。先述した「そして、愛は終わった」と同様に野球中継延長により、10月25日(月)放送予定だった「奪われたマイホーム」は翌10月26日(火)に順延、11月1日(月)放送予定だった「刑事の指に小鳥が…」は11月3日(水)まで二日続けて順延しました。1970年代の本放送は金曜日に巨人戦のナイターがあったとしても深夜枠の録画中継に廻されるくらい『太陽にほえろ!』の放送スケジュールは確固たるものでしたが(例外は1977年9月2日に王の756号本塁打待ち試合中継で当日になって突如休止)、初回再放送は結構なまでに巨人戦中継による余波を受けていました。


当ブログ記事 「俺たちは天使だ!」と巨人戦中継の関係

http://ameblo.jp/goro-chayamachi/entry-11922406167.html

『太陽にほえろ!』と同じ日本テレビで放送されていたドラマ『俺たちは天使だ!』は

1979年4月から11月まで全20回放送したうち、9度も巨人戦中継による番組休止を受けていた。



年末年始の休止も興味深いところでした。1976年内は結構押し迫った12月30日(木)まで放送されていて、その日は第76話「おふくろ」。本放送日が奇遇にも(1973年)12月28日と近似しています。12月31日(金)は長嶋巨人の激闘と殊勲を讃えて振り返る特番で休止。年が明けた1977年1月1日(土)、1月2日(日)を挟んで、1977年1月3日(月)はバラエティーの特番だったものの、三が日が終わった翌1月4日(火)からさっそく再開していきます。また、放送期間は祝日が多い秋から冬ではありましたが、その祝日ならではの特番が挟まれるといったことで一度も休止してなかったのは意外です。初回再放送は、かなりの勤労者だと伺えます(笑)。


というわけで、今回はここまで。書籍にする場合は、こうして文章で辿るだけではなくリスト化して見やすくしたり、もっといろんなコラムも付けたいかと考えております。それでは、(いつになるかわからないけど)次回に乞うご期待!