春から夏にかけて、
夏から秋にかけて、
秋から冬にかけて、
そしてまた冬から春にかけて、、
季節の変わり目はノスタルジーがフルマシンガン。
のみならず、
黄金色の夕陽が空に映える瞬間や、
濃い紺色の奥に微かに薄い明るさを残す日没後等々。。
そんな短い一瞬にもノスタルジーが駆け巡る大運動会。
ノスタルジーとは何ぞ?
きっとそれは何らかの具体的な思い出から喚起されるものではなく、
ぼんやりとした、曖昧な、何となしな感傷が積み重なって出来上がるものなのではなかろうかと、、。
我が輩が自分史上、初めて季節の変わり目に遭遇した時、恐らくぼんやりした抽象的な何かを強く感じたのに違いない。
そして次の季節の変わり目に遭遇する時、そしてその次の、、そしてまたまたその次の変わり目に遭遇する時、やはり抽象的な何かを強く感じたに違いないのだ。
一周めぐって、さらにもう一周めぐって、さらにさらにめぐりめぐって、、
その抽象的な何かはその強度を深めていく。
しかしその抽象的な何かはどれだけその強度を深め、リアルな感触を得るようになったとて、
それは具体的な何かになる事など決してないのだ。
そのギャップが歯痒く、ムズムズし、もう落ち着いてなどいられない。
我が輩には角が生えておる。しかし医者は我が輩には角は生えていないとほざく。
世間はどうやら梅雨入りしたようだが、この季節になると我が輩の角はとてもむず痒くなって困る。
思う存分かきむしってサティスファイしたいのだけれど、我が輩の手は角のてっぺんまでギリギリ届かない。あともうちょいなのだが届かない。
もどかしい事この上ナッシング。
自分じゃ届かないからとりあえず他人にこの角を掻きむしってもらおうと頼む。
しかしその他人は我が輩には角は生えていないとほざく。
ほざけ。なめるな。ここに生えてるだろうがよ!立派な一角獣のようなそれがよ!
その他人からは、「お前がほざくな」とほざかれる。
ああ、痒い、むずかゆい!
気の利く別の他人は「まかせろ」と掻いてくれる。
しかし見当違いのトコロを掻きやがる。違うだろ。そこじゃねぇだろ。
てめぇの目は節穴か?そんなトコに角なんて生えてねぇよ。そこじゃなくてここだろうがよ!
その気の利く別の他人から「お前の抽象は具体的過ぎる」とほざかれる。
お前らだって具体的なフリして実は抽象の寄せ集めだろうが、と我が輩は言いたい。
我が輩が自分史上、初めて黄金色の夕陽が映える空を見た時、恐らくぼんやりした抽象的な何かを強く感じたのであらう。
そしてそれは回を重ねる度に強度を深めていったのだ。
決して具体化する事はないけれど、ひたすらその強度を深めていったし、
これからも深めていくのだ。
そしてそのギャップに悶絶するのだ。