「デロイを探せ!」(その47/48)でアップしたソ連向けデロイの出荷計画の続報が出来ていないのですが、新たに1948年の「北」におけるデロイ写真を発見したので御紹介します。
まずは写真をご覧ください。
掲載場所アドレスは以下の通りです。
http://japan.dailynk.com/japanese/read.php?cataId=nk00100&num=7406
日本語キャプションでは「北朝鮮にとって最大の難関だった平元線の開通後、テープカッティングをする金策副首相」とあるのですが、これは少し間違いで、日本統治時代に平元線は開通しており、韓国語版にもある通り「平元線電化工事開通式」が正です。
そうなると、1948年の陽徳/泉城間50.8kmの電化工事竣工時の撮影と思われます。
形式名は不鮮明ながら、5という数字が見えますので、デロイ5の可能性大です。おそらく当時はチョンギハ5という形式になっていた筈です。
この機関車がデロイ5とすると、戦中6両が完成した東芝デロイの内、1944年10月に竣工し、かろうじて戦中に出荷となった最後の一台となります。
丁度同じような角度から撮影した三菱デロイ(デロイ33)の三原における戦後撮影の写真がありますので対比用に再掲します。(つばめno巣 有田様有難うございます)
「北」の図鑑から電化区間建設の詳細(再掲)
デロイ出荷の経緯の纏め(これも再掲)
さて「北」のデロイ5についてもう一度よく観察してみますと、前面窓部分に格子状のガラス破損防止柵があるのが気になります。今手元に資料がないのでうろ覚えなのですが、鉄道ピクトリアル1974年4月号に「戦後のデロイは落石時の破損防止用にガラス保護棒とスノープラウを付けていた」と記事がありましたが、これがそうなのでしょうか?
そういう観点で、以前「とよんぽす」様から頂戴した朝鮮戦争後の復興時期のデロイ写真を見ますと、画面左上の方に見えるデロイ(?)にも同じガラス保護棒があるのが確かに見えます!
ところでテープカットしている金策副首相ですが当時は産業相という立場にも居たので来賓として来たのでしょう。金策副首相は初代指導者の片腕とも呼ばれた人ですが、このテープカットの3年後亡くなっています。
金策副首相(ロシア語版Wikiから)
本人の功績が讃えられ、現在では都市の名称、大学の名称にもなっているそうですが、一方では変死説も根強く、死因も戦死とも病死ともガス中毒死ともありますが、暗殺という説もあるそうです・・・
写真を見ますと、現在の「北」の国旗が見えますが、この国旗が制定されたのは1948年9月ですので、来賓の服装とも見て1948年の秋から冬にかけての撮影ということになりそうです。
探せばまだまだ眠っている記録がありそうです。
それではまた!