昨晩は、例によって、イオンのスターバックスで、いろいろ書き物をしていました。
コーヒーが大好きな私なんですが、ブラックは、あまり好みでありません。
いつもミルク(クリープとかではなく)を入れます(邪道と言わないで……)。
俗に言う「カフェオレ」ってヤツです。
今日、私がコーヒーを飲もうとしたところで、知人の女性から声をかけられました。
「ミルクコーヒーですか?」
「えぇ、猫舌なもので……」
「そういえば、何で猫舌って言うんでしょうね?」
「そうですねぇ……、
猫の下は薄いからでしょうか?
(かなりテキトーな答え)」
「あー、なるほどー。
だから、猫は小さな声で
ニャーとしか鳴けないんですね」
そうか、そうか、と納得しながら、その場を去っていく知人の女性。
何か、いけないことをしてしまったかのような罪悪感が……。
皆さん、こんなことありませんか?
(やっぱり、ないよね……)
さて、「布施」の話の続きです。
お釈迦さまの話に感動した貧しい少女の難陀(なんだ)は、
ぜひ自分も布施をしたい、と懸命に努力し、
わずかなお金を手にすることが出来たのでした。
これで会場を照らす灯火の一灯分の油を買おうと油屋に走るも、
お金が足りませんでした。
・・・・・・・・・・
「どうにかならないでしょうか。
今日一日求め歩いて得たお金なんです。どうか……」
店の土間に膝をつき、頭を下げたが、主人はまだ渋っている。
「見てのとおり、うちも貧しい商いなんだ。
分けてやりたいのはやまやまだが、お金がないのでは仕方がないよ」
「無茶は承知です。
お金が足りないなら、できることを何でもさせていただきます」
そこまで言って、ふと難陀は束ねた黒髪に手をやった。
薄汚れてはいるが、
“あんたの髪は、黒くてしなやかだね。売ればいい値がつくよ”
と以前だれかに言われたのを思い出したのだ。
「もし、この髪が足しになるのなら、今すぐ切って差し上げます。
どうか、油を分けていただけないでしょうか」
なお懸命に頭を地面に擦りつけた。
店主は依然として承知しないようだが、難陀から何かを感じ取ったのであろう。
しばし沈黙した後、柔らかい口調でこう尋ねてきた。
「なぜ、そこまで熱心に油を求めるんだい?
一体、何に使うの?」
難陀は顔を上げ、昨日、初めてお釈迦さまのご説法にあったこと、
その教えがだれにでもかかわりの深い、大切なことであること。
そしてその教えをお説きくださる仏陀に、灯明を布施したいのです、と訴えた。
じっと聞いていた油屋は、
「釈迦牟尼(しゃかむに)というお名前は私も聞いたことがあるよ。
だが、そんな大切なことを教えていられる方とは知らなかった。
灯火を施したいのだね──分かった。私も一緒に布施させてもらおう」
と、手際よく油を容器に分け、捧げ持って彼女に手渡した。
あまりのことに難陀は、一瞬戸惑ったが、事態をのみ込むと、
パッと心が明るくなった。
心から店主に礼を述べ、恭しくその油を押し頂いて通りに飛び出した。
西の空には太陽が、すでに半身を沈めていた。
翌朝、精舎では、仏弟子の目連(もくれん)が灯火の後始末をしていた。
大方の火は油が切れて消え去ったが、
中に一つだけ、夜明けを迎えてもなお、明々と燃える灯明があった。
目連は道具で覆って消そうとするが、一向に消えない。
"これはどうしたことか"
不審を感じて、釈尊にお尋ねした。
「昨夜の灯火の中で一つだけ、
依然として煌々(こうこう)と燃え続ける明かりがございます。
そればかりか、いくら消そうとしても消える気配がございません。
これは一体、どうしたことでしょうか」
その時、こう言われたという。
「それは難陀という女乞食が布施した灯火である。
その灯はとてもそなたの力では消すことはできない。
たとえ大海の水を注ごうとも、その灯は燃え続けるであろう。
なぜならその灯こそは、一切の人々の心の闇を照らそうとする、
海よりも大きな広済(こうさい)の心から布施された灯であるからだ」
布施の功徳は決して、量の大小によって決まるものではない。
その心こそ大切なのである。
「長者の万灯よりも貧者の一灯」
とお釈迦さまは教えられている。
・・・・・・・・・・
布施は、その心こそ大切、と教えていただいて、
「そうだなぁ」と思うことたくさんあります。
子供が、一生懸命作ってくれた手料理は、
一流のレストランの料理にはるかに味は劣っても、
お父さん、お母さんに喜んでもらいたいの心がいっぱい詰まっているから、
親にとっては、一生、忘れられない味と感じるのではないでしょうか?
好きな人のために一生懸命編んだマフラー(少し時代がさかのぼりますか?)は、
受け取った恋人にとって、お金に換算できない値を感じるものでしょう。
ついつい、金額や、その物の表面的な価値にとらわれて、
「こんな程度じゃ、何にもならないよ」
「あれに比べたら、価値が低いから……」
と考えがちなところが、私も含め、現代人にはあるようですが、
そのものの金銭的な価値をまったく問題にしない
“心からの布施”
を大切にしなければならないな、と思うのです。
布施については、まだまだ続きます。
(*^-^)
■┓徒然なる ●┓
┗● ひとり言┗■
昨晩、夕食を食べているときに見たテレビで、
なかなか面白い海外のCMを紹介していました。
お母さんの愛情を、独特の柔肌で独り占めしていた赤ん坊。
お父さんにとっては、赤ん坊に妻を取られた形になります。
(実際に、そのような赤ん坊の仕草もあり)
ところが、ふと見た新聞広告に、新型ヒゲソリが……。
そのヒゲソリで剃り、赤ん坊の滑らかな肌をお父さんは取り戻します。
これによって、お父さんは、対等の立場に戻りました。
お母さんの愛情を取られた赤ん坊は復讐を誓い、必死にトレーニング。
そう、戦うことによって、お母さんの愛情を取り戻すことにしたのです。
懸命の訓練により、さぁ、いよいよ決戦!
というところで、CMは終わります。
まぁ、「ヒゲソリ」のCMで、よくここまでのものを作ったものだ、と感心しました。
赤ん坊も、いつまでも赤ん坊ではないですからね。
あの、うるうるぷにぷにのお肌は、かつて、私も持ち合わせていたものでした。
(今もそうだったら、ちょっと不気味かも)
毎月、全国から御法話会場に多くの人が集まってきますが、
赤ん坊を抱えたお母さんの姿も、最近は多く見られるようになりました。
でも、しばらく見ないうちに、いつの間にか、
赤ん坊だった子が走り回っていたりするので、ビックリ!
「あれ?もうこんなにでっかくなったの?」
すっかりやんちゃ盛りになって、お母さんの手を焼かせています。
人生は、すごい勢いで進んでいるんだな、と赤ん坊の成長を見て思います。
自覚はなくても、時は、ものすごい速さで流れています。
鏡で見れば、ほとんど変化はありませんが、
それは赤ん坊にしても同じでしょう。
「昨日と比較して、だいぶ身長がのびたなぁ」
「昨日よりも、ぐっと重くなったぞ」
いくら成長の早い赤ん坊でも、急激に大きくなる赤ん坊はありません。
目に見えた変化はなくても、しかし、日々、着実に変わり続けています。
光陰矢のごとし、と先哲は言いましたが、
人間は、ただ、時を過ごすために生きているのではありません。
生きて果たすべき人生の目的のあることを、
仏教では教えられています。
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ぴょんたの
ひまわり日記
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