なぜ自殺してはいけないのか -死亡9- | One Size Fits All  思考録

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人生の様々な問題について、一切の思い込みを抜きに感じたことを考えて、本当のことはわからないとわかった上でさらに感じ考える…「本当はどうなんだ!」を追求する究極の思考

前回で本内容関連の記事は終わりましたが、コメントを頂いたので、返信をかねて追加記事を書きます。

やや長くなるので読みづらくならないように、あえて改めて別記事で書くことにしました。ご了承ください。


以下2点の内容のコメントを頂いた(と私なりに理解した)ので、これについて私の考えを述べます。

1.自殺への願望はよりよい生への願望の変形だから(こういう理由だから)、自殺をしてはいけない

2.自殺願望者はうつ病(正常な判断力がない)の疑いがあるので、自殺の善悪を問うよりも治療が先である

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1.について

まず前提として、私の根本的な思考方法としては、「一切の思い込み・前提条件を抜きにして、ゼロベースで」本当の所はどうなのかを、自分で考える。これは今までの記事でも書いている通り。

ゆえに、特定の人間(ダーウィン含む)の主義には立脚せず、むしろその主義が本当に正しいのかも考える。仮にその主義について考えるにしても、内容を知らないのに知ったかぶりしてあれこれ言う気は全くなく、純粋にそれは本当に正しいのかを考えるだけ。

しかしどこまで考えてもそれが本当に正しいかはわからないとわかる(無知の知)。

仮に「ダーウィニズム=人間の全欲求は生存に結びついている、死への欲求はよりよい生への願望」であるということだとする。しかし、なぜそうなのか、本当にそうなのかと考えれば、結局は本当の所はわからないとわかる。

自殺願望者が本心で何を考えているか、実は本当は生きたいと思っているのか、本当はやはり死にたいと思っているのか、それはどこまでいっても他人にはわからない。もしかしたら本人もわからないかもしれない。いずれにせよ、本人他人問わず人間には、本当の所はわからないということがわかるだけである。

とすれば、本当に「よりよく生きたいはずだから自殺してはいけない」のかもわからないはずである仮に言えるとすれば、「わからないとわかった上で、あえて考えるならばそう考えられる」ということだけ

最初から「~イズム(主義)」に捉われて固執するのではなく、「思考の末の無知の知」を経た上での主義であれば、説得力は少なくとも私は感じるということである。


紹介頂いたブログの記事を拝見する限りでは、「思考の末の無知の知」を経た上でのダーウィニズムなのではないかと思われます(全ての記事を拝見していませんし、ダーウィニズムの詳細も知らないので知ったかぶりするつもりもありませんが)。仮に前者のタイプだとしても、私がとやかく言うことではないので勿論否定もしません。いずれにせよ、私はゼロベースで考えないと納得できない後者タイプなので、そのように考えているということです。


2.について

前提として、一連の自殺関連の記事については、自殺願望者に対してではなく、自殺制止者(のうち特に第三者)に対して、主に書いた

たしかに自殺願望者については、うつ病かどうかは別にして、冷静な判断力がなくなっている可能性があると思われる。冷静に考えられるくらいなら、そもそも自殺をしようとは思わない(思えない)はずだから。

よって論理と倫理(善悪)を問うのは無意味ではなくても無力であろう。だから一連の記事でも自殺願望者向けに書いたつもりはなかった。

しかし自殺制止者については、自殺願望者よりは冷静な判断力があるはずである。とくに家族等以外の第三者ならば尚のことである。とすれば、そういう第三者がわざわざ他人の人生に介入してあれこれ言う以上は、論理と倫理(善悪)をよく考えた上で言うのが礼儀であり、またそうした思考の末の言葉でなく単なる通俗道徳・説教ならば、無意味とは言わないが説得力がない。だから一連の記事でも第三者向けに書いたつもりである。


なおそれを踏まえた上で、あえてその「第三者」に対してさらに言うと…

治療が先だということは、自殺は悪いという前提があるはずである。自殺は悪いと思うからこそ、それを避けるために、何はさておき治療が先となるのであろう。

しかし一連の記事で考えた通り、自殺が善いか悪いかは本当はわからないのだから、本当は治療が先かどうかもわからないはずである。わからないとわかった上で、あえて自殺が悪いと思う場合にのみ、治療が先だと言えることになる。

たしかに結論は「治療が先」で同じである。しかしここでもやはり、「思考の末の無知の知」を経た上でその結論を言うかどうかが大事である。自殺願望者本人や家族等ならそうした論理と倫理は無力かもしれないが、赤の他人の第三者ならば論理と倫理を自問自答するのが、他人の人生に介入しようとする際の最低条件ではないか。


繰り返しになりますが、自殺願望者に対してならば、まずは治療が先だという結論には特に異論はありません。ただ上記のように、私は自殺制止者(特に第三者)に対して書いており、彼らに関しては、治療が先だという結論を言うのはよいとしても、論理と倫理を自問自答しておくべきである、と言いたいだけです。


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以上、長くなりましたが私の考えです。なお、このブログを書くに際し、改めて念のため以下申しておきます。


メッセージボードにも書いた通り、私は一切の思い込み・主義を抜きにして、自分で考えて納得したい、本当の所を知りたい、という考えで書いています。ただしそれは「自分がそうしたいから(せざるを得ないから)そうしているだけ」であって、勿論他人の考え方を否定するわけではありません。また本当の所など人間の私にわかるわけがないので、わかったつもりになって他人に考えを押し付けることもありえません。


また、このように本当の所を知りたい(だけな)ので、それにつながる批評は大歓迎です。他人をやりこめたり誹謗中傷したりの非難や、勝ち負けや話術を競うような議論(ディベート)には、全く興味がありません。しかし純粋に、存在の謎や物事の本質に迫れるような対話(ダイアローグ)には、大いに関心があります

なので、特定の主義に拘ることがない分、共感できる所は素直に共感しますし、納得できない所は正直に違和感を述べます。また自分の考えに誤りがあると自覚できれば率直に認めて訂正します。

ということで、対話になりうるようなコメントは、遠慮なく頂ければ幸いです。


今後ともよろしくお願い致します。