筑紫太宰府における万葉歌人山上憶良 | 古の里 太宰府の四季と歴史

筑紫太宰府における万葉歌人山上憶良

万葉歌人山上憶良

太宰府市内には万葉歌人が詠った歌碑がところどころにあります。今回は山上憶良について紹介します。山上憶良は660年の生まれの奈良時代初期の万葉歌人で、百済系の帰化人説もあり、733(73)に没しました。彼の人生は寒門出身でそれ程、恵まれなかったとも言われますが、有力氏族栗田氏に従属し、70240歳にして遣唐使船に同行・帰国後は順調に従五位下(55歳で)まで今で言うノンキャリア?としては最高位まで昇り詰めました。本人としてまだまだ出世したかったようにも覗えます。彼の人生の節目は二つあったと思われます。一つは遣唐使として唐に渡ったこと、72660歳にし、筑前守に任命され、その2年後大伴旅人(大宰師)と大宰府で出会ったことではないでしょうか。誰でも教科書に出てくる山上憶良の幾つかの歌を暗記させられた経験があることでしょう。彼の歌はどちらかち言えば暗い社会派的な内容が多いのが特徴です。学校では機械的に暗記させられ、理解しがたい万葉集ですが、山上憶良の歌は凡人には理解できない面もあります。例えば・・・有名な歌があります。

     子等を思ふ歌

瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ 何処より 来りしものそ 眼交にものな懸りて 安眠し寝さる

反歌

銀も金も玉も何せむに勝れる宝子に及かめやも

大意は瓜を食べると子供のことが思われる。栗を食べると一層、子供のことが偲ばれる。子供はどこから来たものであろうか。眼前にむやみにちらついて安眠させてくれないことか。

銀も金も玉も子供の愛に比べると何になろうか。どんな秀れた宝も子供に及ばない。

 

しかしながら、この歌は憶良とすると不自然です。この歌は60歳過ぎの憶良が自分の心境を歌った内容ではないことは明らかです。専門家によると「子への愛の哀歌のまっただなか浮き沈みしながら、同時にその自分の姿を客観的に凝視して、人間の生そのものへの驚きと畏れと讃嘆とを表現しているとの内容等になっている」とのことです(谷口茂著、外来思想と日本人:玉川大学出版部)。このように憶良の歌はほとんど客観的で詠まれています。

例えば  

大野山霧立ち渡るわが嘆く息嘯(おきそ)の風に霧立ちわたる

これは大伴旅人の妻の死を慰めるため憶良が大伴旅人になり替わって詠った反歌です。

  このような深い内容の歌を中学、高校生に理解できる訳がありません。あらためてある年齢に達して万葉集を詠みかえすのも意義があることと思います。

大宰府政庁跡から観世音寺に行く途中にこの有名な歌碑があります。

  坂本八幡宮(政庁近く)境内にこの歌碑があります。
原文:大野山 紀利多知和多流 和何那 伎蘇可是尓 紀利多知和多流 

     大野山 霧立ち渡るわが嘆く息嘯(おきそ)の風に霧立ちわたる


 この歌碑は歴史スポーツ公園内にありますこの歌碑も上記の大野山・・・同様、大伴旅人の妻の死を慰めるため憶良が大伴旅人になり替わって詠った反歌です。




          歴史スポーツ公園内風景



観世音寺境内の山茶花