古の里 太宰府の四季と歴史
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残暑 観世音寺

最近の観世音寺


最近の観世音寺は随分整備され、綺麗なりました。夕方が散策に向いています。秋にあると観世音寺周辺はコスモスが咲き乱れます。観世音寺の歴史を知るとその価値がさらに倍増することでしょう。

昔の歴史の本を見ては散策されてはいかがでしょうか。

お薦めです。



古の里 太宰府の四季と歴史

古の里 太宰府の四季と歴史




  五月の観世音寺

五月に入り、再びガソリンが上がることになりました。それと呼応してか北海道ではフェンーン現象により30度を超える暑さとなりました。五月一日の太宰府市ではそれ程ではありませんでした。観世音寺は太宰府市のほぼ中央に位置していますが、駐車場のスペースもそれ程はなく、訪れる人も疎らでゆったりと境内を散策することができます。団体観光では今度新しくできた九州国立博物館に目が向いているようです。観世音寺は観光化されていないところがかえって良いようですが、本堂はかなり傷んでおり、心配です。早朝、若しくは夕方この地を散歩すると楠木をはじめ大きな木が生い茂り、心を落ち着かせ和ませてくれます。前回述べたように観世音寺の本尊は
阿弥陀如来聖観音で、開基は天智天皇で創建は661となっていますが、いろいろ事情があり、完成は80後のことでした。観世音寺の名の如く、観世音寺には多くの種類の観音像を敷地内にある宝物殿で見ることができます。これは以外と良い仏像が見られ、お薦めです。仏教は他の宗教と比べると哲学的であると思っていますが、本尊として各種の如来、菩薩、明王、四天王、吉祥天等・・・があり、観音菩薩でもさらに聖観音菩薩、馬頭観音菩薩、十一面観音菩薩、千手観音菩薩等があり、凡人にとってこれらを理解するにはたやすいことではありません。また、勉強するテーマが増えたようです。



観世音寺からの宝満山。宝満山は見る角度から様々な顔を見せてくれます。


楠木の並木道からの本堂(講堂)。楠木は太宰府市のシンボルの木です。


境内に咲くつつじ


本堂です。内外部とも保存状態がよくありませねん。


日本最古の梵鐘で国宝になっています。


金堂(阿弥陀堂)


楠木並木道。奥の右側に国宝に指定された観音菩薩等の宝物殿があります。

白村江の戦いと大野城の築造

20082月に入ろうとしています。早いものですね。ところで国際間争いは相変わらずで、日本においても北方領土、尖閣諸島や北朝鮮関連で火種はあります。明治以前では日本から仕掛けた以外では元寇の襲来で、対馬、壱岐含め九州北部での悲惨な経験しかありませんでした。 7世紀後半の日本の外交は重要なポイントでした。 660年に滅んだ百済は日本(倭)に、救援軍の派遣を要請し、これに斉明天皇が応じ、中大兄皇子(後の天智天皇)らを率いた軍は6613月に那津(現在の博多港)に着き、中大兄皇子は現在の朝倉市で指揮をとりました。しかしながら、663年に白村江の戦いで唐、新羅の連合軍に完敗し、日本を防衛するために664年に水城を、665年には大宰府政庁の背後に標高410mの四王寺山(しおうじやま)大野城を築造しました。この城は籠城と防衛が目的だったと考えられています。この四王寺山は北側に大きな谷を取り込んで、尾根線が巡っていて、馬蹄形を呈しています。この尾根と谷をつなぐように、総延長6.5kmとも8.5Kmとも言われる二重の土塁を造りました。この城は太宰府市、大野城市、宇美町にまたがり、現在では国の特別史跡に指定されています。土塁の他、城門跡、石垣、70棟あまりもの礎石建物や掘立柱建物が見つかっており、7世紀後半に造られた朝鮮式山城です。日本防衛のために造られましたが、唐、新羅の連合軍は現れず、実際に使用されることはありませんでした。その後、新羅は7世紀後に朝鮮半島を統一しました。これが、日本に攻めて来なかった重要な理由の一つだと思われます。664年に水城を築き、翌年には大野城を造りました。さらに南8kmに大野城同様な基肄城(きいじょう)を築造しました。これは正しい選択だったと思います。水城は一時的に持ちこたえるかも知れませんが、ほとんど要塞と思えない城だからです。水城に立つと藤原純友にも簡単に大宰府政庁に攻め入られたことが分かります。

最近の発掘調査では、大野城に7か所目となる新たな城門跡が確認されました。これは観世音寺周辺と大野城を結ぶ道に設けられた門とみられます。尚、四王寺山の正式の名称は大城山(おおきやま)ですが、奈良時代(774年)に持国天・増長天・広目天・多聞天(=毘沙門天)の四天王を祀った四王寺(四天王寺:してんのうじ)が建てられたため、四王寺山と呼ばれるようになりました。



大野城の南にある増長天礎石群は 10×6メートルくらいの建物があったようです。礎石の配置から、籠城等に備えて食料を納める倉庫であったと考えられています。

                    大宰府口城門近くの土塁



                         土塁の層


                土塁


大宰府口城門 現在は崩れた石垣しか残っていませんが、当時は立派な門があったと言われています。

                   毘沙門天(太宰府口城門近くにあります)

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