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今日は午前中に、久々に旧知の方にお会いし、その文字の美しさに、性格が表れているなあ、と思い、午後には手紙を書きながら、自分の書く字はミミズが這ったような、という表現がぴったりの字で、それはそれで自分の性格に表れているのかなと思いつつ、雑事をこなし、夜は新橋の木曽路で知り合いの眼科の先生、経済のS教授、O議員と会食、S教授とO議員のレーシックの相談と国政のあれこれを少し話しをし、その後、S教授の提案でO議員の赤坂のお宅に上がりこみ、ちょうどアラフォー共通の話題でしばし歓談の後、さらに場所を近所のコーヒーショップに移して、医療の話、政治の話など世間話などしました。

4人に共通するのは、とりあえず世間からは”先生”という肩書きで呼ばれることが多いこと、愛知県に何らかの縁があること、また、今日に限った話かもしれませんが、アルコールを飲まないこと、そして、私はともかくとして何かしら、自分なりの信じるところというか、思うところがあり、ある種のエネルギーを持っていることでしょうか。

4人で話をしているときに、私の40年近い人生で今日、初めて発見した事実がありました。

それは、私が日常的に、当たり前に使っていた、”埃まるけ”と言う言葉が、実は標準語(共通語)ではなく、名古屋弁だったという、私にとっては驚愕の事実です。

”埃まるけ”というのは”埃がいっぱいの”という、汚れている、散らかっていることを意味するのですが、私はそれが方言であることを今日の今日まで気づきませんでした。

O議員を見ていて思うのは、インドの詩人、タゴールの、”成功のなかにのみあなたの恵みを感じるような卑怯者ではなく、失意のときにこそ、あなたの御手に握られていることに気づけますように”という一節です。

O議員は、何かしらか、私にできることがある”時”には是非、何かしたい、と思いたくものを持った方でした。