日本の支配層は幕末からユダ金に操られ、戦争法やTPPにつながり、再び侵略へ | Ghost Riponの屋形(やかた)

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日本の支配層は幕末からアングロ・サクソン支配層に操られ、戦争法やTPPにつながり、再び侵略へ
2015.10.07 櫻井ジャーナル
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201510060000/

 安倍晋三政権は「安全保障関連法」を強行採決、日本をTPP(環太平洋連携協定)へ参加させ、アメリカの「戦争マシーン」へ組み込み、それだけでなく日本の住民、自然、社会、文化などをアメリカへ献上しようとしている。それが自分たちの個人的な利益になると考えているからだろう。そのシナリオを書いたのは官僚。その官僚を含む日本の「エリート」は大まかに言って2種類に分けられる。親が支配階級に属しているか、受験競争を勝ち抜いたかだ。

 受験競争を勝ち抜いたということは、出題者が望む解答を書く能力に長けていることを意味、思考力はむしろ邪魔になる。そうした「エリート」は自分たちで考えず、「権威」や「強者」が何を望んでいるかを知ることに集中する。日本の「エリート」がアメリカの命令に従うのは必然だということ。マスコミには「エリート」の落ちこぼれが少なくないため、競争の「勝ち組」には弱く、あわよくば自分も「勝ち組」だと見なされたいと思っている。

 現在の日本は薩摩藩や長州藩を中心とする勢力のクーデター、いわゆる「明治維新」から始まる。そのクーデター派の背後に存在していたイギリスは19世紀の半ばに清(中国)を軍事侵略している。つまり、1840年から42年にかけてのアヘン戦争と1856年から60年にかけてのアロー戦争だ。清との貿易が大幅な赤字になったイギリスはアヘンを売りつけることにし、その結果の戦争だった。勿論、イギリスは麻薬を売りつけるだけでなく、清に蓄積されていた富を奪おうとしていたはずだ。

 アロー戦争の最中、1858年にイギリスは日本と修好条約を締結、その翌年には麻薬取引で大儲けしていたジャーディン・マセソン商会がトーマス・グラバーという人物をエージェントとして送り込んでいる。1859年にイギリスは長州から5名の若者をイギリスへ留学させることを決め、63年には藩主の命令で井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)が藩主の命令でロンドンに渡る。この時に使われた船はジャーディン・マセソン商会の船で、グラバーが渡航を手伝っている。

 1867年にグラバーは岩崎弥太郎、坂本龍馬、後藤象二郎らと盛んに接触、68年には佐賀閥に接近して高島炭坑の開発に乗り出し、戦乱の拡大を見越して武器取引に力を入れるのだが、勝海舟と西郷隆盛の会談で江戸城が平穏に明け渡され、戦争は終結する。イギリスは徳川幕府と薩長との戦争が長引き、両者が疲弊することを望んでいたのだろうが、その思惑通りには進まなかった。その結果、1870年にグラバーの会社は資金繰りが悪化して倒産するが、81年に岩崎の三菱本社が渉外関係顧問に迎え入れている。

 1868年に明治体制がスタート、71年7月には強い自治権を持っていた藩を廃し、中央政府の官僚が支配する県を置く。廃藩置県だが、その後、1872年に琉球国を潰して琉球藩を設置、79年に沖縄県を作る。廃藩置県を実施した際、明治政府は琉球国を日本領とは見なさず、日本領にしたいとも思っていなかったということである。

 そうした不自然なことが行われる切っ掛けになったのが1871年10月に起こった宮古島の漁民が難破して台湾に漂着、何人かが殺された事件。日本政府は清に対して被害者に対する賠償や謝罪を要求するが、そのためには琉球国が日本領だという形が必要だった。

 この時、日本に台湾派兵を勧めた人物がいる。1872年に来日した厦門駐在アメリカ領事だったチャールズ・リ・ジェンダーだ。外務卿だった副島種臣に台湾への派兵を勧め、それ以降、75年まで外務省の顧問を務めることになる。日本が台湾へ軍隊を派遣したのは1874年のことだった。ちなみに、2003年に公開されたトム・クルーズ主演の映画「ザ・ラスト・サムライ」は、このアメリカ人をモデルにしたことになっているが、その実態は映画と全く違った。

 1875年には李氏朝鮮の首都を守る要衝、江華島へ軍艦が派遣して挑発、「日朝修好条規」を結ばせて清国の宗主権を否定させることに成功、無関税特権を認めさせ、釜山、仁川、元山を開港させている。条規の批准交換にル・ジェンダーも陪席した。

 挑戦では1894年に甲午農民戦争(東学党の乱)が起こるが、それを見た日本政府は軍隊を派遣、その一方で朝鮮政府の依頼で清も出兵して日清戦争につながる。この戦争に勝利した日本は1895年4月、「下関条約」に調印して大陸侵略の第一歩を記す。その年の10月、日本公使だった三浦梧楼を中心とするグループは高宗の王妃、閔妃を含む女性3名を殺害した。

 1904年に日本は帝政ロシアと戦争を始めるが、その戦費を融資したのはロスチャイルド系のクーン・ローブ。その金融機関を統轄していたジェイコブ・シッフと最も親しかった日本人は高橋是清だ。(JPモルガンと最も緊密な関係を築いていた日本人は井上準之助。)

 その間、1891年にはイギリスで重要な出来事があった。セシル・ローズ、ウィリアム・ステッド、エッシャー卿(レジナルド・バリオル・ブレット)、ロスチャイルド卿(ネイサン・ロスチャイルド)、サリスバリー卿(ロバート・ガスコン-セシル)、ローズベリー卿(アーチボルド・プリムローズ)、ミルナー卿(アルフレッド・ミルナー)が会談、アングロ・サクソンが人種の頂点に位置しているとし、ドイツを敵視することを明確にした

 現在でも生きている「ハートランド理論」をハルフォード・マッキンダーが発表したのは1904年。彼によると世界は3つ、第1にヨーロッパ、アジア、アフリカの「世界島」、第2にイギリスや日本のような「沖合諸島」、そして第3に南北アメリカやオーストラリアのような「遠方諸島」に分けられる。「世界島」の中心が「ハートランド」で、具体的にはロシア。

 広大な領土、豊富な天然資源、そして多くの人口を抱えるロシアを締め上げるためにマッキンダーは西ヨーロッパ、パレスチナ、サウジアラビア、インド、東南アジア諸国、朝鮮半島をつなぐ「内部三日月帯」を、その外側に「外部三日月地帯」を想定した。パレスチナにイスラエルを作った理由のひとつはこの辺にあるだろう。(大多数のユダヤ教徒はパレスチナへ移住する気持ちはなかった。)ロシアを制圧のカギはウクライナが握っていると主張したのはズビグネフ・ブレジンスキーだ。

 この段階でイギリスはドイツとロシアを戦わせ、両国を疲弊させようとしたはず。それが第一次世界大戦で実現する。当時、帝政ロシアは地主貴族と資本家の2本柱で支えられていたのだが、地主は農作業の担い手を取られたくないので戦争に反対したのに対し、戦争で儲けたい資本家は賛成していた。そうした中、1917年3月に「二月革命(ロシア歴では2月)」が起こってロマノフ朝は崩壊、資本家が主導権を握る臨時政府が誕生した。

 それに対し、ドイツは戦争に反対していたボルシェビキに目をつける。亡命していたり刑務所に入れられていたことからボルシェビキの指導部は二月革命に参加していなかったが、その指導者たちをドイツがロシアへ戻したのだ。そして11月の「十月革命」につながる。ボルシェビキ政権は即時停戦を宣言、無併合無賠償、民族自決、秘密外交の廃止を打ち出した。ソ連嫌いからボルシェビキとイギリス支配層を結びつける人もいるが、無理がある

 この後、ドイツではアドルフ・ヒトラーが台頭してくるが、その背後にウォール街が存在していたことが明らかになっている。1933年から34年にかけてJPモルガンを中心とするアメリカの巨大資本はフランクリン・ルーズベルト大統領を排除したファシズム体制の樹立を目的としたクーデターを計画したが、根は同じ。このクーデター計画はスメドリー・バトラー少将の議会証言で明るみに出ている。ヒトラーはドイツとソ連/ロシアを破壊するために作られたモンスターだと言えるだろう。

 現在、アメリカ支配層は世界制覇プロジェクトを死にものぐるいで推進している。そのプロジェクトが明らかになったのは1992年。この年に国防総省で作成されたDPGの草案はアメリカが「唯一の超大国」になったと位置づけ、世界制覇を実現するために潜在的なライバル、つまり旧ソ連圏、西ヨーロッパ、東アジアなどを潰し、ライバルを生む出すのに十分な資源を抱える西南アジアを支配するとしている。が、その遥か前、1891年にアングロ・サクソンは世界制覇を妄想し始め、その段階から日本は取り込まれている。

最初のアンダーライン、ルーツはドイツ(ゲルマン系)なのに矛盾した話ですね。
ちなみにネイサン・ロスチャイルドは、アングロサクソンではないと思われるが・・・成りすまし?(笑)
実質のユダヤ、アングロ同盟の話なら理解できそうだが・・・


アングロ・サクソン人
https://ja.wikipedia.org/wiki/アングロ・サクソン人
アングロ・サクソン人(Anglo-Saxons)は、5世紀頃、現在のドイツ北岸、南部よりグレートブリテン島に侵入してきたアングル人、ジュート人、サクソン人のゲルマン系の3つの部族の総称である。この中でアングル人が、イングランド人としてイングランドの基礎を築いた。
歴史
409年にローマ帝国がブリタンニアを放棄した後、現在のデンマーク、北部ドイツ周辺にいたゲルマン人が、グレートブリテン島に渡ってきた。彼らは先住のケルト系ブリトン人を支配し、ケルト文化を駆逐した。これが英国における最初のアングロ・サクソン人である。彼らの言葉が英語の基礎となった。


アンダーライン、「ボルシェビキとイギリス支配層」の関連性について、「無理がある」ようなので確認しましょう。ちなみに好き嫌いの感情はどうでもよく、判断は、信じるに値する資料が複数あり、その整合性が取れているかどうかです。

結論から言うと、ドイツの一部勢力もグルと考えれば説明がつく。
(ヒットラーからのユダ金支援ではなく、その前からやっているのではかなろうかと)

その根拠を、自己の確認も兼ねて4点ほど。

1)初代ロス茶は、ユダヤ系ドイツ人フランクフルト在住。→マイアー・アムシェル・ロートシルト
ロス茶の拠点は、ドイツフランクフルトにも残っていると見るべき。その関連として、ドイツ中央銀行はフランクフルトにあり、反発を恐れてかFRB同様にドイツ連邦銀行と名称がなっている。
ドイツ連邦銀行、本店はフランクフルト・アム・マインに設置されており、欧州中央銀行制度を構成する。通称はブンデスバンク。
革命、社会運動と言うのは、とてつもなくお金と時間がかかるもので、資金、武器の調達、その支援はどこから来たのでしょう?
(仮に後払いだと、買収した会社の資産で、買収資金を賄うような手法を取ったのか)
ヨーロッパ各国の王族が血縁関係(親戚)であるように、国境(国家単位)で別の国と単純に見なすと、解釈を見誤るような気がする。
当時のロス茶の拠点は、本社イギリス、支社アメリカ、フランス、ドイツといった具合で、子会社は他のヨーロッパ各地&日本かな。

2)マリンズ本とコールマン本の記述。「ワールブルク(ウォーバーグ)銀行王国はドイツ政府を支援し、ドイツは反ロシア非合法革命活動に財政支援していた。
そのひとりでドイツ情報部と懇意のマックス・ワールブルクは、フランクフルトでロスチャイルド・ワールブルク銀行頭取を務めていた。」いつどこで誰がやったか、コールマン本には、A・グレビッチ将軍の報告書に、イギリスのロシア革命支援体制は駐ソ大使D・ブキャナンとミルナー卿とハッキリ書かれている。
本がWEBで読めるようなので、下にリンクを貼っておきます。

3)ロシア革命→ソ連で、一体誰が、どの勢力が利益を得たか→ロス茶系、ペレストロイカでもロス茶系、2度おいしい。ロシア革命で、ソ連がなぜユダヤの国になったのか↓
ユダヤ闘争史のユダヤは、ハザールユダヤでお願いします。

オリガルヒの大物ボリス・ベレゾフスキー”謎の死”:プーチンvsオリガルヒか!?
http://quasimoto.exblog.jp/19992415/
「ペレストロイカ」時代に共産主義から資本主義へ変わる時期があった。この時期にエリツィンによって行われた政治手法を悪用し、いっきに国有企業を自分のものにして巨額の利益を得て大富豪になったのが、俗に「オリガルヒ(Олигархи, oligarkhi)」と呼ばれた「政商」ユダヤ人たちである。ウラジーミル・グシンスキー、ボリス・ネムツォフ、などなどの偽ユダヤ人たちである。
その中の「政商」の代表格が、ボリス・ベレゾフスキー氏であった。エリツィンの片腕になりながら、ソ連の財産を全部自分たちで牛耳って、あっという間にロシアの大企業の所有者である大富豪になったのである。

しかしながら、プーチンが登場するや、状況は異なり、プーチン政権から「売国奴」や「盗人」として、指名手配されるようになった。国内にいれば即逮捕収監。場合によっては射殺。そこで彼らオリガリヒたちは、ロシアの国民の財産を西側職国へ売りさばき、西側諸国の大企業を買いあさり、これまたあっという間に西側諸国の大富豪になった。

オリガルヒの大半が英国に逃げたことからも分かるように、ロシアの財産を根こそぎしたのは、もちろん英ロスチャイルド家である。

元ソ連外交官が語る「ロシア-ユダヤ闘争史」の全貌
http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhb500.html
■■ユダヤ人が担ったロシア10月革命
ストルイピンが暗殺されると、ユダヤ人たちはもう一つの革命の準備に入った。1917年11月6日の「10月革命」である。

この10月革命はユダヤ人による革命であった。これは疑いの余地がない。いうまでもなく、革命を指導した者のほとんどがユダヤ人だからである。10月革命の前に、トロツキーをリーダーとする70人のユダヤ人グループが、ニューヨークからやって来ていた。アメリカのユダヤ人資本家ヤコブ・シフは、このトロツキーのグループを支援していた

そのときロシアは、ドイツとの戦争の真っ最中であった。第一次世界大戦である。ドイツの方面からも、レーニンのグループがロシアに入った。このグループもまた、ほとんどがユダヤ人だった。10月革命は、アメリカとドイツの金によってユダヤ人が実行した革命であった

この当時イケイケの、JPモルガンを育てたのもロス茶である。アメリカ(ウォール街)経由なだけで、ヤコブ・シフ(ジェイコブ・シフ)はロス茶と見なせるのである。ドイツは、2)のロスチャイルド・ワールブルク銀行なのでそのままと。

[ロシアのユダヤ闘争史] プーチン大統領 最初期のソ連政府のメンバーは80~85%がユダヤ人
http://ameblo.jp/ghostripon/entry-11954993132.html


4)奴らは2重3重に偽装する。(正確には5重6重らしいが、玉ねぎのようだそうです)
表の歴史は、奴らに都合よく解釈できるように要点が省かれている。
結局、ソ連がどのような悲惨な国家になったかを見れば、ロシア革命の思想が崇高であろうがなかろうが、レーニンなどが善人であろうがなかろうか、関係ないのである。ロシア革命があってソ連が誕生した事実。誕生したソ連がユダヤ国家という事実なら、ロシア革命はユダヤ革命なのである。


ソ連=ユダヤ国家は、誰もマジメに働かず・・・国全体から、掃除されていない公衆便所のような匂いがすると、マリンズが表現していた。昔の国鉄の便所だろうか?あれは惨かった(笑)

ちなみに、同盟して、そそのかしているアングロサクソン(ロックフェラーやJPモルガンなどのサクラ・フロントマン)に、全ての罪を擦り付けているのも偽装のパターンに見える。(当然、乗せられて実行しているアングロサクソンも悪いのだが・・・日本人の支配層=アングロサクソンのような気もする)奴らは血筋を重要とするようなので、血縁関係以外は家畜で使い捨てです。

1917年2度あったロシア革命は、奴らお得意の、両建てと見るのが妥当でしょう。
そもそも、あの時期のロシアに革命する必要性が、あったのかどうなのか。
第一次大戦も敵味方、ドイツ、イギリス、フランス、アメリカ、日本、各国にロス茶の息のかかった代理人が居るか拠点があるように見えるが、気のせいだろうか(笑)戦争もプロレスに見える・・・

こう見ていくと、どーでも良い些細な原因から第一次大戦を起こし・・・その目的は、なかなか成就しないロシア革命計画だったのではないのか?とすら思えてしまうのであった。


「ボルシェビキとイギリス支配層」の関係は、「第3次世界大戦: 最強アメリカvs不死鳥ロシア」P.162~173を読めばわかる↓検索からのリンクなので、P.176に飛ぶが移動できます・・・要点のP.166の一部を載せておきます。


第3次世界大戦: 最強アメリカvs不死鳥ロシア
著者: ジョンコールマン
https://books.google.co.jp/books?id=GBgaJ3-18toC&pg=PA176&lpg=PA176&dq=%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%93%E3%82%AD%E6%94%BF%E6%A8%A9&source=bl&ots=KM000szEtX&sig=jt6j54ohOPyFYu3viUgM94Vi2v4&hl=ja&sa=X&ved=0CEUQ6AEwB2oVChMI2Pe07ZGuyAIVgt2mCh39uQO4#v=onepage&q=%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%93%E3%82%AD%E6%94%BF%E6%A8%A9&f=false
P.166 
国際的に有名なワールブルク(ウォーバーグ)銀行王国はドイツ政府を支援し、ドイツは反ロシア非合法革命活動に財政支援していた。
そのひとりでドイツ情報部と懇意のマックス・ワールブルクは、フランクフルトでロスチャイルド・ワールブルク銀行頭取を務めていた。イギリスで対ロシア地下活動を指揮していたユダヤ・フリーメーソンの代表はシオニストのアルフレッド・ミルナー卿であり、彼はイギリス国家と言う巨大なロッジの指導者のひとりだった。A・グレビッチ将軍の報告書にあるように、イギリスのロシア革命支援体制は駐ソ大使D・ブキャナンとミルナー卿が担っていた。
「私的な会話のおりに、ミルナー卿は私にロシア革命に2100万ルーブルを注ぎ込んだと語った」

ジョンコールマン博士と言えば↓です。第一人者です。





「カナンの呪い」もみつけた↓本読めるみたい。
魔族カナン人=偽ユダヤ=ハザール人でしょう。
たまにページが抜けてますが・・・


カナンの呪い: 寄生虫ユダヤ3000年の悪魔学
著者: ユースタスマリンズ
https://books.google.co.jp/books?id=BhrEGSEucucC&pg=PA187&dq=%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E5%8D%94%E4%BC%9A&hl=ja&sa=X&ved=0CGEQuwUwDmoVChMIqcKi2ZSuyAIVoZCmCh08Zw5s#v=onepage&q&f=false



タイムリーな記事を見つけたので↓
明治維新の構図を、ロシア革命にも当てはめてみるのがよろしいかと。



・明治維新は外国資本によって成し遂げられた
2015年10月 6日 (火) zeraniumのブログ
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-dd16.html
   東京の丸の内や六本木などでは、外資系の法律事務所の弁護士や、金融会社に勤めている30代、40代のディーラーやファンドマネージャーなどには、年収5000万円というサラリーマンがたしかにいます。彼らは一等地の高級マンションに住み、セレブだとしてテレビや雑誌で取り上げられたりします。そうした生活を羨ましがる人もいるでしょうが、しかし詳しく様子を聞くと、そんな生活のどこがいいのかとも思えます。

   一等地に立つ瀟洒な(しょうしゃ)なオフィスビルで早朝からがむしゃらに働き、休日も返上で、24時間オープンの携帯電話はいつクライアントから電話が入るかわからない。疲れきって帰宅し、午前様の風呂上りにようやく喉にワインを流し込む。収入も多いが、いつクビを切られるかわからない。久しぶりに行った海外旅行先ではごろ寝同然。こうした彼らや彼女たちを、現代では「勝ち組」と言っていました。リストラに遭って仕事を失った人に比べれば、ずい分ましな境遇かもしれませんが、それを「勝ち組」とするならば、実際には誰もが羨むような生活をしているとはとても言えません。

   実は本当の「勝ち組」は、別のところにちゃんといるのです。
   それが「約束された人物たち」です。この人たちは、これまで時代がどのようであろうと、自分たちの身分や収入が危ぶまれるリスクにさらされることのなかった人たちです。それは仕事ができるかできないかには関係なく、資産や収入が固く守られて生きて来た人たちです。

明治維新は外国資本によって成し遂げられた

   明治政府になってその後、日本の資本主義は急速に発展を遂げていきます。
   資本主義が発展するためには当然、まず資本がなければなりませんが、その資本は一体どこからやって来たのでしょうか? 工業や重工業の発展の経済の基礎は、誰が、どのようにして築いたのでしょうか? カネの存在を抜きにして歴史を考えることはできません。

   つまり、大政奉還から明治維新、そして明治政府が成立する歴史の転回点で、日本に巨額のファイナンスを行なった勢力がいたのです。それは戊辰(ぼしん)戦争の戦費に使われたカネにも同様のことが言えるわけで、倒幕軍の戦費は当然、薩摩と長州が自分たちの金蔵から出してきたものではありません。幕府軍の戦費にしても、徳川家が全額賄ったものではないはずです。

   それは現代の、国際紛争や内戦というモデルからも類推することができ、戊辰戦争が外国の2大勢力による代理戦争という性格を、色濃く持っていたことは容易に想像がつきます。そして実際に、政権交代を目指す薩長勢力にはイギリスが、一方政権維持をもくろむ幕府勢力にはフランスが、潤沢な資金を供給していたのです。もっとはっきり言うと、当時のイギリスやフランスは財政破綻状態にあったので、事実上のオーナーとも言うべきイギリスのロスチャイルド家とフランスのロスチャイルド家が、日本に隠然たる影響力を行使するために、薩長勢力と徳川幕府の双方へ資金を供給したと見るべきなのです

   ですが実に不思議なことに、こういった人々の名前が歴史にも表にも出ることはまずありません。世界の富の、ほぼ95パーセントを所有するほどの人々であるにもかかわらず、これらの人々の活動は謎に包まれ、厚いベールに覆い隠された存在なのです。これらの人々はこのように、実際には私たちの想像を超えた強大な権力を行使しているはずなのに、その直接的な活動を目にすることはありません。

   ですからそのような人々に対する分析事実の信憑性は、疑われて当然かもしれません。しかし実際に、東インド会社やアフリカ開拓の昔から、イギリスやフランスの海外進出は、ヨーロッパを代表するいくつかの名家による莫大な富を背景に行なわれてきたという、動かしがたい事実があります。

   日本という極東の島国は、彼らにとって格好の前線基地であり、アジア大陸への進出として、補給または兵站(へいたん)の要衝でもあります。日本人の高い教育水準と勤勉な国民性は、当時としては相対的に進取の精神に満ちていました。しかもすでに宣教師を大量に送り込んであったことから、キリスト教を理解する者も増え、同時に外国人受け入れという地ならしもできていました。つまり、日本への投資環境は申し分ない状況にあったのです。

   当然、諸外国の覇権主義、植民地主義の矛先(ほこさき)は日本に向けられました。
   だからこそ、開国か否かで日本を二部する内戦が起こったのです、つまり、日本に開国を迫ったイギリスやフランスに、そうした外交政策の立案者やその遂行資金を提供した人物たちがいたのです。もちろん、それはロスチャイルド家だけでなかったのは確かですが、そうした名家たちによる意思決定が日本の明治維新を実現させたと言えるのです。

日本における「勝ち組」の正体

   ところで徳川幕府に取って代わった明治維新の新勢力は、結局どのような人たちでしょうか? もちろん、薩摩と長州の武士たちです。脈々と現代にまで生き続ける日本の「勝ち組」の正体は、実はこの薩摩と長州を中心とする勢力だということができます。そして実際にこの21世紀の今でも、鹿児島県や山口県出身の政治家や官僚の数は多く、その状況には大変な偏りが見られます。

   総理大臣や大蔵大臣、外務大臣などの主要ポストは言うに及ばず、中央省庁のなかでも特に警察庁と防衛省は薩長の牙城です。事情を知る関係者の中には、「鹿児島県と山口県の出身者でなければ、出世できない」という暗黙の了解があるといいます。最後まで新政府軍と戦った会津藩の福島県には、昭和になってようやく国立大学が創られたというのも有名な話です。

日本で平民が政権を取ったことは一度もない

   話は明治維新に戻ります。
   政権交代後、権力を握った新勢力は、それまでの人物や社会システムなど、旧来行なわれてきたことを悪弊として徹底的に叩いて貶めますが、旧勢力が使っていた仕組みは残しておき、支配に都合よく利用してきました。その痕跡は、私たちが受けた教育にはっきりと残されています。

   日本史の教科書には、徳川幕府が倒されて文明が開化したというような、ステレオタイプの記述があります。それが武家社会が崩壊し、平民による議会制度がつくられ、その代表者は平民による投票で決まる。あるいは優秀な人材は身分に関わらず取り立てられて官僚となり、国政に就ける。これまでの封建制度を、そうした公平な仕組みに変えた。また鎖国政策を行なっていた暗黒時代の日本を、新しい近代国家に変えた、というものです。

   しかしそれは、わかりやすく巧妙に加工された「嘘」というものです。
   実は、状況は現代において変わってはおらず、そもそも日本では平民が政権を取ったことは一度もなく
、平民が選ぶ平民のための代表者は武家階級か、あるいはその階級から取り立てられて彼らの仲間入りをした人物に限られていました。

   たとえば平民宰相(さいそう)といわれた原敬(はらたかし)にしても、生まれは盛岡藩の藩士であり、家は家老職を務めた上級士族です。その後、原敬は分家して平民籍に入るのですが、それだけの理由で一般市民と同じ平民としてくくってしまうのは無理があります。つまり原敬にしても、藩閥に接する機会を得ることで外務省に入り、政治家としての足がかりを得たのです。明治政府が優秀な人材を取り立てたということも、それはほとんどが人口の1パーセントにも満たない下級士族のことを指しており、平民を積極的に登用するなど、薩長の権力者の念頭にはなかったはずです。

   かりに、戊辰戦争で幕府軍が勝ったとしても、文明開化は日本に必ずやって来たはずです。それは明治、大正、昭和、平成へと、仮に徳川幕府が存続していたとしてもそうで、日本人の性格から諸外国を参考にして憲法を制定し、資本主義が根づき、議会制度が制定され、婦人参政権も確立されたはずです。こうして考えてみると、明治維新が革命と呼べるような性格のものではなかったことがはっきりします。

引き継がれた支配システム

   たとえば明治政府は、官僚制を残しました。
   私たちの多くは、明治政府が官僚制をつくったかのような印象を植えつけられていますが、それはまったく誤った認識です。律令制を起源とする日本の官僚制は、すでに6世紀の飛鳥時代から存在していました。つまり明治維新から始まったとされる官僚制も、薩長の新勢力がその装いだけを改めて存続させたシステムだったのです。

   同様に、明治政府は、天皇を中心とした統治権力も残しています。
   これは当然のことで、天皇による統治こそが、日本を丸く治める歴史的に確立したシステムだからです。そして天皇制の存続については、第二次大戦後にGHQがやはり同じことをしました。それはもちろん天皇を尊重したからではなく、日本人を従順な子羊としておくためには、天皇制を残すことが最良の道だという、支配者としての判断が働いたからです

   薩長の倒幕軍は、天皇のお墨付きを象徴する「錦の御旗」をかかげて幕府軍の戦意を喪失させたわけで、天皇はその新政権樹立構想にはじめから組み込まれた存在だったと言えます。しかしこのように明治政府を眺めると、戊辰戦争による倒幕が、果たして日本に何か画期的な変化をもたらしたと言えるのかどうかに疑問が湧いてきます。

   たとえば明治維新の成果として、開国をした、廃藩置県を行なって大名を廃した、国会を開催して議会民主主義を生んだ、といろいろ並べ立てることもできるでしょう。しかし徳川幕府が続いていたとしても、幕府は同じような改革を成し遂げたはずで、明治以降も幕府による政権であったとしても、民主主義に移行していた可能性は高く、婦人参政権は確立されていたはずです。いくら徳川幕府とはいえ、馬鹿ではないのです。

   逆に太平洋戦争は避けられたかもしれません。
   つまり、明治政府になろうがなるまいが、日本は近代化したのです。世界の趨勢(すうせい)がそうなっていく以上、それに歩調を合わせざるを得ないのが、社会の自律的な発展というものだからです。

   明治維新が仮に革命と呼べるものであるとすれば、江戸時代の権力者は皆殺しにあっていて当然なはずであり、少なくとも徳川家など旧勢力に関わる者たちは死罪、旗本はお家取り潰しにしていなければなりません。革命であると言い張るならば、そうしたものであるはずです。しかし実際には、たとえば徳川一族や松平一族などは、貴族として生き残り、彼らの地位はその後も同じく守られています。

   いまでも東京の一等地に広大な家屋敷を構え、外部からはわからない事業内容の会社を経営し、財団法人や社団法人の理事、あるいはスポーツの国際委員会などの団体理事など、いくつも名誉職を兼任し、軽井沢の一等地に別荘を持ち、悠々自適の生活を送っています。

   たしかに徳川一族は政権の座から下ろされはしましたが、21世紀の平民が決して手の届かない世界で、手厚い警護の下、堂々と生きています。もちろん私にはどうでもいいことですが、当然、彼らの周りには人脈や海外コネクションなど、徳川幕府時代から受け継がれてきた無形資産もふんだんにあることでしょう。

   徳川一族を存続させた理由は、そうすることが薩長勢力にとっても都合がよく、徳川の親藩だった勢力の不平不満を収めやすい。そうした政略と計算によって、「勝ち組」は「勝ち組」独自の世界とネットワークを張り巡らせているのです。徳川家がどのようにしてカネを稼ぎ、一族の繁栄を築いているのかわかりませんが、明治維新の立役者たちは徳川家以上に発展していなければ、勢力のアンバランスは必ず衝突を生み出します。つまり明治政府の中枢であった薩摩と長州の勢力も、その後自らの地位を守るだけでなく、維持発展させているのです。

   このように見てくると、日本の支配者は未だに、江戸以前からの武家社会に所属する人々であると理解できます。そうなのです。日本は未だに、武家社会の階級が押さえている国なのです。

              150年の呪縛
        book「洗脳経済」 苫米地英人著  ビジネス社


それら真実の歴史にみな気づきだし、「終わる」と言うことでしょう。

参考資料↓

この世界の真の支配者はだれか?(ユースタス・マリンズ)
http://ameblo.jp/ghostripon/entry-12012085151.html