ラ・ボエシ『自発的隷従論』(山上浩嗣訳、ちくま学芸文庫) | Ghost Riponの屋形(やかた)

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ラ・ボエシ『自発的隷従論』(山上浩嗣訳、ちくま学芸文庫)。訳者による充実の訳注と解題。付論に、シモーヌ・ヴェイユ「服従と自由についての省察」、ピエール・クラストル「自由、災難、名づけえぬ存在」の翻訳も収録。 pic.twitter.com/pJRjyjs6Kq

ヒラメの謎、解けるか?
赤色と強調を追加してます。



ラ・ボエシ『自発的隷従論』山上浩嗣訳・解題 (西谷修氏の蛇足の解説付き)
2014/02/14(金)  マイケル・ジャクソンの思想(安富教授)
http://anmintei.blog.fc2.com/blog-entry-1009.html
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http://www.amazon.co.jp/dp/4480094253/ref=cm_sw_r_tw_dp_vMA.sb172D6G8 
こんな凄い論文が16世紀に、しかも十代の少年によって書かれていたとは。。。

 人間社会の隷従と圧政とのポジティブフィードバック機構が、明瞭に示されている。人間が自ら自由を放棄するのは「慣習」による。「国民が隷従に合意しないかぎり、その者はみずから破滅するのだ。なにかを奪う必要などない、ただなにも与えなければよい。」
 ラ・ボエシは、「哀れでみじめな、愚かな民衆よ、みずからの悪にしがみつき、善には盲目な人々よ!」「その敵がもつ特権とは言えば・・・あなたがた自身が彼に授けたものにほかならないのだ。」(21-2頁)と明言している。「自発的隷従」は、「愚かな民衆」の態度のことで、これが「圧制」を維持する「薪」となるのだ。明らかに民衆こそは圧政の共犯者である。共犯者であるがゆえに、共犯をやめれば圧政もなくなる、と説くのである。これはガンディーの非暴力不服従闘争の理論の完全な先駆である。

 更に圧政者に盲従する「小圧制者」の豊かでみじめな生活ぶりも的確に描かれている。この部分は、私の『東大話法』をめぐる一連の著作のまぎれもない先駆で、知らなかったことを恥じる。山上氏は、この難しい古いフランス語をわかりやすく訳すという偉業を成し遂げたが、それには十数年もかかったという。

 一方、「監修者」の西谷修氏の「解説」は、まったく違った議論をしている。
 彼によれば「小圧制者」の態度が「自発的隷従」だという。そして「その底辺には、圧制を被り物心両面で収奪されるばかりの無数の人々が置かれている」として、一方的に収奪されている「民衆」を想定する。圧制者はパンとサーカスとで彼らを慰撫して気を逸らさせるので、民衆も支配の継続を望むようになるという。これでは、民衆が不服従を貫いたところで、圧政はなくならない。「一斉蜂起」かなにかがないと、体制は崩壊しない。
 西谷氏は、本当に本文を読んで解説を書いたのだろうか?

より詳しい解説がありますた↓
(「美味しんぼ」の作者さん)



自発的隷従論
2014-03-03 雁屋哲の今日もまた
http://kariyatetsu.com/blog/1665.php
~略~

ラ・ボエシの「自発的隷従論」の肝となる文章を、同書の中から幾つか挙げる。

読者諸姉諸兄のためではなく、私自身が理解しやすいように、平仮名で書かれている部分が、返って読みづらいので、その部分を漢字にしたり、語句を変更している物もある(文意に関わるような事は一切していない)。

同書訳文をその読みたい方のために、私の紹介した言葉が載っている、同書のページ数を記しておく。

本来は、きちんと同書を読んだ方が良いので、私はできるだけ多くの方に、同書を読んで頂きたいと思う。

私がこの頁で書いていることは、同書を多くの人達に知って頂くための呼び水である。

私は自分のこの頁が、同書を多くの人達にたいして紹介する役に立てれば嬉しいと思っている。


A「私は、これほど多くの人、村、町、そして国が、しばしばただ一人の圧制者を耐え忍ぶなどということがありうるのはどうしてなのか、それを理解したいのである。その圧制者の力は人々が自分からその圧制者に与えている力に他ならないのであり、その圧制者が人々を害することが出来るのは、みながそれを好んで耐え忍んでいるからに他ならない。その圧制者に反抗するよりも苦しめられることを望まないかぎり、その圧制者は人々にいかなる悪をなすこともできないだろう。(P011)」

B「これは一体どう言うことだろうか。これを何と呼ぶべきか。何たる不幸、何たる悪徳、いやむしろ、何たる不幸な悪徳か。無限の数の人々が、服従ではなく隷従するのを、統治されているのではなく圧制のもとに置かれているのを、目にするとは!(P013)」

C「仮に、二人が、三人が、あるいは四人が、一人を相手にして勝てなかったとして、それはおかしなことだが、まだ有りうることだろう。その場合は、気概が足りなかったからだと言うことができる。だが、百人が、千人が、一人の圧制者のなすがまま、じっと我慢しているような時、それは、彼らがその者の圧制に反抗する勇気がないのではなく、圧制に反抗することを望んでいないからだと言えまいか(P014)」

D「そもそも、自然によって、いかなる悪徳にも超えることのできない何らかの限界が定められている。二人の者が一人を恐れることはあろうし、十人集ってもそういうことがあるうる。だが、百万の人間、千の町の住民が、一人の人間から身を守らないような場合、それは臆病とは言えない。そんな極端な臆病など決してありえない。(P015)」

E「これは(支配者に人々が隷従していること)、どれほど異様な悪徳だろうか。臆病と呼ばれるにも値せず、それふさわしい卑しい名がみあたらない悪徳、自然がそんなものを作った覚えはないと言い、ことばが名づけるのを拒むような悪徳とは。(P015)」

F「そんなふうにあなた方を支配しているその敵には、目が二つ、腕は二本、体は一つしかない。数かぎりない町のなかで、もっとも弱々しい者が持つものと全く変わらない。その敵が持つ特権はと言えば、自分を滅ぼすことができるように、あなた方自身が彼に授けたものにほかならないのだ。あたがたを監視するに足る多くの目を、あなたが与えないかぎり、敵はどこから得ることができただろうか。あなた方を打ち据えるあまたの手を、あなた方から奪わねば、彼はどのようにして得たのか。あなた方が住む町を踏みにじる足が、あなた方のものでないとすれば、敵はどこから得たのだろうか。敵があなた方におよぼす権力は、あなた方による以外、いかにして手に入れられるというのか。あなた方が共謀せぬかぎり、いかにして敵は、あえてあなた方を打ちのめそうとするだろうか。あなた方が、自分からものを奪い去る盗人をかくまわなければ、自分を殺す者の共犯者とならなければ、自分自身を裏切る者とならなければ、敵はいったいなにができるというのか(P022)」

ここまでの、ラ・ボエシの言う事を要約すると、

「支配・被支配の関係は、支配者側からの一方的な物ではなく、支配される側が支配されることを望んでいて、支配者に、自分たちを支配する力を進んで与えているからだ」

と言う事になる。

「支配されたがっている」

とでも言い換えようか。

それが、ラ・ボエシの言う「自発的隷従」である。

支配される側からの支配者に対する共犯者的な協力、支配される側からの自分自身を裏切る協力がなければ、支配者は人々を支配できない。

このラ・ボエシの言葉は、日本の社会の状況をそのまま語っているように、私には思える。


ラ・ボエシの「自発的隷従論」は支配、被支配の関係を原理的に解き明かした物だから、支配、被支配の関係が成立している所には全て応用が利く。

「自発的隷従論」の中では、支配者を「一者」としているが、ラ・ボエシが説いているのは支配、被支配の原理であって、支配者が一人であろうと、複数であろうと、御神輿を担ぐ集団であろうと、他の国を支配しようとする一つの国であろうと、「支配する者」と「支配される者」との関係は同じである。そこには、ラ・ボエシの言う「自発的隷従」が常に存在する。

日本の社会はこの「自発的隷従」で埋め尽くされている。

というより、日本の社会は「自発的隷従」で組立てられている。

日本人の殆どはこの「自発的隷従」を他人事と思っているのではないか。

他人事とは飛んでもない。自分のことなのだ。


大半の日本人がもはや自分でそうと気づかぬくらいに「自発的隷従」の鎖につながれているのだ。

~体育会系の悪しき例は省略~

日本の、自発的隷従は根が深いのである。

では、この自発的隷従から自由になるためにはどうすれば良いか。

ラ・ボエシは書いている。

M「圧制者には、立ち向かう必要なく、打ち負かす必要もない。国民が隷従に合意しない限り、その者は自ら破滅するのだ。何かを奪う必要など無い。ただ何も与えなければよい。国民が自分たちのために何かをなすという手間も不要だ。ただ、自分のためにならないことをしないだけでよいのである。民衆自身が、抑圧されるがままになっているどころか、敢えて自らを抑圧させているのである。彼らは隷従を止めるだけで解放されるはずだ。(P018)」

N「それにしても、なんと言うことか、自由を得るためにはただそれを欲しさえすればよいのに、その意志があるだけでよいのに、世の中には、それでもなお高くつきすぎると考える国民が存在するとは。(P019)」

そうなのだ。

問題は次の二つだ。

「自分たちが隷従していることをしっかり自覚するか」

「自覚したとして、隷従を拒否する勇気を持てるか」


この二つにきちんと対処しなければ、日本はますます「自発的隷従」がはびこる、生き辛い国になるだろう。

ただ、ラ・ボエシの次の言葉は厳しい。

O「人間が自発的に隷従する理由の第一は、生まれつき隷従していて、しかも隷従するようにしつけられているからと言うことである。そして、この事からまた別の理由が導き出される。それは、圧制者の元で人々は臆病になりやすく、女々しくなりやすいと言うことだ(雁屋註:「臆病であることを女々しいと言うのは女性蔑視に繋がるが、ラ・ボエシの生きていた17世紀初頭という時代の制約を理解いただきたい」(P048))

P「自由が失われると、勇猛さも同時に失われるのはたしかなことだ。彼らは、まるで鎖につながれたように、全く無気力に、いやいや危険に向かうだけで、胸の内に自由への熱意が燃えたぎるのを感じることなど絶えてない。(P049)」

Q「そしてこの自由への熱意こそが、危険などものともせずに、仲間に看取られて立派に死ぬことで、名誉と栄光とを購い(あがない)たいとの願いを生じさせるのである。自由な者達は、誰もがみなに共通の善のために、そしてまた自分のために、互いに切磋琢磨し、しのぎを削る。そうして、みなで敗北の不幸や勝利の幸福を分かち持とうと願うのだ。ところが、隷従する者達は、戦う勇気のみならず、他のあらゆる事柄においても活力を喪失し、心は卑屈で無気力になってしまっているので、偉業を成し遂げることなどさらさら出来ない。圧制者共は事のことをよく知っており、自分のしもべたちがこのような習性を身につけているのを目にするや、彼らをますます惰弱にするための助力を惜しまないのである。(P49)」

確かに、隷従を拒否することは勇気がいる。

その日、その日の細かいこと一々について隷従がついて回るのが日本の社会だから、それを一々拒否するのは、辛い。時に面倒くさくなる。

だが、本気で隷従を拒否したいのなら、日常の細かい何気ないところに潜んでいる隷従をえぐり出さなければ駄目なのだ。

だが、そうするとどうなるか。

周りの隷従している人達に、まず攻撃されるのだ。


~略~

自由への熱意を失ってしまった人間にとっては、隷従が安楽なのだろうことは、今の日本の社会を見れば良く分かる。


最後に、ラ・ボエシの書いた美しい文章を、引き写す。じっくりと読んで頂きたい。

R「この自然という良母は、我々みなに地上を住みかとして与え、言わば同じ家に住まわせたのだし、みなの姿を同じ形に基づいて作ることで、いわば、一人一人が互いの姿を映し出し、相手の中に自分を認めることが出来るようにしてくれた。みなに声と言葉という大きな贈り物を授けることで、互いにもっとふれあい、兄弟のように親しみ合う様にし、自分の考えを互いに言明し合うことを通じて、意志が通い合うようにしてくれた。どうにかして、我々の協力と交流の結び目を強く締め付けようとしてくれた。我々が個々別々の存在であるよりも、みなで一つの存在であって欲しいという希望を、何かにつけて示してくれた、これらのことから、我々が自然の状態に於いて自由であることは疑えない。我々はみな仲間なのだから。そしてまた、みなを仲間とした自然が、誰かを隷従の地位に定めたなどと言う考えが、誰の頭の中にも生じてはならないのである(P027)」

最後に、この素晴らしい本を翻訳して下さった、山上浩嗣さんに心からお礼申し上げます。

16世紀初めのフランス語は大変に難しいようで、 それを苦労して翻訳して下さったご努力に敬意を表します。この本は、今の日本人に絶対必要な物だと思います。

この内容を18歳で書いたというのは、洞察力が圧倒的。
(なんとなく社会の歪みに気づく人は多いと思うが、論理的に文書化できる人間はまれ)
これを端的に表現すると、自立していると勘違いしている「奴隷」っすね。(自活の話ではない)
その社会構造は、「奴隷」(小圧制者)が「自発的隷従」を暗黙のうちに強要していると。
「奴隷」は、「圧制者」(小圧制者)と同様に偽善者であると。
日本社会の息苦しさの謎解ける。
ユダ金支配を取っ払ったとしても「自発的隷従」は残りそうだが、「自発的隷従」を無くせばユダ金支配も芋づる式に消える可能性がありそうな。
というわけで、ガンディーの非暴力不服従闘争が正解っぽいと。

奴隷つながりで↓



取り調べの可視化を拒絶する法務行政の厚顔無恥
2014年5月 1日 (木) 植草一秀の『知られざる真実』(奴隷部分を拝借)
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-44ed.html
奴隷解放令が施行されたにもかかわらず、自由の身になりたがらぬ奴隷がいたという。

理由を尋ねると奴隷はこう言った。

「ご主人様が悲しむんでねえかと思って自由にはなれません」

ものごとの根本を理解せずに、情だけに流されれば、こんなことになる。

エーリッヒ・フロムの古典的名著(著者名訂正済み)
『自由からの逃走』(東京創元社)
http://goo.gl/kPJTVj
が改めて読み直されている。著書の案内には次のように記されている。

自由であることの痛烈な孤独と責任の重さを受け止め、真に人間性の実現といえる自由を希求することなくしては、人類にとって望ましい社会は生まれない

機械主義社会や全体主義の圧力によって、個人の自由がおびやかされるというばかりでなく、人々がそこから逃れたくなる呪縛となりうる点にあるという斬新な観点で自由を解明した、必読の名著。

不思議なもので、分野の違う異端者三名(社会的な伝統・権威などに迎合しない者という意味合い)が、似たような時期に、似たような情報に接し、似たような結論を導き出している点が非常に面白い。
「時代は気骨ある異端児が切り開き、それが一般化し次世代のスタンダードになる」というセオリーからすると、当然なのかもしれないが・・・時代は異端児(笑)

劣化と言うか、未熟と言うか、受動的反応と言うか・・・サンプルですね↓

Chick インドラ天網の猫 ‏@chicksmbox 4月1日
嘘だらけの増税に、ティッシュペーパーや洗剤を買いだめして、納得する羊の国 ▶消費税増税前夜に買い走る国民の姿を映し出す報道に思う|http://www.amakiblog.com/archives/2014/04/01/#002924 (天木直人のブログ)