東名厚木ー用賀6分20秒!?
彼の名をゲーリー・アラン・光永という。
スピードに取り憑かれていた。
ハワイで生まれ大学を卒業して日本の地を初めて踏むと、
持ち前の語学力を生かして小さな商事会社に就職した。
走り出したのはその頃だ。
ロータリーのサバンナ、初代RX-3を駆りGI相手に基地の滑走路でゼロヨンを挑んだ。
負けると意地になって、車をいじり馬力を上げる。
打ち負かす相手がいなくなると、基地の外に出て行くようになった。
当然車もエスカレートしていき、収入の大半がそこに消える。
群れるのが嫌いな一匹狼だったが、40歳を越えると年下の仲間達もできるようになった。
青山3丁目にエンドレスと言う名の喫茶店がある。
8時を回ると、何処からともなく低い車高のさまざまな車達が集い、
零時を過ぎると、野太い排気音を響かせてどこかへ去っていく。
目的地は、東名高速道路海老名サービスエリア、厚木インターチェンジで
下り線をいったん降り、すぐUターンして上り線側のパーキングにくつわを並べる。
厚木ICから東京料金所までの27kmを、アクセル全開で競う。
東名レースである。
仲間はときに40台にもなった。
「コースレコード」は、ブルーのトランザムが叩き出した6分20秒、
平均時速255キロだ。光永は、愛車フェアレディZ・S30型を大改造し、
ついにはシボレー製5.7リッターV8エンジンをそのフロントに搭載した怪物に
仕立ててトランザムに競争を挑んだが、如何にしても歯が立たない。
「このクルマではダメだ。このエンジンもダメだ。
最高のクルマに、最高のエンジンでなくては。」
光永は環八の中古屋で、一台のデ・トマソ・パンテーラを見つける。
フォード製5.8リッターV8を、ミッドシップに積んだイタリア製スーパーカーだ。
軽いし空気抵抗も低い。サビついてガタのきたオンボロだったが、改造のベースにはふさわしい。
手塩にかけたZを売り、ローン契約書に印鑑をついた光永は、
これで最高のクルマが手に入ったと思った。
マリオ・ロッシとの直談判
アメリカのレース雑誌に紹介されていた、小さな記事を頼りに、
光永はアメリカ西海岸を訪れた。
そこにはNASCAR(ナショナルストックカーレーシング協会)とNHRA(ナショナルホットロッド協会)
というアメリカ二大レースで名を知られた名エンジンチューナーがいた。
マリオ・ロッシという。
光永は小柄なイタリア人にこう切り出した。
「V型8気筒を一台、作ってほしい。それをパンテーラに載せ、公道を時速200マイルで
走ってみたい」
かつて世界で、もっとも強力だった市販エンジンとは、大排気量のアメリカ製V型8気筒
-アメリカンV8-だった。
50年代の繁栄は、アメリカ車をより大きく豪華に彩らせ、
それとともにアメリカンV8も排気量を次々に拡大して高めていった。
その頂点が訪れたのは、皮肉にもマスキー上院議員が自動車の安全問題で
世論を沸かせ、平和主義団体によって地球環境保護が叫ばれるようになった
60年代終わり頃のことだ。
排気量7400cc430馬力などという、怪物エンジンが市販のスペシャリティーカーに
堂々と搭載され、加速性能を競い合ったのである。これらのクルマは人気の的だった。
売れればコストが下がる。アメリカンV8は世界でもっとも廉価で手に入る高性能
エンジンになった。
それを購入して載せれば廉価なスーパースポーツがたちどころにできる。
フォード製5・7リッター350馬力エンジンを搭載したイタリアの「パンテーラ」も
そういう伊米混血車である。
光永はパンテーラを、自分の夢を実現する母体に選んだ。
公道上で200マイル。東名を走るうちに芽生えた途方もない夢である。
だがパンテーラの、5.7リッター350馬力では力不足だった。
光永の計算ではパンテーラを時速200マイルで走らせるには700馬力の
パワーが必要だった。シボレー製7リッター級V8をさらにチューニングした
エンジンにそっくり交換することによって、光永はそれを得ようと考えたのである。
伝説のG.A.光永パンテーラ [3]
伝説のG.A.光永パンテーラ [1]
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伝説のG.A.光永パンテーラ [3]
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伝説のG.A.光永パンテーラ [4]
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