公募作品のヒント167・自民の終焉 | 作家養成塾『遊房』の公式ブログ 「めざせ!公募小説新人賞」門座右京監修

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<麻生首相>東国原知事の入閣で調整 分権改革担当を検討
(毎日新聞 - 07月01日 02:43)

 麻生太郎首相が閣僚人事で、次期衆院選に自民党公認候補として擁立を打診している東国原英夫宮崎県知事を入閣させる方向で検討していることが6月30日分かった。首相は閣僚の兼務解消などに伴う人事を一両日中に断行する方針で、東国原氏を地方分権改革担当などのポストで処遇することで調整している。衆院選に向け、国民的な人気の高い東国原氏を自民党の「選挙の顔」にすることで、民主党に対抗するのが狙い。

 首相は6月30日、人事について、「しかるべき時に、しかるべき方をと、前から考えてはいました」と記者団に語った。

 自民党の古賀誠選対委員長は6月29日、河村建夫官房長官と国会内で会い、東国原氏が次期衆院選に自民党から立候補するとの見通しを伝えたうえで、首相と東国原氏の会談を近く設定することで一致した。古賀、河村両氏の会談では、東国原氏の閣僚ポストについても協議した。衆院選では、東国原氏を比例代表東京ブロックの1位などで処遇する方向。

 会談を受け、首相は同日夜、河村長官と首相公邸で会った。政府・与党内では東国原氏を地方自治所管の総務相に起用する案もあるが、首相は佐藤勉総務相・国家公安委員長・沖縄北方担当相に総務相を引き続き担当させる意向で、東国原氏は地方分権改革担当や無任所の閣僚とすることで検討が進んでいるとみられる。東国原氏も総務相ポストにこだわっていないとされる。

 また、東国原氏が古賀氏と6月23日に会談した際に出馬の条件として、地方分権に関する全国知事会の要望を党政権公約(マニフェスト)に盛り込むよう求めたことについては、大筋盛り込む方向で調整が進んでいる。

 首相は7月1日に10年度予算の概算要求基準(シーリング)を閣議了解した後、速やかに人事に着手し、2日にも新閣僚の認証式をする方針だ。

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今回の記事からは、ケンミンに詭弁を労している知事がどうのというのではありません。
私自身は、物書きの一人として、もちろん親分格のたけしもだけれど、講談社に武力をもって押し込んだ、この男を終生許すことはないということです。

人のうわさの七十五日。人間はすぐに忘れる動物かもしれませんが、暴力を実行した男は、どんな詭弁を労そうが、それだけであり、しんそこからの人気を背負っていないと思っています。

このアメブロにも本人のブログがありますが、何を書こうが、いいわけでしかないわけです。

さて、ということで、今回の公募作品のヒントは、そういうくだらないレベルではなく、人気ということをまったく曲解している、崩壊前夜のような自民党をモデルとするなら、おもしろい話が書けそうだということなんです。

人気というのは「人」の「気配」と書きます。
その人に人気があるというのは、その人の行くところ、みんなが寄ってくるということなんです。

ところが、人というのは、それほどピュアなものではありません。
純粋にその人が好きだからというのではなく、打算的に動いている場合があって、必ずしもその人に人気があるからとは限らない場合も多いわけです。

さて、人気がないのに、人気があるように錯覚するということを、歴史から考えてみると、幕末の十五代将軍徳川慶喜がそうだったように思えるんですね。

官軍と戦の前に逃げ出した将軍なのに、家康の再来と担がれたわけです。

家康が聞いたら怒るよ。
というのが、当時の慶喜に対する評価だと思うんですが、そんな逃げ出したい気持を我慢して、戦争の最前線にやってきて、腰が引いた慶喜というのは、将軍ということを外して考えれば、実に普通の小市民だった気がするんですね。

麻生という総理も、おじいちゃんがとんでもない総理だっただけで、本人はそういう資質のかけらもない。そういうちんぴらが総理に祭り上げられたわけですね。これは敵前逃亡しても仕方がないと思うんですね。

昨年、篤姫で幕末がブームになったようです。
特に魅力を感じなかったので、私はみなかったですが、もっともひ弱な将軍として、慶喜を描いてみるというのもおもしろいかなと思っています。

資料をみますと、十六代の正式な徳川家宗家の当主となったのは、家逹(いえさと)という人だそうです。
彼は総理大臣に推される場面が多々あったそうですが、自分が総理になれば、徳川政権の再来になるといって、彼は総理を固辞したそうです。

なりたくてしょうがなかった麻生くんに比べ、なんとさわやかな16代目だろう。と思うのは私だけではないように思います。

歴史にたらればはありませんが、この家逹が総理になっていたら、日本はもっと違った形の先進国になっていったと思うのです。
昭和15年(1940)6月5日永眠した、隠れた英傑にひと月遅れの献杯です。