『最終兵器彼女外伝集 世界の果てには君と二人で』 /「セカイ」の果てから「せかい」へ | 限界小説研究会BLOG

『最終兵器彼女外伝集 世界の果てには君と二人で』 /「セカイ」の果てから「せかい」へ

『最終兵器彼女外伝集 世界の果てには君と二人で』
/「セカイ」の果てから「せかい」へ
前田 久



 本作は2000~2001年にかけて小学館の雑誌「ビッグコミックスピリッツ」に連載された『最終兵器彼女』(ビッグスピリッツコミックス、全7巻)の外伝集である。とはいえ、「外伝」と銘打っていることからもわかるように、世界観は共通しているものの、本作だけで独立した作品として読み解くことが可能な作りになっている。



 しかし、『最終兵器彼女』(以下、『サイカノ』)という作品の位置付けについて、念のため解説しておこう。ある日突然開始された戦争の中で、最終兵器に改造された少女・ちせと、その恋人・シュウジの純愛と、壮大なスケールの結末を、大状況に翻弄される人々の姿を交えながら描いた『サイカノ』は、新海誠の自主制作アニメーション『ほしのこえ』や、美少女ゲームブランド・Keyの美少女ゲーム『Kanon』『AIR』、またはライトノベルにおける上遠野浩平『ブギーポップは笑わない』、秋山瑞人『イリヤの空、UFOの夏』などとならんで、いわゆる「セカイ系」と呼ばれる作品群の嚆矢にして、代表的作品とされているものである。

 これはかなり乱暴な私見だが、秋山や元長柾木、田中ロミオ、谷川流、西島大介など「セカイ系」の形式を大なり小なり意識した創作を行っている作家は、今名前を挙げた諸氏以外にも有名無名問わず現在無数に存在しているが、おそらく、そのような意識的・無意識的な批評意識を抜きにして、とにかく何も考えずに作品を生み出したところに、作者の意図を離れたところで「セカイ系」のもつ、「社会と個人的実存の短絡」といったような形式性が刻印されてしまう作家……つまり、「セカイ系」作品をそのキャリアの中の一作として描いた作家ではなくて、「セカイ系」という言葉が存在しようとしなかろうと、何を描いても良きにつけ悪しきにつけ「セカイ系」になってしまっていただろう、純粋な意味での「セカイ系作家」と呼べるのは、新海と『AIR』のシナリオライター・麻枝准、そして、今回取り上げている『サイカノ』の高橋しんの三人だけなのではないだろうか。

 だから、「セカイ系」という形式を、外在的な物差しによって超克するのではなく、あくまで内在的な形で乗り越えるという運動は、彼ら三人の動向に注目すること以外によってはありえないのではないだろうか。個人的実存と社会の間の短絡を強く戒めるべき、などということは、それこそ、ロマン主義や実存主義に基いた政治運動に対する批判的言説の蓄積が数十年、単位で蓄積されているのであって、それを文脈を無視して繰り返したところで「セカイ系」的な諸問題を生み出す地場は温存されてしまう。筆者は、そのような一般的な「近代」社会の水準からすれば恥じいるほかないような「地場」を愛しているので、単純な超克(「大衆文化の判断基準の総ハリウッド映画化」などという類いの)へと向かって欲しくないと思っているのだが、しかし単純な近代化を「国際競争」「コンテンツパワー」「ジャパン・クール」などの言葉でもって無邪気に推し進めようとするひとびとが群れをなしている現在、内在的な近代化を一度成し遂げた上で、再帰的に「地場」を構築する必要にかられているのではないか。

 以上の問題意識を踏まえた上で、『サイカノ』外伝集の内容を見ていこう。

 収録されている物語は四篇。順に見ていくと、最初の一本は四コママンガ誌に掲載されたあるカップルの付き合い始めのぎこちない風景を切り取ったショートショート。男女どちらか一方の視点ではなく、同じ場面での「両者の」モノローグが描かれている点が、少し知識があれば、少女マンガと少年マンガ・青年マンガ間で1970~80年代にかけて展開された恋愛作品の影響関係を想起させる。論点を先取りしておくのだが、本短編集にはパロディやオマージュといったレベルではなく、作品に描かれた心情の連鎖という意味での先行作品との影響関係が濃厚なのだ。

 二本目が、街の上空を飛ぶ「謎の光」(ストーリーには関連しないが、おそらくは『サイカノ』本編の主人公である「ちせ」の戦闘形態)を偶然同時に目撃したことからはじまる、中学生の男女二人の逃避行とそこからの帰還を描いた「世界の終わりは君と二人で」。いきなり常識では理解不能な動機で自分を振り回す「他者」としての異性というモチーフは、原秀則の一連の作品に頻出するような、ある意味青年誌の恋愛ものにつきものの要素である。そして、架空のシナリオを演じるかのようにして進められる逃避行が、それら青年誌の恋愛ものがどのように機能してきたか(現実ではありえない、空回りするロールモデル!)を戯画化して描き出す。そして結論部では、物語が現実に果たす機能の限界がポジティブに示される。「セカイ系」とは、まさにこういう作品を指してきたのだ、ということは何度繰り返し述べても足りない。

 三本目は、廃墟と化している戦場で兵士に犯されていた少女と、犯している隙をついて自分の保身のために兵士を殺した少年兵の、束の間の交流と残酷な結末を、兵士が肌身はなさず持っていたお守り代わりの銃弾の視点から描いた「Lovestory,killed」。
 本作のみは、作者自身によって松本零士の「戦場まんが」シリーズとの影響関係が明示されている。確かに「兵器へのフェティッシュ」「ロマンと残酷な現実の対比」という点での類似が存在する。二本目の結論で、絶望の中の物語の輝きを描いた高橋は、あくまでそこから視点をぶれさせることはないものの、物語を持つ人間が消滅したあとの世界の無機物的な美しさを強調してみせる。その点で松本の作品にある「滅びの美学」とは位相がことなっている。松本との切断を強調して登場した高橋留美子以降の青年マンガの系譜の中にいる作家が、松本へと回帰しようとしたときに生まれたこの差異は、注目に値するものと言えるだろう。


 そして、最後に収録されているのが、ただ一本だけ二〇〇六年に書き下ろされており(他の作品は二〇〇一~二〇〇二年初出)、一番の問題作であるだろう「スターチャイルド」だ。
 『サイカノ』本編でちせの力によって世界が滅びてしまったあと、生き残っていた少数の人々によって作られた「セカイ」から、新しい「人」が生れるまでを描いた作品である本作は、舞台設定のゆえか、これまでの三作よりもファンタジー色が強く、そしてまた寓話の趣きが大変に強い。
 かつての滅びの経験から、争いを忌避し、原始的な神を崇めながら狭い穴倉一箇所にとどまっている人々。ただでさえ少ない子供は、巫女役を担わされながら徐々に死んでいっている。その中で、ただひとり成長を望み、「鬼っ子」と呼ばれる子供は、前文明の残したガラクタに生命を見出している。しかし、巡り巡って巫女に任命されてしまった「鬼っ子」は、その運命から逃れるために大人を殺戮する中で、ガラクタの生命も見失ってしまう。そして、穴倉を飛び出した「鬼っ子」は、「セカイ」の外にある「せかい」を発見し、そこで生きていくことを決意する……。

 滅びた世界の中にただひとつ残された、新しい希望としての子供、というようなモチーフは世紀末を描いた作品に頻出してきたモチーフだ。宮崎駿『風の谷のナウシカ』といった大メジャーから、森山塔『とらわれペンギン』などのややマニア向けのものまで、具体名は枚挙に暇がない。なので「スターチャイルド」を、その意味でことさら特権視することはない。しかし、前置きでも述べたように、「セカイ系」の流れの中で、二〇〇六年に本作が描かれていることには意義がある。世紀末の、終末をどこか待望しているような空気の中で描かれた、ある意味でユートピアとしての「滅びた世界」に対して、二〇〇六年の空気の中で描かれる「滅びた世界」は、おそらく、精神的な意味で既に滅びてしまっている現実の世界を率直に写し取ったものではないだろうか。そこには、夢も理想もない。
 終わってしまった「セカイ」があり、「セカイ」もまた終わりゆく宿命を持っている。だが、たとえ「セカイ」が終わったとしても、人知を超えた、経験の総体としての<世界>が終わることはけしてなく、私たちは得体の知れないところ(「せかい」!)に立ち続けることになる。その、人のささやかな営みの全てを相対化しつくすほどの気付きを、立ち竦むだけの「ニヒリズム」や、一発逆転の誇大妄想的な形而上学に結び付けることなく、自らをとりまく全ての絶望への「赦し」へと転換すること。そのことだけが、かろうじて私たちを日常へとつなぎとめてくれるのではないだろうか。「スターチャイルド」が描いている境地は、そのようなものである。
 そして、思春期的なものにせよ、社会の流動性の高まりによって自分自身の人生の一貫した「物語」を描くことが困難になっている状況がもたらしたものにせよ、深刻な実存の混乱の中にあるひと――現在、サブカルチャーというものを求めているのはそのような人以外にいないのではないか。そのことの是非はひとまずおくとして――が必要としている作品というものは、高みから「俺にもそんな時代があった」式のガハハ親父風の語りを誘発するような微温的な構造を持った作品ではなく、むしろ作者の混乱をそのまま率直に作品へと置き換えていったことで、同様に混乱の中にある読者に寄り添うような、本作のような作品ではないだろうか。つまり、はっきりとした無条件の救いを描かないがゆえに、逆説的に救いの存在を感じさせるような作品こそを、読者は必要としているのではないだろうか。

 そして、セカイ系とは、単なる自閉的で幼稚な作品群ではなく、そのような作品たちのことを指していた言葉ではなかっただろうか。本作の書評を通じて、改めてそのような問い掛けを世に投げかけて、本書評を終えようと思う。




『最終兵器彼女外伝集 世界の果てには君と二人で』

高橋しん・著
小学館
ISBN:4-09-180746-1
最終兵器彼女外伝集世界の果てには君と二人で (ビッグコミックススペシャル)/高橋 しん

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