『ネコソギラジカル』 /世界の終わり、物語の終わり | 限界小説研究会BLOG

『ネコソギラジカル』 /世界の終わり、物語の終わり

『ネコソギラジカル』/世界の終わり、物語の終わり
笠井潔



「絶海の孤島での首斬り殺人。/京都の町に現れる殺人鬼。/傭兵を養成するだけの女子校。/意図的に天才を創造しようという研究施設。/永遠に死なない少女の死」。主人公の「ぼく」は、このように「戯言」シリーズ第一作『クビキリサイクル』から第五作『ヒトクイマジカル』までの物語を要約しているが、このシリーズも第六作『ネコソギラジカル』で終わりだ。しかし、物語は本当に「終わった」のだろうか。
 シリーズ第一作と第二作『クビシメロマンチスト』は、一応のところ探偵小説形式に則って書かれている。『クビシメロマンチスト』は『きみとぼくの壊れた世界』と並んで、西尾維新による本格探偵小説の代表作だろう。
 しかし第三作『クビツリハイスクール』以降、作品から探偵小説的要素は急速に失われ、物語は国際秘密組織のエージェントや世界の破滅を望む陰謀家や、もろもろの超能力者が暗躍する伝奇アクション小説の方向に傾斜しはじめる。作者が影響された先行作家の名前でいえば、森博嗣から上遠野浩平へ、という感じだろうか。探偵小説形式から離脱した結果、このシリーズは新たな難問を抱えこんだ。「終わり」をめぐる難問である。
 探偵小説を「終わり」の小説と定義することもできる。もちろん、終わらない小説は原則として存在しない。作者の死による未完などを例外とすれば、どのような小説も最後には終わる。『物語批判序説』で「終わり」をめぐる言説を非難した蓮實重彦の小説『陥没地帯』でさえ、頁が尽きれば終わりになるのだ。しかし近代小説の「終わり」には、多かれ少なかれ恣意的なところが否定できない。作者が「終わり」だと宣言したから、小説は終わる。作者の意図とは無関係に、小説がそれ自体の「終わり」を示しているような場合も稀にあるが、そう思わない読者が存在する可能性は排除できない。とすれば、この場合も作者が権利を行使して小説を終わらせているわけだ。
 奇形的な近代小説である探偵小説のみが、作者の意思とも読者の反応とも無関係に、終わるときには「終わる」。いかなる疑問も反論も許さない完璧な形で終わる。謎が解明された瞬間に、探偵小説は必然的に終わる。探偵小説が「終わり」の小説である所以だ。
 もしも探偵小説の連作として「戯言」シリーズが書き継がれたなら、「終わり」をめぐる難問は表面化しないですんだろう。探偵役など登場人物を共有する各巻ごとに「終わり」のある長大な連作は、探偵小説ジャンルでは少しも珍しくない。ホームズ連作やポワロ連作などの場合、シリーズそれ自体は終わることなく、たんに「中断」されるだけだ。コナン・ドイルのように作者の権力を行使して、探偵役を作中で殺害しシリーズの「終わり」を宣言しても無駄である。ホームズは生き返ってしまうのだ。ドイルが書かなくても、第三者がパロディやパスティーシュとして連作を書き継いでしまうかもしれない。「戯言」シリーズの作者は中途で探偵小説形式を放棄し、探偵小説連作では定型的なシリーズの「中断」を自分に禁じたのである。
 この問題にかんして、作者の選んだ方向性が見えはじめるのは、「狐面の男」が初登場する第五作『ヒトクイマジカル』からだ。「物語の存在を確信した以上、確信してしまった以上、それを読みたいと思うのは人の情ってものさ、さして特別な感情ではない。なればこそ、その達成こそが悲願」と狐面の男は「ぼく」に語る。この人物にとって、物語と世界は同義である。第六作で明らかにされるように、狐面の男は超能力者の秘密結社「十三階段」を組織して、世界に終末をもたらそうと暗躍しているのだ。世界の終わりを、自分の眼で見たいという理由で。
 歴史の終焉する地点に身を置き、あらゆる出来事を一方的に見下ろしうる学的観望者に憧れている点で、狐面の男はヘーゲル主義者である。また狐面の男の野望(世界の終わりを見たい)が、物語読者の欲望(話を最後まで知りたい)の鏡像であることはいうまでもない。蓮實もまた「物語批判」の一環として、「終わり」の言説を非難していた。
『ネコソギラジカル』全三巻はひたすら、「終わり」という難問との格闘に費やされている。探偵小説的な「終わり」、あるいはシリーズの「中断」という特権的な結末を放棄して、どのような「終わり」が可能なのか。
「ぼく」陣営と「十三階段」の、世界の存続を賭けた決戦は中途半端に終わる。狐面の男の野望は計算違いのため中途で挫折し、世界の終末は延期される。物語の結末は、伝奇アクション小説としてはアンチクライマックスとしかいえそうにない。
「終わり」をめぐる難問は、セカイ系的なテーマとも通底する。セカイ系では通例のヘタレ少年として登場した「ぼく」だが、最後には「正義の味方」として「闘う」ことを決意する。ただし「ぼく」が決断するのは、「人類最強」と「人類最終」の二人の戦闘美少女を「闘わせる」ことなのだ。二人のヒロインを「闘わせる」ことにしか自分の「闘い」を見出しえないという主人公の倒錯に、この作品とセカイ系とのねじれた関係を見ることができる。また「ぼく」は、狐面の男を射殺するという決定的な行動に踏み出すことなく、あえて「人類最悪」の敵を逃がしてしまう。セカイ系的なキャラクターからの離脱を望みながら、しかし、それに主人公は失敗している。
 エピローグで描かれる四年後の「ぼく」は、「大好きな誰かのためなら、あたしはいくらでも強くなれるし──なんでもできる」という大人に、「ぼくもそう思います(略)誰かのために──何か、してみたいって」と応じる。へタレ少年だった「ぼく」は教養小説的な成長を遂げ、社会的な主体として成熟したのだろうか。
 簡単にいえば、教養小説とは『精神現象学』の小説版である。「ぼく」が人格的に成長し、「戯言」シリーズが教養小説的な「終わり」を迎えるとしたら、それはヘーゲル主義者である狐面の男への「敗北」をしか意味しない。探偵小説シリーズ的な「中断」を放棄した作者は、大きく一回りして、結局は近代小説的な「終わり」に行き着いたようにも見える。
 しかし、戦闘美少女を「闘わせる」ことでしか「闘う」ことのできない「ぼく」は、狐面の男を射殺して物語を終わらせることも回避した。ねじれながらも「ぼく」は、依然としてセカイ系的な少年キャラクターである。そんな主人公が、予定調和的な成長と成熟に達することなどできるものだろうか。エピローグ全体が「戯言」にすぎず、物語は「終わる」ことに失敗しているという疑惑を、読者は棄てることができない。「闘い」は、そして物語は、依然として継続中なのかもしれない。