『ネコソギラジカル』 /ビルドゥングス・ロマンの逆説(前田 久) | 限界小説研究会BLOG

『ネコソギラジカル』 /ビルドゥングス・ロマンの逆説(前田 久)

『ネコソギラジカル』
/ビルドゥングス・ロマンの逆説
前田 久


■はじめに:語るのは誰か?

 別冊『ユリイカ』「総特集・西尾維新」所収の論考を巽昌章はこう書き出している。
〈ふつうに面白いから。西尾維新という作家について何か書こうとした時、とりあえず困ってしまうのはこの理由による。〉
 この「とりあえず困ってしまう」感覚は、「西尾維新という作家」に限らず、エンターテインメント小説全般を批評するときに一般的についてまわる感覚であろう。現在、インターネット上に溢れている書評の類いがブックガイドとしての機能しか期待されていないように、エンターテインメント批評読者の期待地平は概ね「面白い/面白くない」という水準である。このような状況で「面白い」ものをさらに「面白い」と言うことには何ら意味がないし、それ以外の水準で語っても、よほどのインテンシブを設定できなければ影響力を持てない。
 しかし、そのような表面的に流通するコミュニケーションとは裏腹に、エンターテインメント小説が、その「面白い/面白くない」という水準を飛び越え、主体に決定的な変化を与えてしまう場合がある。言うなれば「教養小説」的な機能をエンターテインメント小説がはたしてしまうことが、とりわけ私たちの生きるこの社会ではよくありうる。
 大塚英志が「自分は小説と文学を同一のものとして語っているとよく批判される」と自嘲しならも、あくまで文学=「私」を巡る表現としてサブカルチャーについて語りつづけるのは、大塚がこのような問題にとりわけ敏感だからだろう。筆者も本書評をそのような立場で始めさせてもらおうと思う。

■成熟を望むのは誰か?

 かつてアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』のTV版最終回が、それまでのシリーズを通じて展開されてきた物語(主人公の少年・碇シンジの成長)とガジェットの説明(呈示されていたSF的な謎の説明)を放棄し、アンチ・ビルドゥングス・ロマンとして終わったことを巡って、大塚英志と東浩紀の間でこのような議論が交わされたことがある。「広く影響を持った物語としてきちんと成長の物語を描いて見せるべきだった。あんな自己改造セミナーのようなラストにはがっかりした」と述べた大塚に対し、東浩紀は「視聴者の大半はそのような『成長の物語』によって自らの成長への欲望が代替されることをこそ願っていたのであって、むしろあのような形でその欲望を裏切ってみせたことに意味があった」と返した。当時、最終回の内容にとまどい、どのように受け止めたらよいかを模索していた中学生だった筆者は、このやりとりを非常に興味深く読んでいたものだが、現在に到ってもこのやりとりから導き出せる教訓は未だ多いように思う。というよりも、私の考えでは『ネコソギラジカル』のあまりにあっけらかんとしたビルドゥングス・ロマン形式のラストは、おそらく西尾維新という作家の問題やストーリーとしての論理的必然というよりも、時代状況に要請されてしまったという側面が強い。紙幅の関係上、この場で細かく述べることは不可能であるが、私はそう考え、このときのやりとりから教訓を引き出す必要性はむしろあらためて増している、というように状況を診断する。

■傷付いたのは誰か?

 『ネコソギラジカル』において、これまでのシリーズを通じて、自分に一方的で我儘とはいえ愛情を向けてきた女性(『クビシメロマンチスト』葵井巫女子)を、自分の行動が自死させるだろうという帰結を予想していながらも見殺しにし、また、一瞬ではあるが感情の交流を果たした少女が死のうが(『ヒトクイマジカル』紫木一姫)、あくまで「戯言」として自分の予想の範疇内へと押し留め、自分自身の認識や行動の枠組みを大枠では変化させることなく存在してきた主人公が、次々と傷付く友人たちの姿を目撃することや最愛のヒロインを失なった(最終的にはことなるが)ことによってついにの強迫衝動的な決定の保留(=「戯言」)から解放され、成長する。この過程が説得的に描かれたのであれば筆者も何も言うことはなかった。しかし、筆者には一向に説得的なものとは感じられなかった。何故か。簡単なことである。
 ここで改めて確認するが、ビルドゥングス・ロマンとは、幼稚な全能感を持つ肥大した自我が、さまざまな遍歴を経ることによって傷付き、精神分析の言葉で言えば「去勢」されることで、適切な身の処し方を身に付けるまでの物語のことである。先ほど、簡単に述べたあらすじ紹介にも書いたように、『ネコソギラジカル』において主に傷付くのは主人公〈いーちゃん〉の友人や恋人で、〈いーちゃん〉本人はといえばほとんど傷付かない。彼が主体的な決断のもとに救おうとしたはずの少女(想影真心)を血濡れになってまで救うのも彼ではないし、ましてや彼が最終的に救いたいと考えた少女(玖渚友)を救ったのは彼女自身である。しかし、この二つに関しては、まだ間接的に関与した――すなわち、彼の意志が世界を動かしたのだ、となんとか言えなくもない。より重要な箇所は、彼が宿敵(西東天)を殺せる機会を手に入れながら、それを行使しなかったことだ。凡庸な「父殺し」などといった象徴的な意味ではなく、単に事実上の問題として、彼が設定したアングルが自分の大切なものを踏みにじったという感情の履歴があったにもかかわらず、「撃たない」という選択肢を選ぶことが、本作においては全く正当化されていない。人殺しはやはりいけないから? 復讐が復讐を生むようなやりとりはいけないから? そのような安いヒューマニズムで語るならば、彼が巻き散らした様々な惨劇の責任はどうなるのだろうか。私は、この〈いーちゃん〉の行動は、端的に行為の責任を引き受けるような覚悟が足りなかったのではないかと理解する。それは、例え後日談において「何かあったらまた防ぎますよ」という決意表明をしてみたところで変わらないのではないか(余談だが、支持層が若干重なるだろうアニメ『機動戦士ガンダムSEED』シリーズの主人公・キラも、傍若無人に無敵の力を発揮して状況を掻き回すにもかかわらず、戦闘の結果で一切パイロットを殺していないという描き方をされているのが興味深い)。
 つまり、戯言シリーズは、典型的なビルドゥングス・ロマンの形式を見かけ上とっているものの、その実、そこで傷付いてきたのは語り手=主体である〈いーちゃん〉に惹かれる女性キャラであって、〈いーちゃん〉本人が「成長」を促すような傷を負うことはなかった(この点で、筆者は『ユリイカ』別冊の巽昌章が「(戯言シリーズでは)イタい描写でぎりぎりの倫理が保たれている」という説に反対する)のではないか。にもかかわらず、物語の形式的には〈いーちゃん〉はさも成長したかのように描かれてしまうのおかしくはないだろうか。
 その点、むしろ西尾の別作品『きみとぼくの壊れた世界』のラストシーンで描かれた、人生への期待水準を下げることでサヴァイヴする主人公の姿の方が、論理としても心情として理解できるし、優れているように思う。

■ビルドゥングするのは誰か?

  ……と、ここまで述べてきたものの、結局『きみとぼく~』と『ネコソギ~』の間には一年程度しか発表に間隔がないことを考えれば、単純に西尾維新とはナイーブな「作家性」というものを少しも信じておらず、読者――それは奇形化した形式を用いて作品を書いてしまう「ファウスト」系作家たちに、健全なビルドゥングスの形式の獲得を望むような批評家も含まれる――の要求水準を敏感に感じ取って、適切な「萌え要素」の配置を行える作者なのだ、ということなのだろう。言ってしまえば、私が言うような問題系はおそらく西尾は既に折込済みなのだ。それは作品は元より、『ファウスト』vol.6A-SIDE所収の座談会(「『ファウスト』世界進出記念インタビュー・セッション」)における発言

〈西尾:うーん、深みを与える、という言葉それじたいがなにか思い上がりな気がして、僕にはよくわからないです。深いとか浅いとか厚いとか、読み手の心の中の問題だと思う。テクニックとしてのメリハリならばともかく、深みを与えようとしている段階でそれはもう深くない。全部深ければただの平坦だし。〉

に典型的な、西尾のさまざまな場所での発言からも伺えるものだ。それは、非常に凡庸でナイーブな「作家主義」の空間を生きる作家たちや、作られたライトノベル・ブームに後押しされる形で市場に蔓延する未熟な西尾のエピゴーネンたちなどは問題にもならないレベルであり、その点において西尾維新という作家の圧倒的な優秀さは大いに評価されるべきだ。しかし私としては、そのように「優秀」であるからこそ、その「優秀」さの先にあるもの、「優秀」さを徹底していった先にしか見えてこない「優秀」さのみでは描くことの出来ない境地を西尾には目指して欲しい、見せて欲しいと思うのだが、このようなことを作家に期待してしまうことは、私が本論で『ネコソギ~』に対して述べてきた「自分自身のビルドゥングスを他人が傷付くことによって代替しようとする態度は是なのか」という批判が、そのまま自己適用されてしまうような事態なのかもしれない。

 なんとも、「ビルドゥング」とは難しいものだ。


『ネコソギラジカル(上) 十三階段』
『ネコソギラジカル(中) 赤き征裁VS.橙なる種』
『ネコソギラジカル(下) 青色サヴァンと戯言遣い』

西尾維新・著
講談社ノベルス
ISBN:4-06-182393-0 ほか

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