アニメ対談 世直し・世界改革・システム改変的作品群(小森健太朗×藤田直哉) | 限界小説研究会BLOG

アニメ対談 世直し・世界改革・システム改変的作品群(小森健太朗×藤田直哉)

小森健太朗×藤田直哉
アニメ対談 世直し・世界改革・システム改変的作品群


(コミケで作った小森×長谷川アニメ対談本の番外編として小森×藤田「世直しアニメ対談」をやりました)

『攻殻機動隊S.A.C.』『コードギアス 反逆のルルーシュR2』の内容に触れています。


小森「宇野常寛とか笠井潔が『決断主義』の勃興ということを言っていますが、アニメでそれに近い系列として、世直しとか、世界の革命・変革を志すキャラが出てくる系列もありますね。大体二〇〇〇年代としては、その手のキャラは正義でなくダークヒーローの場合が多いんですが。具体的な作品名でいうと、『デスノート』『攻殻機動隊』の二期S.A.C.『コードギアス 反逆のルルーシュ』『東のエデン』。
 まあ、アニメの作家とか監督で、正面からクーデターとか政府を転覆させて政権奪取をはかる話を描こうなんてするのは、押井守・神山健治の師弟コンビ以外にあまり見当たらない。押井は『機動警察パトレイバー』で、近未来版2・26事件ともいうべきクーデターを描いてますし、テレビシリーズの『パトレイバー』にもクーデタの話があります。
 『攻殻機動隊』の二期は、移民が大量にいる近未来の日本で、移民特区で反乱とか暴動が起きたりしていますが、多重構造のあやつりが背後にあって、合田というキャラがその首魁ですね。この作品がちょっと弱いと思うのは、〈個別の十一人〉が掲げる革命思想が何を目指し、何と対立するものなのか、いまひとつはっきりしないところにあると思います。神山健治の初期構想にあった三島由紀夫思想に共鳴するクーデタなら、もっと対立軸ははっきりしたでしょうが、それを本当にやると政治的にヤバい領域につっこみますからね。
 私は、「ユリイカ」(青土社)誌上の『攻殻機動隊』特集号に原稿を寄せているのですが、その中で、〈個別の十一人〉とゴーストに関して少し考察を書いています。あらすじを言うと、ネットワーク化が進んだ近未来、西洋近代的な形成された自我とか主体は関係性の束に解体されてしまって、むしろ東洋的な、〈縁〉による合成的な主体が優勢になり、それがまあ〈ゴースト〉なわけです。それに対して、デカルト的な主体を回復させようとする運動が、個別の十一人の目指したものだろうと。そうみると、西洋思想と東洋思想の対立軸が『攻殻機動隊』の近未来世界に移植されているわけですね。
 
藤田「グローバル資本主義の論理の中で、知的な才覚で勝ち残らなければいけないという競争社会的なリアリティを持ちながら、そのシステム自体を改変しようとする物語の系列はあったと思います。多分ここで「世直しもの」と呼ばれているのはその系列でしょう。
『攻殻機動隊』二期はとても不思議な作品でした。一期の「笑い男」という、ある意味2ちゃんねらーのような、誰とも入れ替え可能な、固有性のない犯人についての物語はある意味できちんと完結しているものだった。それに対し、二期はそのようなネット的な主体と政治の問題との関係を考察している。出島にいる難民と、それに対抗する〈個別の十一人〉との関係は、明らかに「ネット右翼」のような問題系を意識して描かれている。合田という存在は、世論をどう操作してどうコントロールするかを計数的にコントロールするという手法で、接続された人々を政治的に誘導させていますね。それに対し、久世というもう一人の物語の中心人物は、〈個別の十一人〉という、「ネットでの融解した人々」に反対する人々の一員でありながら、そこから視聴者にはよくわからない理由で生き残って、難民たちの集合的意識に対して「ハブ電脳」として機能し、蜂起や叛乱を組織するリーダー的な存在になっていくわけですね。久世のこの二面性というのは、分からない部分があります。思えば合田も、顔の半分が優しい顔で半分が怖い顔だという風に、情報操作によるコントロールにもいい面と悪い面があることを象徴していました。先ほど小森さんはデカルト的主体である西洋的主体と東洋的主体と対比させていらっしゃいましたが、「個別主義者」は侍の格好をしていたりして、「日本」っぽいんですよね。久世は、「個別」でありながら、「集合体」でもある。それが故にどちらの要素も存在している「ハブ電脳」として機能できたのではないかという風に見えます。
 この作品における九課が振り回されるばかりだというのはご指摘の通りだと思います。多分、『パトレイバー2』で主人公たちがあまり活躍しないのと似ていますね。実質上、電脳によって接続された人々を計数的に情報操作しコントロールする合田という権力と、それに対し久世の電脳化した人々を通じていかにレジスタンスをするかという攻防が描かれていて、九課はその中間で振り回されている。でも、中間だから見える具体的な生臭い組織の事情や、国家側なのに久世に同情したりという、引き裂かれた二重性の立場におかれるというのは、構図として見事だと思いました。

小森「前に徳間書店で催された笠井潔と押井守の対談を見学に行ったことがあるんですが、そのとき『攻殻機動隊』や『東のエデン』を制作しているPRODUCTION I. G.の制作の方とお話したことがあって、その人が
「うちは、『攻殻機動隊』にしても萌えキャラがいないのが弱いかなぁ」と言っていたので、私は「いや。『攻殻』のタチコマは萌えキャラですよ」と言ったことがあります。
にしても、二期では合田の戦略がスマートすぎて、公案9課を完全に凌駕してしまって、最終的にタチコマが特攻することで敵の成功を阻むという結末になってしまったのは、ある意味ラストで特攻して最終回を迎えた『鉄腕アトム』の再来を見ているかのようでした」

藤田「萌えキャラに関しては、僕は草薙には結構萌えられると思いますよ。草薙にしろ誰にしろ、このアニメの女性キャラクターの見た目は義体化された作り物の場合が多いので、どちらかというと素直に萌えるというよりかは肉体改造をするという意味の方の考察に向かうようにできていますね。ただ、一期より二期の草薙の方がかわいいというのは言っておきたい(笑)」
 
小森「『デスノート』は、基本的なアイディアだけなら、つのだじろうだったかな、名前を書くと死ぬ「死に神ノート」とかあったと思います。これは夜神月とLの知的闘争として、かなり面白い作品だったと思いますが、デスノートのルールがどんどん後付けで追加されて、なおかつルール同士が衝突したときにどういうことが起こるのかという考察が不充分で、少々物足りなかったものがある。映画版『デスノート』のおちは、そういうルール重なりの盲点をついたアイディアを使っていて、そこは秀逸でした」

藤田「ノートを拾った少年の夜神月が、『キラ』として自分自身の正義で人を裁いていき、それを食い止めようとするLと攻防を繰り広げる作品ですね。この知的攻防の緻密さや意外性は大変面白かったです。僕はこの作品、最初からL支持派なのですが、読者の中には月の支持者も多いようで、結構驚いています。『ドラえもん』の「独裁スイッチ」という作品で、好きなように人を殺せる力を持つと、必ずエスカレートして最後には誰もいなくなるという話があるのですが、このデスノートには独裁スイッチ的な部分がありますね。ただ、この当時も今も人気を博している『ワンピース』の主人公ルフィがほとんど何も考えないで決断して勝つのと比べ、月は知的な才覚でのし上がろうとする。この両者がともに共感を生んでいる状況というのは、少年たちがこれから社会においてどう生きるかのモデルとしてのリアリティが二分化しているようで、興味深く思います」

小森「『コードギアス』は、『ガンダムSEED』制作でフラストレーションをもったスタッフが、あの作品の陰画としてつくった面が大きいですね。笠井潔のコードギアス論でも指摘されていることで、たぶん私が指摘したことによるのだろうと思いますが、ラクスがユフィに、キラがスザクに移植されて、陰惨な目にあう展開になる。ルルーシュとスザクという二人のヒーローは、王座を追い落とされた王子という貴種流離譚の基本的な設定を持ち込み、『デスノート』のアイディアもとりいれて、現代にうける物語づくりとしては、なかなか秀逸な発想があったと思います」

藤田「僕は『コードギアス』は大変素晴らしい作品だったと思っています。非常に演劇的な作品ですね。悲劇の定義として、美しい人間が善意で行動してその結果悲惨なことが起こるというのがあるのですが、まさにその連鎖のような作品ですね。弱者である妹のナナリーを救うために、弱者に優しい世界を作りたいという願いが、やがて世界を巻き込んだ戦争となり、どんどん死者を出し、初発の動機と次々に矛盾していき、周囲を不幸にして、自らも追い詰めてしまう。でも、それを引き受けるのが「王」なのだという覚悟を描いている部分はこの作品の素晴らしいところです。死も暴力も容赦がなく、苦しみに甘さや安易な救いがない。戦いのシビアさが現れています。
 こういう救いのない陰惨な政治と暴力と戦いの連鎖の果てに超越的なものに救いを求めるような示唆を一期ではしていたのに、二期のかなり早いうちにその欲望を断念させたのにも驚きました。伊藤計劃の『ハーモニー』のように集合的意識の世界を構築して対立と戦いを終わらせる計画を破壊してしまう。ここにはひょっとすると『攻殻機動隊』に現れていた「個別主義者」と「合成的な主体」の対立のようなものがあったのかもしれませんね」

小森「ただ、私が、この話の物語で気に入らなかったのは、ギアスが万能すぎる力じゃないですか。あの能力があれば、さっさとブリタニア帝国を手中におさめることができるはずなのに、なにやら回り道をしますよね。まあ後半になって、他にもギアス使いが出てくるので、そうなると世界征服もことは簡単に運ばなくなるのはわかりますが」

藤田「後半でギアスを使って一気に権力を獲得していきますが、最初からそれをやっていればよかったのにとは思いますね(笑) 指令の言葉を工夫すればもっと色々できるんじゃないかとか(笑)。ただ、無力な一市民の少年がどんどん上昇していくビルドゥングス・ロマン的な作劇を優先するために、一歩一歩権力を増やしていく過程を描いたことは、作品としては成功していると思います。ゼロ年代に流行した「セカイ系」的な想像力のように「世界」と「自分」を短絡させるのではなく、そのステップや過程、組織の力学などを描いた点がこの作品に一歩ぬきんでた魅力を与えていると思います」

小森「にしても、『コードギアス』二期ラスト近くの、次々と視聴者を驚かせる展開の連打はなかなか凄かった。まさかルルーシュの妹のナナリーがラスボスみたいに、最後にルルーシュの前に立ちはだかることになろうとは、あの展開にはびっくりしました」

藤田「二期の最後の6話ぐらいは本当に怒涛でしたね。何度も驚かされました。ルルーシュの父であるシャルルの真の目的が明らかになって以降の展開はとても予想はできませんでした。人間が戦ったりする初発の動機である、愛とか、守りたいとか、友情とか、そういう支えになるものが次々と自分の敵と化していくのは、本当に悲惨で、なんのために戦っているのか全く分からなくなりますね。でも始めた以上、やめるわけにはいかない。そういう苦悩が描かれていたのが大変よかった。
ナナリーはルルーシュに「人殺し」と叫ぶのですが、本人が知らないにしろ、あの時点でのナナリーはルルーシュより遥かに多く殺害をしている。基本的には「何か善行/悪行をしている」が「それを周りは知っていない」という構造が作品を悲劇として駆動させているのですが、それが「仮面」というメタファーで提示されているのは、「キャラ化」して生きていると言われる若い世代に対して何かリアリティを持っているのかもしれませんね」

小森「『東のエデン』は、『攻殻機動隊』で不完全燃焼だった神山健治が、現代のニートとか貧困若者層に着目して、世の中をひっくりかえそうとするお話ですね。これも着眼点はなかなかいいと思う。『希望は戦争』と言ってのけた赤木智弘の主張とも対応性があるし」

藤田「渡邉大輔さんと共同執筆した『ユリイカ』の「クエンティン・タランティーノの/による映画史」にも書いたのですが、ミサイルを落として既得権益を倒そうとするのは赤木智弘が意識されていますね。ヒロインの咲が、就職がうまくいかなくて鬱的になってくるところも、そのような格差的リアリティを持ち込んだものとして評価できます。ただ、作品全体としては政治思想的には『攻殻機動隊』より先に進んだとは思えない。ニートを集めて、それを携帯電話とネットで接続して「集合知」のようにしてミサイル回避をするのですが、その書き込みが具体的にどう役に立ったかが全然分からない。自衛隊が頑張ったようにしか見えなかったりする。「並列化すればニートも役に立つ」と言うのですが、それに関しては本当にそうなのかどうかは難しいと思います。ただ、ニートをレジスタンス運動と捉え、新しい形での、ニートや2ちゃんねる的なものを「革命」と捉えようとする野心はあったと思います。主権の樹立の部分に関しては、完結篇を見ていないのでどうともいえないのですが、TVバージョンの終わりだと、中身のない希望のようなものとしか見えませんでした。とはいえ、情報環境と格差社会的なものを繋ぎ、政治的な動きを描こうとすること自体は大変重要な試みであったとは思いますし、もっと色々な方々が考察し、具体的な提案や作品化を行うべきではないかと思います。
 その世直しものでもそうなのですが、描く必要があるのは「プロセス」の部分なのではないでしょうか。敵を何と設定するのかと、どう具体的に改善するかという部分の説得力が、社会システム改変的な作品においては一番の肝でしょうね。そこがうまく描かれている作品こそ「希望」として若い人々に熱狂的に受け入れられるのではないかと思います」