反日偽造教育が一向に改まらない韓国を見て、梅之助は十数年前から、かつて「日本がいつか来た道」をたどっているなぁ、という気がしてならなくなりました。
日本がいつか来た道・・・・

日本は歴史を振り返ると、ほとんどの期間で「権威」と「権力」が分離していたという事実をまず押さえておかねばなりません。権威は歴代天皇、権力は藤原氏や歴代武家政権という事になりますね。それに加え、特に江戸時代の日本は幕藩体制という完全な地方分権国家でした。
19世紀後半、東アジアまでやって来た欧米列強に対抗するため、日本は明治維新という国家変革を成し遂げます。近世が終わり近代の幕開けです。
明治新政府は早急な近代国家成立の為に、封建的な社会制度を次々に改め、中央集権的国民国家の形成に努めます。その最も大きなものの一つが廃藩置県でした。歴史上の区切りでは大政奉還をもって江戸時代が終わるので、こちらの方が有名ですが、大政奉還とはいわば徳川家及び家臣の問題。しかし廃藩置県は全国すべての殿様及び家臣、領民にかかわる問題ですから、インパクトの大きさは大政奉還の比ではなかったはずです。さらにそこに四民平等という身分制度撤廃という要素が加わってきます。
そこで明治の為政者は廃藩置県と四民平等により、封建体制(藩と身分)から分離された国民を再統合する象徴として、「天皇」の存在をフル活用します。

「天皇」は常に時の権力者に正統性を与える存在で、源頼朝、足利尊氏、徳川家康はみな天皇より征夷大将軍に任ぜられ幕府を開いています。幕末での幕府側、薩長側が天皇の勅許を巡って暗闘した事は、時代小説にもよく描かれる出来事ですね。
日本の歴史にとんでもない独裁権力者が現れなかったのも、歴代中国王朝のように歴史が断絶する事がなかったのも、「天皇」という存在があったからと言えます。
つまり、日本の歴史は誰が天皇を戴くか、そのものだった訳です。

 

     楊洲周延:画  憲法発布略図 1889(明治22)年

よく戦後左翼の論者が先の大戦の原因として「天皇制」を挙げて攻撃してきた歴史がありますよね。もっと突っ込んで書くと「統帥権の独立」に乗っかって軍部が暴走した訳ですが、その背景と経緯について、かつて清水幾太郎(戦後左翼を代表する知識人でしたが、80年代に転向して昔の仲間からは罵詈雑言を浴びせられています)という学者が「天皇論」(「戦後を疑う」収録)という文章の中で優れた分析を行っているので、それを参考にしながら以下に梅之助の思うところも加えて述べてみたいと思います。

上の方で書いたように、政治的には無力でも天皇の有用性を心底知っていた明治政府は、政権内の党利党略に天皇が利用される事を恐れ、国家運営において天皇を政冶の外に配置します。また同様に政敵が軍事力を利用する危険を避けるため、軍隊も政治から切り離し天皇直属としました。西南戦争の苦い経験があったからです。
こうして国務(政府)と統帥(天皇&軍隊)が分離した形で成立したのが大日本帝国憲法でした。この憲法の元、国民統合の手段として行なわれたのが皇国史観教育となるのです。徴兵の責務はあるものの、天皇の下で国民はみな平等、という思想は案外悪いものではなかったかもしれません。

明治の為政者たちが意図したのは「国務に従属する統帥」で、これは当初うまく機能しました。元々明治の元勲には天皇に対する神格性など微塵も感じていませんでした。梅之助の知る面白いエピソードとして、あの山形有朋は天皇臨席の御前会議で明治天皇が居眠りをすると、そっと刀の柄でつついて起こしたという話さえあります。
天皇の存在は極端な言い方をすれば、国家を安定的に存続させる「方便」に過ぎなかったのです。この考えをきちんと学問的に発展させたのが「天皇機関説」と言えるかもしれません。昭和天皇はこの説を基本的に支持していました。
以上が大日本帝国の元来の「リアル」な形だったのです。

ところが時代を経るにつれて、皇国史観教育を受けた世代が軍の中枢に立つようになります。同時に、幕末維新の動乱をくぐり抜けて明治国家を設計した元老達がどんどん鬼籍の人になっていくと、「国務に従属する統帥」という形が崩れて来る事態が出現しました。
「統帥権の独立」は軍人が政治に介入する事を禁止していますが、それは戦争が軍人だけの戦争という古典的な形態の時代に定められたもので、近代の戦争のように国民生活を巻き込む総力戦の時代となると、国務と統帥の境界線は不明瞭になります。自然、軍人が職務を完遂しようとすればするほど政治に関心を持たざるを得ません。すると天皇の神性を皇国史観で教育されている昭和の軍人は、「統帥権の独立」を楯に政府に対する従属よりも、憲法の頂点に立つ天皇との直接的な結びつきを主張し始めるようになりました。「天皇機関説」の排撃や、青年将校による天皇親政をもくろんだ2・26事件も、そういう背景で起きた出来事なのです。軍人達は武器を持っているので、軍を批判する政治家に「統帥権干犯」と叫んでテロを加えて政治に介入し、遂には「統帥に従属する国務」という形を実現させてしまうのです。
この事態こそ明治の政治家が恐れた「フィクション」でした。
こうして昭和の大日本帝国は軍部の暴走により暗い時代となり、国家の総力をかけて戦った戦争に敗れ破滅してしまったのです。

 

                                 1936(昭和11)年 2・26事件

では昭和天皇はその時どうしたか。
天皇は「リアル」の位置を踏み越える事はありませんでした。
昭和天皇は、昭和3年の張作霖爆殺事件の対応で二転三転する当時の田中首相を叱責し、その結果田中首相が内閣総辞職してしまった事を深く後悔し、それ以降たとえ政府の決定に不満があっても、自らの言動が直接政治に影響しないよう気をつけるようになりました。
大日本帝国憲法は一見、天皇に権力が集中しているように見えますが、実態は「天皇は神聖にして侵すべからず」という有名な条文によって、それが無効化されています。
この条文は文字通り天皇を冒涜してはならないという意味と、天皇の政治・軍事的無答責を規定しているとされています。天皇の政治・軍事的無答責とは、天皇は政治・軍事の責任を負わない代わりに、その権限を持たないという、事実上現在の憲法とさほど変わらない立場におかれていることを意味します。
よく「昭和天皇は戦争に反対だったのに、どうして対米戦を止められなかったのか」という疑問を持つ人がいますが、こういう憲法の規定の下に天皇は置かれており、そしてその立場を天皇自身が十分守っていたからなのです。
これは一つのエピソードですが、「天皇機関説」の第一人者・美濃部達吉博士が不敬罪で公職を追われた時、「どうして美濃部のような学者が辞めなければならないのか」と嘆かれたそうです。昭和天皇が「リアル」なるものをよく理解していた事が分かりますが、同時に「フィクション」に国家が押しつぶされていく様を見てとる事が出来ますね。
余談ですが、憲法学的には昭和天皇が大日本帝国憲法下での慣例をハッキリ越えたとされるのが2回あると言われています。それが「2・26事件の反乱軍鎮圧指示」と「ポツダム宣言受諾」なのだそうです。この2度の天皇による「統帥権発動」は、両方とも政府が完全に機能不全に陥った非常事態ゆえでした。

このように天皇が「リアル」を理解していたにもかかわらず、軍部が「フィクション」に取りつかれて暴走したのが昭和の悲劇だったのです。

よく左翼ジャーナリストが天皇の戦争責任問題を取り上げる事がありますが、素人の梅之助の目から見ても稚拙な論で聞くに堪えない事が多いです。自分の政治信条的思い込みから論を立てるのもいいですが、せめて先人の優れた分析などにも触れて勉強してから発言してほしいものです。


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