金曜は朝から夜までかなり多くの方々と会話をした(といっても100人強程度)のでテンションが高いまま下げられず、深夜にPC開けたりTVをつけてみたり、でもエントリーをアップしたとたんに記憶をなくして熟睡しました。

朝生で、いかに激烈でヒステリックな口撃を受けても、余裕の笑みをたたえ「あなたね、そればっかりもう何年も言ってますよ~」と暖かく指摘している辻元清美さんなどの強靭さを、ついわが身の中途半端さを比べてしまいます。


今朝はさすがに充電しきれず昼前に起床、息子のPTAに出かけたら、来年度は大役拝命の内示が・・・


「もちろん仕事はお忙しいと思うのだけど…」と仰っていただいたけど、ただ、「深夜についつい睡眠を削って(笑)政治・経済ジャンルのブログも書いてますからそれも副業というか世直しのようなものでして」、などとは申し上げられません(^^;

さてどうなることか。「個人の自由な裁量の範囲」が高い仕事に転職…などというわけにもいかない。

しかも、おそらく、参院選まではどうしたって、おとなしくしているわけにはいきません。

(週末なので、久しぶりに「出来事録モード」で始めてみました)


今日(1/27付)の東京新聞のコラム『筆洗 』で、『右であれ左であれ、わが祖国日本 』(船曳建夫著)が紹介されていました

 安倍首相、初めての施政方針演説である。支持率の低下と目前の統一地方選、参院選を意識してか、野党との争点は鮮明にせず、所信表明と同じ「美しい国、日本」を連発、一般受けする教育問題を前面に打ち出す▼だが、戦後レジームの見直しと憲法改正を視野に、新たな国家像を描くのが自分の使命であると言い切った。「国家を論じることの必要性と危うさ」を、これほど大胆に国民に突きつけてきた政権はない▼とすれば「“まともな人”にとって、国家について語るとは、国家について声高に語る人を批判的に語ることにおいてのみ行われ」てきた立場から、そろそろ脱却すべき時だと、文化人類学者の船曳建夫さんは問題提起する▼近著『右であれ左であれ、わが祖国日本』(PHP新書)は、過去五百年の歴史をふまえて、「国際日本」「大日本」「小日本」の三つのモデルで「中国、ロシア、西洋」の三つの主勢力と対峙(たいじ)してきたこの国を地政学の手法で分析、「中庸国家」としての、あるべき姿を模索する▼タイトルは英国の作家ジョージ・オーウェルがヒトラーの英国侵攻を目前にした一九四〇年に発表したエッセー「右であれ左であれ、わが祖国」から取った。鶴見俊輔さんは「オーウェルの祖国愛(パトリオティズム)は、時の政府に対する服従ではない。日本語では郷土愛に近い」と解説する▼文化人類学では、人間集団は常に敵でもあり味方でもある。矛盾を生きたオーウェルは、相手をすっきりやっつけられる立場はとらない、とれないということだったという。

amazonのカート保留分に入れていたのですが、外出のついでに購入して電車で少し読みました。

中庸の道を探るために、さまざまな論証や考察がなされていて、いつのどの時代に「規範」めいたものを求めるような愚は当然おかしていらっしゃらない。


 国家を論じることは、ときに、国家の持つ拘束性を強化することである。それは国家に絶対的な価値を与えることになる、といった懸念から、国家を論じること自体を避ける傾向すら感じられます。国家はなければいいのだが、あるわけで、ならばなるべく触れないでおこう、といった雰囲気すらあった、と感じるのは私だけでしょうか?

 おそらく戦後の六十年間に、日本について正面から考えようとしたことのある人ならば、誰しも、国家を語ることにある種の危うさや、口調が威圧的になりがちなことに気付き、自分自身の思考と試行の歩みを止めてしまったことがあると思います。そこで、「まともな人」にとって、国家について語るとは、国家について声高に語る人を批判的に語ることにのみおいて行われた、との皮肉な結果を招いたかのようです。私もその「まともな人」の一人であったと思いますが、ここではっきりと宗旨替えをして、自分自身の日本国家論を語りたいと思います。


というのが著者のスタンスです。


積極的でなくやむを得ず「小日本」となった国を、規範や品格などで「大日本」にしようとあがいても埒が明かないし、アメリカとの関係だけをもって「国際日本」とは誰からもみなされない(当たり前ですよね)。

アメリカとの関係では集団的自衛権に出し惜しみをして憲法9条には延命を、など多面的なあり方を提言しています。


全体を通して懐古主義ではないし、著者の考える現実的な検討がなされていて、わたし達も(考え方に全面的に同調するのではなく、この方法論を参考にして)、自分自身の頭で考えることが重要だとほんとうに思います。


「怖いから考えないようにしようと思うことの怖さ」にも気をつけたいなと思います。

考えなければ、先の読めない戦える国への流れに抵抗しきれないから。

当然、直感も大事にしながら、十分に考えて考え抜きたい

ただそれは、必ずしも「対案を持って議論する」ということを意味するわけではないのは言うまでもありません。


と気合を入れたところで、日本に生まれたことを選べないのでどんな日本にしたいかを考えるにあたり気分的に脱力する割り込みもあります。

以下のような暴言(WEをごり押ししようとした柳沢厚労相からの)には断固として糾弾し、しかしいつまでも反応していてはエネルギーが持たない?広い意味での我慢強さが必要かもしれません。


共同通信配信 2007/1/27 女性は「産む機械、装置」 松江市で柳沢厚労相

 柳沢伯夫厚生労働相 は27日、松江市で開かれた自民県議の決起集会で、「産む機械、装置の数は決まっているから、あとは一人頭で頑張ってもらうしかない」と女性を機械に例えて少子化問題を解説した。

 柳沢氏は「これからの年金・福祉・医療の展望について」と題し約30分間講演。出生率の低下に言及し「機械って言っちゃ申し訳ないけど」「機械って言ってごめんなさいね」との言葉を挟みながら、「15-50歳の女性の数は決まっている。産む機械、装置の数は決まっているから、あとは一人頭で頑張ってもらうしかない」と述べた。

 厚労省は昨年12月、人口推計を下方修正。この時、柳沢氏は「子どもを持ちたいという若い人たちは多い。その希望に応えられるよう、できる限りの努力をしていきたい」と話していた。 (共同) (2007年01月27日 20時54分)


言葉尻を捉えるわけでなく、この人の女性観が十分にうかがい知れます。

彼には、労働者も同じように機械や装置としてしか見えなかったのでしょうね。

暴言をゼロにすることはいじめをゼロにするのと同じように不可能だけれど、なんといっても、少しでもマシな政権を求める現在への権利と将来への義務がわたし達にはありますね。


数百回目の教訓: 暴言に疲れるな。


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070124東京新聞 「国家を語ることにある種の危うさや、口調が威圧的になりがちなこと」・・・


統治機構としての国への「愛」に置き換えられないように十分注意したいから、なぜそのような心の傾向をわたし達は持つのだろう?その検証もしたい。

なぜ戦争に向かったのかを理解することと同じ、またはそれ以上に重要なことにも思えます。


欧州の知人などを見ていると、空気のように国を語りはじめ、あるとき威圧的になってもそれを引きずったりはしないので、短期的に威圧的になるのを避けることに、ひょっとすると意味がないのかもしれない。

議論をたたかいだと見なさないことから是正するのは難しいけれど必要で、その処方箋は、浅薄な日本人論にそれを求めるのは無理でしょうね(陥りがちな陥穽を知っておくくらいにして)。

だからやっぱり自分で考えるわけですね。


右記の高橋哲哉先生の記事(2007/1/24東京新聞、クリックで拡大)は、これまでお話くださったエッセンスを平易な記事にしています。

ここから読み取れるように、時代錯誤を見抜く曇らない目が長期的な視点で必要なことも、まず自明です。



【前略】

 そもそも、安倍晋三首相が「現憲法や教育基本法は占領時代の残滓だ」と強調するのは時代錯誤です。この主張は、1950年代に、新制東京大学の初代総長南原繁にも「著しく真実を誤ったか、あるいはしいて偽った論議」として退けられているのです。にもかかわらず、根拠薄弱な議論で改憲へと導くやり方は、歴史の風化に乗じた無責任な政治だと言わざるをえない。

【後略】


そして、根拠というものは、水面に浮かんだ氷山のカタチからは分からないということを心しておきたいし、自分の周囲、それも若い人に限らず、伝えなくてはならないですね。


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