前回の続きです。ここでの信頼は対悪人や慈善の対象などを信頼しすぎた場合の話しがメインです。





前も書きましたが同じようなことを言ってる人を聞いたことがなく、理解者皆無だと思うので自己満足ブログとして書きます。





俺は今の世の中の仕組みを真逆にしたほうが、平和が訪れるのではないかと考えています。






信頼を与えるのが重要だと言われてますが、この考えには大きな危険があると感じるのです。







信頼を与えることで人が変わる。



期待に答えようとしてその人が頑張ってくれる。



偏見を持たず普通の人と同じように扱うことでその人の心がひらかれる。



大まかに言うとこんな理論でしょうか。






俺が人生で出会った最高の本と言っても過言ではない「人を動かす」にも似たようなことが書いてあります。




重要感を持たせることで人が変わる。




盗人にも五分の理を認める。


人を動かす 新装版/創元社








では、なぜこの考えが危険だと思うのか。





前回も書きましたが、信頼を重視しすぎれば危機意識、防衛意識を無くすことになる。








社会人になると危険予知の概念を教わると思いますが、その考えでいけば信じすぎることは過信、慢心となり、その先には事故が待っています。








そして、~だろうという思い込み行動も、事故に繋がるとされています。





これを運んでも大丈夫だろう。ちょっと違うけどいつもと同じで大丈夫だろう。









~だろうと思いこんだり、過信や慢心の先に事故があるのは誰でもわかりそうなものですが、今の世の中で行われているのがまさにこれなのです。







優しくすればわかってくれるだろう。




彼らを信じれば大丈夫だろう。





善意には善意がかえってくるだろう。





例え非人道的なことをしている人でも、これを当てはめれば改善されると思われています。






いや、むしろこういった人にこそ当てはめるべき考えだと思われています。






事故なんてレベルではなく、犯罪を意図的に起こしている人達を「無条件に信頼」した先に平和があると考えられていますが、その結果平和が訪れているでしょうか。






慈善者は彼らを信頼しているから「大丈夫」と考えるようになっています。





その結果防衛意識が無くなるだけでなく、彼らが改善していない場合、他人も危険な目に合わせる危険性があるのです。






どんな生物にも防衛本能があります。




無警戒に姿をあらわさない。




敵がいるかもしれないと思い用心する。





遭遇したら即戦う体勢になるか逃げる。









食欲や性欲と同じようにあるのが防衛本能です。





その防衛本能の真逆に位置する思考になってしまうのが、信頼を重視しすぎることです。




平和に見える言葉のほとんどに当てはまると思うのですが、その言葉を過信しすぎれば、そこには真逆の結果が生まれます。







平和を過信しすぎれば防衛意識が薄れ危機を呼ぶことになる。






愛を与えすぎれば甘やかしになり、与えられた相手は自分で考えられない人になったり、打たれ弱い人になったりする。






自己成長できず、他人から尻を叩かれないと動けない人間になったりする。












そして多くの人が信頼を与えるのが重要だと言ってるのですが、俺は信頼を得るような人間になっていくのが重要だと思っています。







信頼を与える。信頼を得る。




似てるが全く違うものです。












信頼とは本来、簡単に与えれるものではありません。





こちらが警戒心を持っていたとしても、その警戒心を溶かし、信じたくなる人柄を持ってる人が、信頼出来る人のはずです。





企業でも人でも、信頼を得ることの重要さを知っています。




そして、それを簡単に得られないのも知っています。









だらけた生活をしている人には得ることが難しいものであり、成長を心がけていった結果、やっとの思いでもらえるのが信頼ではないでしょうか。







例えば企業にとっては、信頼は場合によってはお金より得ることが難しいものであり、そして何よりも欲しいものではないでしょうか。











このように得るのが難しい信頼を、悪人や慈善の対象は簡単に得ることができるのが、今の慈善の仕組みです。





俺は信頼を与えすぎではないかと思えて仕方ないのです。





前回書いた移民の悲劇ですが多くは欧州付近での出来事を載せました。





実は欧州の仕組みは、日本にも負けないお花畑の側面を持っています。




人が悪になったのは環境のせいだという考え。




信頼が大事だという考え。




まさに俺が否定している考えがそこにあります。








俺はこの考えこそが福祉の仕組みを壊し、過剰に悪を擁護する仕組みを作り、国を壊した元凶だと考えています。





彼らから見たら救うべき対象だった可哀想な人を受け入れました。




信頼には信頼が返ってくる。こちらが思いやりを持って接すれば、彼らはこたえてくれると思って受け入れたはずです。




しかし、その結果はどうでしょう。




彼らの考えと真逆のことが起きており、彼らは国を乗っ取る勢いで増え続けるだけでなく、治安を悪化させ暴れまわっています。



参考 移民過去記事

http://ameblo.jp/ganbaredameomajide/entry-11755885450.html







しかし、俺からするとこの結果はそこまで驚くことでもないのです。彼らから見た被害者に見える人たちは、俺から見れば立派な加害者なのです。





環境は人を作る大事な要素ですが、環境は神や誰かが勝手に作ってるのではありません。





可哀想に見えるほど過酷に見える国の状況を作ってる一員には、間違いなくその人達も含まれているのです。






その証拠に国や環境が変わっても、現地でやっていたように他国で暴れまわっている。いや、下手すると現地にいた時よりも暴れるようにさえなっている。






このようなモラルが崩壊した人達が集まった結果起きてるのが、お花畑から見た可哀想な国の状況です。








彼らが真に平和を願っている人達だらけなら、自国の混乱をとめる力になり、他国で暴れるよりは感謝を優先するはずなのです。







しかし、環境のせいにすればそれが見えなくなるどころか、加害者と被害者が逆転してしまうこともある。





環境のせいにしたため人柄を見抜くことができず、信頼を重視しすぎた結果、もしもの備えをすることがなかった。






簡単に信頼せず、悪なる行為を厳しく取り締まる法律をつくるべきだった。




もっと疑い、簡単に受け入れず、厳しい入国の仕組みを作るべきだった。





何かあったら容赦なく帰国させる非道さも持っていたら、この状況は変わっていたのではないでしょうか。






この仕組みを非人道的と思う人もいるかもしれません。しかし、現地の人が苦しみ、他国の人が暴れ、働かずにお金を得ている今の現状こそ非人道的な仕組みそのものです。







国の仕組みを厳しくしたとしても、それを突破してくる人柄をもってるのが、本当に信頼に値する人のはずです。






信頼に値する人を受け入れることと、信頼を与え受け入れることは全く違うのです。






彼らに必要なのは他人から与えられた信頼ではなく「向上心」であり、それを呼び起こす仕組みにしないといけない。







これまでと違い、簡単に信頼を与えないことこそ、普通の人と同じ扱いをしていることになり、信頼を得ようとする原動力になる。





頑張ってる人に支援がいき、怠け者には支援がいかない仕組みをつくることは、怠け者の向上心を刺激することにもなる。





しかし、それを実行するには、簡単に信頼せず、頑張らない人を見捨てるような非人道性がないといけない。






でも、俺はそれが本来の慈善の姿であり、今よりも平和をもたらす仕組みだと思えて仕方ないのです。




最後に。



Dカーネギーの理論や、信頼を与えて人を変える理論は、ここまで書いてアレなのですが、そこまで間違っていると思っていません。



多くの人に当てはまる本当に素晴らしい理論だと思います。



しかし、全てに当てはまるわけではなく、例外があることを言いたいのです。




なぜなら、悪人が他人の信頼を得た時こそ、悪の行為を決行する時の場合が多々あるからです。





そして、冒頭から言ってるように、信頼を与え、それを過信しすぎることは逆に破滅を呼び込む恐れがあることを言いたいのです。





今までとは違い、怠けたくなる時に頑張り


怒りに満ちた時に罵声ではなく自分を戒めることを覚え


周りに優しくするように心がけ


自分自身を成長させるように心がけた結果




自然と信頼はその手の中にあり、誰かが援助するまでもなく、環境も今までとは違うものになってると俺は思うのです。




無条件に信頼を与えすぎる今の仕組みに大きな疑問を持つ理由。



誰か納得してくれる人はいるのでしょうか。皆無だとしても俺はこれを叫び続けるのです。