【怪しいおやぢ】です。

 いわゆる、江戸の事件をぼちぼち……と。

 今回は、『博打の始末』 ……『半日閑話』 より


 文化十二年(1815年)七月十五日夜。

 六番町(住所は不明である。後追記)の小普請御番衆三枝猪之助、父は目付から駿府町奉行を勤めた人であるが、その屋敷内の長屋を町人の舂屋に貸して住まわせていた。


 この頃。町人風のものが屋敷内に入り込み賭博を開いているというので再三注意をしたが一向に聞き入れない。

 十五日の夜になって。三十人ほどが集まって賭博を始めた。

 やがて大喧嘩となったので、止めに入ったところ、悪口雑言に及び、さすがにうち捨てておくこともえきなくなった。


 当主猪之助はやむを得ず、隣家の窪田助左衛門の倅助太郎に助太刀を頼んだ。

 助太郎は、助太刀することはできない旨を答え、しかしながら、危なくなったら隣家のよしみで助けに行くと答え、裏口で待機していたという。


 だいたい窪田家と三枝家には、屋敷裏に出入りする入り口があった。

 ことに三枝は窪田と剣術の弟子であるため、毎日のように裏から出入りしていた。

 そこで、例の寄り合いの町人達も窪田の門から入り、裏通りを通って三枝の内長屋の町人宅に集まっていた。

 これは、両家とも不取締だと言える。


 さて、三枝は窪田に頼んで置いて、それからは自分が先に立って手下を二、三名ほど連れて例の長屋に入った。

 いきなりの乱入でで町人共は驚き、我先に逃げ出し、込み合って大騒動になった。


 そのさい三枝も突き飛ばされたので、思わず脇差しを抜き横殴りに振り回したところ、逃げ出した町人のうち隣りにいたひとりが即死、三四名が手傷を負ったそうである。

 手負いの者は逃げることもできずその場に倒れたままだった。

 翌日早々届け出たので、町奉行所から見分に来て、そのまま奉行所に引き取ったという。


 また、別の説では、窪田助太郎の弟が件の寄り合いの町人を木刀で打とうとして、間違って三枝に切られたという話が持ちきりだった。

 一件の落着については、後に記すが、小普請組近藤左京支配と聞いている。


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 武家屋敷の中の土地建物を町人に貸すことは許されていません。

 同様に、屋敷の中をどうどうと町人が徘徊することも駄目です。

 さらに、博打は犯罪です。武家屋敷だと、発覚すれば遠島です。