【怪しいおやぢ】です。

 奇譚と云うには当たり前すぎて、風聞にするにはもったい無い、ということで。

 『鍛冶金召し取りのこと』


 音羽町の鍛冶屋金という者が、―――この者は、鼠坂の隠し売女の亭主である、母親を箪笥の蓋で殴ったところ、次の日になって死亡した。

 ―――この母親は鍛冶屋婆という通り名のある、それなりの悪人であった。

 博打場などに入り込み、金銭をゆすり取るのが常だったという。


 鍛冶金は、母親を、まさか打ち殺したとは言えず、病死したように取り繕って、目白坂大園寺に葬った。

 しかし、直ぐに発覚し、寺からの帰りがけに、寺の門前で召し取られ、七月二十日入牢となった。

 『寛政記聞』 より


 博打は御法度だったので、どこそこで開いている、誰それが通っていると訴えられると都合が悪かった。

 鍛冶屋婆は、それをネタに強請っていたものでしょう。

 

 この件は、かなりのスピード逮捕、というやつです。

 当時も、変死の場合には届け出て、検死をしなくてはなりませんでした。

 それだと、犯行がばれてしまいます。


 一晩は寝込んでいたことから、病死に取り繕ったのでしょうが、常日頃から町方に眼を付けられていたのでしょう。

 ごまかし切れるものではありませんでした。

 

 さらに推測すると、意識的に葬式が終わるのを待ってからの召し取りだった、と思えます。

 温情と考えるか、周辺の騒動を避けた効率的な手順と考えるか、微妙なところです。

 

 『寛政記聞』は、表題通り寛政年間(1789-1801年)の出来事を記述した書物です。

 寛政何年の事件かはっきりしませんが、この当時の江戸北町奉行は、小田切土佐守で、寛政四年から文化八年まで勤めています。

 一方、南町奉行は四人ほど替わっていて、寛政十年からは根岸肥前守が勤めています。