江戸の菓子事情を、『本朝世事談綺』から。
『飛団子』
正徳元年(1711年)の夏。
甲州八日市場の不動尊が回向院に出開帳になった折り、
両国橋の東詰、松屋三右衛門という饅頭作りが初めて飛び団子を作った。
最初は景勝団子と言ったが、偉い人の名前は遠慮すべきだと、
地元の長たちが注意したので、のちに越後団子と名を変えた。
男が臼でつくが潰れないのを、北越長尾家の鉾先に例えて付けたという。
ただし、越後の名物ではない。
最近になって、京、大坂で流行りだし、浄瑠璃にも名を織り込んでもてはやすようになった。
まことに岷江の源は杯すら浮かべづらいが、楚に入る頃には舟でやっと渡れるほどになるようなものだ。
ちょっとした軒先で売り始めたものが、こうして広がるのも、太平繁華の印なのだろう。
【注】岷江は、長江の源流とされていた。
1700年代初期の浄瑠璃は不明ですが、
太田南畝の『売飴土平伝』(1769年)で、団子尽くしを披露した中に、景勝団子、飛団子の名が上がっているようです。
創業から年数が経てば枝が分かれるのは自然の流れ。
ここで菊岡沾凉が最近というのが享保の末(1720-30年頃)だとすると、爆
発的に流行ったということになりそうです。
マルチメディア戦略は、この時代には、既に確立していたということでしょうか。
南畝の著述を丁寧に読んでいくと見つかるかも知れませんが、それはいずれ……。
それにしても、江戸開府から百年余り経つというのに、長尾景勝の人気は大したものです。
飛団子については、喜田川守貞の守貞漫稿の中に、
臼を叩いて人を集めこれを売る……
とあるのは見つけましたが、別項に詳しくとあって、そちらが見つかりません。
これも、いずれとなるのでしょう。