本所の竹蔵辺りに、曽根孫兵衛という旗本があった。
曽根家は古来よりのしきたりで、毎年正月三日に餅を搗くことになっていた。 
いつごろのことか、曽根家の主が、
「世の中をあげて暮れに餅を搗くと言うのに、我が家だけはそういうこともなく、人並みはずれて正月三日に餅を搗く。
 あれこれ人が思う(と考える)のも面白くない。 
今年は、暮れに餅を搗こう」
と家人がいさめるのも聞かず搗かせたところ、搗いている間は何事もなかった。
箕(み)に入れて座敷に運ぶと、餅が全部血にしみて真っ赤になり、見るのも不思議なくらいであった。
「これはどういうことだ」
 と中間どもにわたすと元のように真っ白になった。
また座敷に運ぶと最前のように真っ赤になった。
それで、その後は昔のように正月三日に餅を搗くことにしたそうである。

 *本所の竹蔵辺り 墨田区横網一丁目辺り

  【耳嚢(みみぶくろ)】根岸鎮衛著・三章企画編訳


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 ◆元禄の頃までは、回向院周辺はほとんどが竹蔵(竹林)だったそうで、
 火事で周辺があらかた焼け、
その後に建てられた屋敷のひとつに吉良上野介が住むことになった。

 ちなみに、本所松坂町は、吉良邸が亡くなった後に付けられた町名。

 「向かうは本所松坂町、吉良屋敷」

 なるフレーズはあり得ないことになるのだが(笑