周りの人の姿は、みな、合わせ鏡であることは、知識としては知っているのだけど、
感情が伴わない。
感情という表現はおかしいな。
実感というとこかな。
ホントに自分で、自分をほめ足らないのかな。
周りの人の仏性を信じ切れないということは、
自分の仏性を信じ切れていない、ということか。
例えば、
整理整頓出来ていない子供らの机周りに
呆れるのは、
私に整理整頓出来ていないとこがあるということなのかしら?
そーゆーのは別?
自分が子供の頃に整理整頓出来ていたかどうか?
どーだったかな。
母親がビシビシ怒るので、
きれいにしてたと思うのだが。
当時は、キレイにすると気持ちいいというより、
母親が怒るのでキレイにさせられていた感じはある。
今は、自宅には
ご本尊があるので、
ご本尊があるからには、
やはり、支部みたいにキレイにしておきたい気持ちがあって、
そんなに見苦しい部屋にはしていない。
合わせ鏡の見方を気づくには、
精舎で、たっぷりとした時間を作って、
研修受けるといいんだろうな。
後は、日々の生活の中で、
ずーっと、考え続けることだよね。
ずーっと、ずーっと、考えていると、
答えをいただけることがある。
ずーっと、私がわからずにいるのは、
見ているものや、考えていることの、
角度が違うだけだと思うんだ☆
感情が伴わない。
感情という表現はおかしいな。
実感というとこかな。
ホントに自分で、自分をほめ足らないのかな。
周りの人の仏性を信じ切れないということは、
自分の仏性を信じ切れていない、ということか。
例えば、
整理整頓出来ていない子供らの机周りに
呆れるのは、
私に整理整頓出来ていないとこがあるということなのかしら?
そーゆーのは別?
自分が子供の頃に整理整頓出来ていたかどうか?
どーだったかな。
母親がビシビシ怒るので、
きれいにしてたと思うのだが。
当時は、キレイにすると気持ちいいというより、
母親が怒るのでキレイにさせられていた感じはある。
今は、自宅には
ご本尊があるので、
ご本尊があるからには、
やはり、支部みたいにキレイにしておきたい気持ちがあって、
そんなに見苦しい部屋にはしていない。
合わせ鏡の見方を気づくには、
精舎で、たっぷりとした時間を作って、
研修受けるといいんだろうな。
後は、日々の生活の中で、
ずーっと、考え続けることだよね。
ずーっと、ずーっと、考えていると、
答えをいただけることがある。
ずーっと、私がわからずにいるのは、
見ているものや、考えていることの、
角度が違うだけだと思うんだ☆