河井継之助”長岡公国”のガトリング砲 | 新労社 おりおりの記

河井継之助”長岡公国”のガトリング砲

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司馬遼太郎の「峠」を読みまして、なんとなく主人公河井継之助が購入し、拠り所とした「ガトリング砲」が欲しくなり、プラ板と、ガンダムグッズのバルカン砲 で、作ってみました。結果として20分の1くらいの縮尺でしょうか。


 

一番時間がかかったのは、車輪とそれを載せる台ですね。プラ板をそれらしく切って、重ね合わせ接着して何とか車輪を作りました。昔の放射状の荷車のような車輪は、意外にプラキットでは少ないのです。

 

たまたまあった色を塗って、展示を目的として簡略化した台にはおもりを入れて、銃身の長いガトリング砲と釣り合うようにしました。車輪と台とは釘で接合しました。


ガンプラのガトリング砲は、接着剤なしでも10分で組み立て可能です。ゼンマイで多銃身が回転するようになっています。銃身をシンプルな作りにし、それの保護板を付け、また、ダミーのハンドル、弾倉と排莢受けをくっつけ、真っ黒に塗ったくらいの改造です。

 

 

ガトリング砲は銃砲の発達著しかった当時、いろいろあったのですが、全体に下左画像、大河ドラマ「花神」に出てくるガトリング砲に近い感じになりました。高橋英樹の継之助です。

 

下中画像は「河井継之助 ~駆け抜けた蒼龍~」の中村勘三郎演じる継之助です。また、下右画像は「五稜郭」の渡哲也の土方歳三です。これだけは艦上ですね。

 

テレビドラマでは見栄えがするので、幕末戦争シーンではよく出すのです。

 


羽織袴、陣笠をかぶった江戸時代の装束の継之助が、銃身の回る近代兵器を扱って、並み居る官軍をやっつける図は、実に新鮮な映像として焼き付いています。しかし私の作ったものはやや頭でっかちですね。弾倉も違います(笑)

 

河井継之助は、薩摩・長州の志士たちを上回るくらいの先見性と実行力をもって、藩政を改革した幕末一流の人材でした。しかし惜しむらくは、薩長などの雄藩でなく、越後長岡7万石の大名の家老でした。

 

そうした立場から、幕末維新の混乱の中、ヨーロッパのスイスのような、高度な武装中立の"長岡公国"を夢みたのも、彼ほどの鬼才なら考え付くことだったでしょう。長岡藩は彼の才能で明治維新を先取りしたのです。

 

封建制の米経済から、近代的な中央集権制の金融経済への変更、社会制度を端緒に藩政の改革に成功した継之助は、軍備にも最新式のシステムとモノを導入しました。国民皆兵の先駆けをなし、機関銃という概念がなかった当時、このガトリング砲が与えた衝撃は相当なものだったでしょう。他にも最新式の銃砲を揃えたのです。

 


しかし、明治新政府は、自分の中央集権制を目指し、小さな長岡藩の「局外中立」など認めませんでした、いや、交渉の余地はあったものの、手違いで、大戦争に発展してしまったのです。結局は敗れましたが、長州の山県有朋を緒戦で打ち破り、奪われた長岡城を奇襲で取り返すなど、官軍を散々苦しめたのです。

 

このガトリング砲も、継之助自ら操ったと言われています。作ってみるとその堂々たる威容に、武装中立を夢みた継之助が魅せられた気持ちがよく分かります。安全保障の決め手とみたのもムリからぬことだったでしょう。

 

火縄銃時代も、多連装銃はありましたが、鉄砲職人の趣味の域を出ませんでした。ただし6本の銃身から、シャワーのように銃弾を送り込めば、いかなる大軍でも撃破できそうな気になります。

 

 

しかし、後世の機関銃に比べると、腰高で銃手が被弾しやすく、6連装の銃身に弾がスムーズに送られるかどうかも微妙で、タマ詰まりが起きやすかったでしょうね。急激な戦況の変化にも、取り回しがしにくく、運搬に人手が必要で、方向転換なども時間がかかり、もろい感じがします。

 

野戦や要塞防備にはイイのですが、山岳戦や市街戦には特に不向きだったでしょうね。北越戦争はまさにそれらが多かったのです。最新式の普通の小銃や大砲を多数装備し、何といっても時代に乗った新政府軍が大損害を出しながらも勝利を収め、明治新政府は動き出したのです。

 

激動の時代、これだけの努力を払って、幕府にも新政府にも距離を置いて、真実を追求しようとした政治家継之助の心意気は、明治維新に呑まれました。ただ、何かと大きいものに依存することに比べれば、人間の人生として、イイ線まで行った痛快さを覚え、記憶に刻まれるのですね。