移転のお知らせ

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思い立って、アメブロから、exblogへ移ることにした。

先頃、アメブロの広告表示が変わった。
欄外表示だったのが、記事の中に表示されるようになった。

広告配信元も変わったようで、
今まではそれなりに、記事に関係した広告がリンクされていたのに、
変更後、包茎だのハゲだの幸福の科学だの
いかがわしい広告の数々が記事の中へ侵入してくるのを、
気の短い私は、
(私は包茎の記事なんか書いてないのに!)と怒り、苛立った。

デザインテンプレートをいじってみたものの、
どうにもならず。
かえって、自分の書いた文章に、
広告の一部が重なって表示されるようになってしまった。とほほ。

それで、ほどなく、
(これは、広告の少ないブログに移った方が手っ取り早い。)
…ということに思い至った。

過去に書いた数百の記事も、取捨選択し、残すものは極力いただいたコメントもろとも移転しよう、
という魂胆である。
もちろん夜逃げのようにはいかなくて、
ぼちぼち移転の予定。

アメブロに満足していた部分と、
合わないな、と感じていた部分と両方あったけれど、…まあ。

読者登録して下さった皆様、
記事を読んで下さり
あるいはコメント下さった皆様、
ありがとうございました。
新しいアドレスは、
http://fracocoy.exblog.jp
タイトルは同じく
「アエログラム」

リンクを貼って下さっていた皆様、
お手数ですが、アドレスの変更をお願い申し上げます。

記事・コメントの移転後、このブログは閉鎖する予定でおります。
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電車にハト

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今朝、武蔵野線に乗っていたら、目の前をハトが。
しかも二羽。

ご丁寧にも乗車口から歩いて乗ってきたのだった。

ハトが電車に、ねぇ。
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祖母のこと(父方篇)

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誕生日の翌日は。
父方の祖母の命日なのだった。

祖母が亡くなって9年になる。
「おばあちゃんは百まで生きる」というのが口癖で、
その実、(おばあちゃんはほんとに百の誕生日を迎えるかも、)と思わせるような、
昔の人にしてはがっしりした体格の人であった。

「おばあちゃんが子供の時分はサザエやアワビがお八つで…」
と言っていたように、海産物を豊富に口にして育ったからかもしれない。

祖母は、佐渡の出身であった。
祖父も佐渡の出で、
どちらも進学のために、上京したのだそうだ。
(いや、正確に言うと祖母は東京に嫁いでいた姉(私から見ると大伯母)
の出産の手伝いのために上京した折、姉の夫から
「皆、進学の為に田舎から東京に出てくるのに、
わざわざ田舎の学校に行くことはないだろう。」
と勧められ、東京の学校に通うことになったのだと。
(本来は新潟師範を受験するつもりであったらしい。)

何年か一緒に住んでいたし、私は割合そういう昔話を聞くのがきらいじゃなかったので、
その手の話をいくつか覚えている。

祖母が言うには、数学の得意な優等生であったこと。
佐渡にいた祖父の父(=曾祖父)が、あるとき祖母の佐渡時代の女学校へやってきて
「息子の妻に卒業生を紹介してほしい。」
と言って紹介されたのが祖母であったこと。

祖母の両親は祖父方の曾祖父が気難しい人物であることを知っていたので、
しばらくは辞退しつづけ、ついに折れたこと。

祖父は東京に恋人がいて、
思いがけず郷里でそんな縁談が持ち上がっているのを知り、
彼女にそのことを告げたところ、
彼女は怒ってほかの人と結婚してしまったこと。
(何度も思ったが、そこで祖父がその彼女と結婚していたら、
どんな展開になっていたのだろう。)

祖母自身はいわゆる美人というのではなく、
ただ、どことなく堂々とした感じがするのだった。

いつだったか、
「ねえさんは佐渡がいい、佐渡がいいと言うけれど、
どうしてそんなに佐渡がよいのかしら。」
と言ったことがあった。

祖母の両親は調った目鼻立ちの人々であったらしい。
そのため、親戚か誰かに
「まぁ、あんたのご両親はお雛様の夫婦だのに、あんたはちっとも似ないで。」
と言われて口惜しい思いをした、と聞いた。

ずっと後になって、祖母の葬儀の時に、祖母の姪にあたる人が昔の家族写真を持っていて、
一目見て(なるほど)と思った。

曾祖母を中心に、右手に生まれたばかりの子を抱く祖母の姉、
左手に弟たち、
そして曾祖母の後ろに祖母が立っており。

曾祖母は孫がいるとは信じがたいほど若々しく美しい姿で、
祖母の姉は母親によく似ており。

何となく、祖母が優等生であったわけがわかったような気がした。

反面、華奢なところもある人だった。

祖母は子供を二人、亡くしている。
そのことを、多分祖母は一生振り返り続けていた、と思う。
折に触れては、亡くなった子たちのことを口にしていた。

やはり子供を亡くしている母方の祖母の口から、
亡くなった子の話を聞いたことがないのとは対照的だった。
そして孫に対する付き合い方も。
母方の祖母が10人の孫を
やや離れたところから見守っている感じなのに対し、
父方の祖母は溺愛といっていいくらいだった。
祖母の家に寄ると(わりにまめに足を運んでいたが)、決まって、またいらっしゃい。と言われるのであった。

(見た目には母方の祖母の方が華奢に見えるのだが。
ちなみに母方の祖母は明治生まれ。今も存命である。)

父方の祖母と母方の祖母とは同年生まれ。
ただ、父方の祖母は明治天皇の崩御後に生まれたので、
大正元年生まれである。

「あちらのお母さんは明治生まれだから…」
と言っていたことがあった。

実際には同年生まれなので可笑しかったが、
たぶん、祖母たちが若い頃、
明治生まれに比べて大正生まれは…
というような世間の風潮があったのだろう。

最後に祖母と会ったのは、祖母が亡くなる一週間前だった。

病の床にあったが、手を握ると肉厚で大きくて温かい女性にしてはずいぶん大きな祖母の手なのだった。

あれから9年。
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お年玉

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母から姪への。

「お金だけで上げるのは、まだ小さいし、あんまりね…。」
と言って、小学校一年生には多くもなく、少なくもない額のお年玉を包み、
それとともにプレゼントを。

そら豆型の色カード。
「バーントシェンナ」とか「素鼠」とか、シブイ色も。

一枚一枚のカードには、ねずみの絵とか、たんぼの絵とか、
さりげなくて味のある絵が添えられていて、カワイイ。
戸田デザイン室製。

私もこのカードほしい~。

ゆたんぽ

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ゆたんぽ、を漢字で書くと、
「湯婆」
であるということをあるとき知って、
ナルホド、と膝を打ちたくなった。

例えば、火燵にあたりながら、幼子に蜜柑を手渡してやったり、
火鉢で掻き餅をあぶってやったり、
細かく折り畳んだ千円札を小遣いにやったりする、濃やかな老婆の愛情に、ゆたんぽというものは、どこか通じるものがあるように感じられるのだ。

最近、ゆたんぽが人気だそうだ。
ーわかるなぁ。あれ、あったかいもの。
純銅製の高価なものもあるらしい。

そう思っていたら、昨夜母がゆたんぽをいれてくれた。

この場合、湯婆じゃなく、湯母、か。

シナン

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シナンという建築家がいた。
オスマントルコの偉大な建築家。

その名前は知っていたが、仕事についてはほとんど知らなかったと言っていい。
昨日、書店で「シナン」という文庫本を見掛け、
手に取ると、それは上下巻で小説のようだった。

ちょっと意外な気がした。
シナンは有名ではあるが、といって、一般的によく知られた人物、というわけでもなく、
ひとりの建築家の生涯を、小説として描くというのも、また珍しい気がした。

しかし、読み始めるや引きずりこまれるようにして没頭してしまった。

驚いたのはシナンの長寿。
15~16世紀という時代に百歳まで生き、生涯に477の建築を設計した。

シナンの生きた時代は、オスマントルコ絶頂期、スレイマン大帝の治世とも重なっていた。

50歳を過ぎてから400以上もの建築をものし、最高傑作は87歳のとき。

故に、小説の特に前半は、宮廷を巡る権謀術数、敵対国との戦い、

といった出来事にページの多くが割かれている。

しかし。面白かった。

シナンが、密命を帯びてヴェネツィアに渡ったことがあったらしい。

本では、そこでシナンはフィレンツェを後にしてきたミケランジェロと邂逅した、

という設定になっている。

それはフィクションかも知れないが、
ミケランジェロが14歳年下のシナンに、
「仕事をしなさい。」
「ーそれ以外に答を得る方法はないよ。人に問わずに、仕事に問うことだ。

自分の手に問うことだ。仕事をしなさい。」
…と自戒をこめて諭すくだりは、魅力的だ。


なんというか、・・・私も仕事をしなければ。

「シナン」上・下/夢枕貘/中公文庫

「ヴィシェフラッド」の冒頭のハープが流れてきた瞬間、
血は沸騰し、不覚にも涙が浮かんだ。
ポン、ポロン、ポン、ポロン、ポロロロロロロン・・・


10月、チェコフィルが、わが祖国を奏るというのを見かけ、
一も二もなくチケット購入。


仕事場をそろそろ出ようとしたとき、来客があって、
お茶など淹れたあと、足早に駅に向かう。
外は冬の風が吹きすさび、寒い。
品川で総武線に乗り換えると、錦糸町へ。

一路、ホールへ向かう。


エントランスでチケットをもぎって貰うと、3階席へ。
3列向こうに母の姿を認める。


スメタナ:交響詩「わが祖国」全曲
ズデネク・マカル指揮、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団。
11月22日、すみだトリフォニーホール(大ホール)にて。


開演を知らせるチャイムの後、客席は暗転し、
拍手の中、演奏家たちの入場。
そして、ズデネク・マカル氏が登壇する。


やがて2台のハープが響き出す。
優しく心を慰撫するような旋律。


主題は第二番目の「ヴルタヴァ(モルダウ)」に受け継がれ・・・。


1970年代、ヴァツラフ・ノイマンの指揮したチェコフィルの
「わが祖国」のCDを繰り返し聴いていて、細部まで熟知したつもりに
なっていた。
実際は、あれ、こんなフレーズがあったかな、と思う箇所がいくつも。
CDでは耳は主旋律を追っていて、それ以外の部分に意識が行っていない
ことを思う。


こうしてステージを見晴かすと、視覚的にもどのパートが演奏しているのかが
見て取れ、おもしろかった。(あ、もうじきシンバルが入る。)

音響もよく、1800余席というのは、ちょうどよいスケールだな、と思ったりもした。


幕間を挟んでの2時間弱、ずっと懐かしい気持ちで
客席に沈殿していた。


それは、たとえば社会主義時代、亡命を余儀なくされた指揮者が、
民主化後、晴れて故郷の土を踏んで、凱旋コンサートを
行った席に居合わせたら、こんな感じの、
これをもっと強烈にしたような気持ちになるのではないか、
という風だった。


Ma Vlast

チェコフィルの「わが祖国」を今度はぜひ
プラハ・市民会館のスメタナホールで聴きたい。


一度は。

祭り裏

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友達に、先祖を辿ると沖縄のどこかの島の王族、という人がいる。
彼女が結婚式を挙げた輝く夏の日、
薔薇の花びらを浴びながら階段を降りてくる姿を見て、そのことを思い出した。

「名前がね、日本人の名前じゃないの。」
ご先祖様のことである。
そう言って、彼女は笑った。
咄嗟に、ワンヤンアグダとかヤリツアボキみたいな、
世界史で聞き齧った女真族の親方の名前など思い浮かべてしまったが、
本当のところは聞きそびれた。

しかし、祭政一致の文化を持つ沖縄のことである。
彼女の祖先も、王族であると同時に、神職でもあったのかも知れなかった。

さて。
島尾ミホの「祭り裏」を読んだ。
島尾ミホは、作家島尾敏雄の妻にして、彼女自身も文筆家、
しまおまほの祖母でもある。
彼女は奄美のカケロマ島の王族の出身であった。
と、同時に、彼女の家は代々受け継がれるノロの家柄でもあったらしい。

祭り裏は、島尾ミホの、カケロマ島での少女時代のエピソードが綴られる
自伝的短篇集(と思われる)である。

王族、と言っても、首里城のような城に住まっているわけではなく、
感じとしては、島の名主、大地主というのに近いらしかった。

陽光に溢れた南国の島、といえども、あるいはだからこそ、なのか
そこには陰りもある。
島一番の秀才で、東京の大学まで出て、朝鮮総督府の役人として前途洋々の人生を送るマサミ。
子供の頃からの意中であったヤエを娶り、順風満帆だったはずが、

ヤエが胸を病んだことを気に病み、神経を病んでしまう・・・。
静養のために戻ったシマで、マサミは放火事件を起こしてしまい・・。
シマの年配者たちが決めたマサミの処遇。

或いは島に赴任してきた若く美しいミナ先生と、
島一番の美青年のひそかな恋。
ところが二人が忍びあっていた場所は、神聖な御嶽で、そのことが島人の怒りを誘い・・。

母にその「うわさ話」を話したミホは、きちんと座らされ、
「自分の目で見たことではない不確かな話を、言い触らすものではありません。」
とたしなめられる。

母は、島の祭事に通じ、風習に通じ、手先の器用さで島人から
「手先の器用な神様」
と言われた人であった。

島尾ミホ、というと、島尾敏雄の夫人で、自伝的小説「死の刺」の
夫の浮気によって神経を病んでしまう妻その人、というイメージの方が、

まさっているのではないかと思う。

私はまだその本を読んでいないのだが、
祭り裏を読んで、島尾ミホを、すぐれた書き手だと思ったのだった。

ミーフガー

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久米島の南側には、常夏の浜辺。
ところが北へ向かって車を走らせると、こんな風景。

この岩は、ミーフガーといって、子宝に恵まれない女性が願を掛けると、御利益がある、とか。

私たちは願を掛けに行ったわけではなく、ただ荒々しい風景に圧倒されて、
へえぇ・・
と言っていたのだった。

海水浴に相応しいビーチがあるわけではないから、このあたりは久米島でももっとも手付かずの感じ。
途中、鍾乳洞を指し示す標識があって、寄ろうか寄るまいか迷ったものの、結局素通り。

ところが帰ってきて、インターネットで調べたら、その鍾乳洞は昔の風葬跡地だった。

太古の印象に違わず、久米島の北部海岸沿いは、生と死の混在する土地だったのだ。

翻って、都市では、生も死も、遠い。

久米島紬

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機織りは女の仕事であろうと思う。


もちろん、京都の西陣織のように、男の手によって織られる織物もあるが、
多くは、古い昔から、洋の東西を問わず、女の手仕事として、受け継がれてきた。
家族の着るものを賄うばかりではなく、市場で商われて、生計の足しとなることも少なくなかった。
根気を要するかわりに、達成の度合いが目で見てとれる機織りは、
耳を打つリズミカルな音も相俟って、女性が自らと向き合う手段でもあったのではないか、と思う。

沖縄もまた、染織の盛んな地域であった。
芭蕉布、紅型、宮古上布・・・。
久米島には、久米島紬。
琉球王朝時代には、租税として納められた。

久米島で、機織りを体験した。

NPOの運営する体験プログラム、島の学校にて。
自然散策、カヤック体験、シーサー造りに三線の稽古、と島ならではのプログラムが揃っていて、
その一つに、久米島紬体験があった。

織機は三台。
うち二台が体験用で、すでに糸がかけられてあり、
織り始めるばかりになっている。
渋い小豆色のにするか、緑色にするか、すこし迷って、緑のにする。
ヤマモモの樹皮、ナカハラクロキの樹皮、そして久米島の泥で染められた色だという。

ヒを右から左、左から右へ。
それに合わせて、エレクトーンのペダルのように足を交互に踏み替える。

馴れると没頭してしまう。
「え、はじめての沖縄が久米島!私と一緒だ。」
・・と先生。
初めて訪れた久米島に惹かれて、25年程前に、一家揃って内地から移ってこられたのだそう。

絣模様のところに来た。


模様はあらかじめ方眼紙に下絵を描き、そのうえに糸を這わせて、

柄の来る部分に墨をつけ、染め分けるのだそうだ。
また、折り返し部分にはそれとわかるように、色が染められてある。
それをヒに巻き取り、模様の位置を念頭におきながら、織っていく。
最初から綿密に計画されたものとは知らなかった。
模様には意味があって、
私の織ったのは月と銭玉(!)。
この花模様みたいなのが、銭玉とは意外で、笑ってしまった。
でも、中にはブタの餌箱という柄もあるのだそうで。

2時間で20センチ。
初心者ということを考えに入れても、手間の掛かるものだと思う。
しかも、機織りの作業よりも、その前段階の作業の方が手間で、

そこまでで、全工程の7割程ということだった。
久米島紬の織り手は、工程の多くをほぼ一人でこなす、とも。

機織りが盛んな地域というのは、気候風土の厳しさと関係があるような気がする。
あまり便利のよい土地には、機織りは見られない、ような。

でも、女性と機織りとの間には、親和性があるように思う。