7代 徳川宗春   挫折そして退陣 | 東海雜記

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1731年に家督を継ぎ、32年に吉宗の詰問を鮮やかに切り返した宗春。
領民のみならず江戸っ子の人気も勝ち得たのですが、その栄光は長く続きませんでした。

そもそも宗春は政治家としては吉宗には到底かないません。
苦しい藩財政、幕府財政を引き継ぎ、水野忠之や松平乗邑といった譜代層、加納氏倫などの側近、大岡忠相、神尾春央といった官僚など有能な人材をバランスよく、どんどん登用し、組織立て、改革を展開していった吉宗。
それに対し宗春は己の政治理念を掲げ、規制を緩和するだけで、理念を具体化すべき手段をこうじることなく、政策を遂行する家臣にも恵まれず、いやむしろ育てず、徒に譜代の老臣層との対立を深めました。

また経済の繁栄をもたらす反面、風紀は乱れました。万人が宗春のように高邁な思想を持っているわけでも、理解できるわけでもありません。ここでも宗春は壁にぶち当たります。

そして藩財政の悪化。
彼の治世は足掛け9年に及びますが、先代の倹約により黒字スタートの財政も、治世の終わりには11万両(およそ120~220億円)の赤字を残しています。

1736年にはそれまでの規制緩和政策を縮小。遊郭を撤去する旨の法令を出します。家臣にも節度を守り、怠惰に流れぬよう戒めました。

緩和から規制へ。宗春は挫折を味わいました。
ところが皮肉なことに、ライバルの吉宗も同じ年、政策を転換しています。
米価操作に苦渋した吉宗。貨幣を改鋳、その質を下げ、それまでのデフレ政策からインフレへと転じるとともに、米価の規制も緩和します。また町奉行、大岡忠相を寺社奉行に「栄転」。しかしながらそれは実のない名誉職で、実質「左遷」でした。
一方が規制強化したら、もう一方は緩和。吉宗と宗春、とことん反対のことをやっているんですね。

1737年、財政悪化により、宗春は農民、商人に上納金の割り当てを命じ、民衆の人気を失います。
一体、楽を共にするのはよくても、苦は共にできないのが人情。どんな名目であれ、税と聞くと反発するもの。
国民人気とはまことに浮ついたものですね、●泉さん。

これを見た藩重臣は宗春失脚を画策します。
尾張藩付家老(家康側近が御三家家老となった、特別な家柄。大名並みの知行を与えられ、三家の藩政を担当しました)の竹腰正武は幕閣と連絡を取り合い、陰謀を練りました。宗春排除の口実を見つけられた幕府は渡りに船と飛びつきます。

そして1739年。ついに宗春に隠居謹慎の命が下りました。
「身の行跡がよろしくない。国政も乱れ、士民も困惑している」
というのがその理由です。
宗春の規制政策が実を結びつつある矢先でした。

剛毅で鳴らす宗春のこと。隠居謹慎の命を伝えに来た者たちも、いざというときのために取り縄を用意していたほどでした。
ところが宗春はさばさばした様子で、おとなしく幕命に従ったそうです。
どこまでもさわやかな男でした。

後継は従兄弟で支藩藩主であった宗勝。彼と、その子宗睦(むねちか)の時代は、尾張藩苦渋の時代で、財政再建のため倹約令が次々と出されます。

そう、領民は自分たちが失ったものの大きさにやっと気づいたのでした。
宗春赦免を願い、家財没収にあった商人がいます。また、
人々は宗春の治世を懐かしみ、それを
「遊女濃安都」(ゆめのあと=夢の跡)
という本にまとめました。

夢のごとく宗春とその治世は、光り輝く時代は過ぎてゆき、尾張名古屋は静けさを取り戻しました。


次回は締めくくり。「消えた宗春」です。