マクベス夫人(ヴィヴィアン・リー)


Lady Macbeth


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  • 31 Jan
    • 名古屋市美術館特別展 永青文庫 日本画の名品

      猫は絶対的な正直さを持っている。 ―ヘミングウェイ     休日。いつものように家でだらだらするのんびりするのも体の健康によいのでしょうが、このチラシに誘われて、たまには心の健康、と名古屋市美術館に行きました。 菱田春草の「黒き猫」。ふわふわの毛並みが実に可愛らしい。   ところが、入場後知ったのですが、この絵は2月7日からの後期展示なのです。     美術館の前に大きく出てますが、今はまだ見られません。 同じところに上村松園の「月影」もありましたが、こちらも後期の展示。   先ほどのチラシをよく見ると、確かに小さな字で(後期)と書いてありました。 見られないものは仕方がありません。またの機会を楽しみにします。   私のようにがっかりした人は結構いるみたいで、美術館のHPに、1月20日付(14日の特別展開始後)の「お知らせ」で 「【重要文化財】菱田春草の《黒き猫》は後期に展示します」として 「開催中の特別展「永青文庫 日本画の名品」の出品作品につきまして、重要文化財3点のうち、菱田春草の《黒き猫》と小林古径 《髪》につきましては、後期に展示をしますので、ご了承ください。」 とあります。 http://www.art-museum.city.nagoya.jp/oshirase/494.html   名古屋市内や近郊の人は「もう一度」という気にもなれますが、そうでない人も多いですから、これはあまりよろしくないでしょう。他の美術館や博物館などもこんな事があるのかしらん。     展示は日本画の名品と禅画の2部構成でした。菱田春草、横山大観、下村観山など文字通り「レジェンド」達をはじめとする名品に圧倒されつつ、じっくり堪能した後は、白隠慧鶴(はくいんえかく)、仙厓義梵(せんがい ぎぼん)という江戸時代の二人の、どこか恍けた禅画を楽しめました。 歴史好きなオッサンとしては、源頼朝、義経兄弟を描いた「黄瀬川の陣」や、卑弥呼、額田の王(おおきみ)」の作者、安田靫彦(やすだゆきひこ)の秀吉(「聚楽の茶亭」)を見ることができてラッキーでした。     「猫か乕(とら)か當(あて)てみろ」 仙厓義梵「虎図」(絵葉書より)        

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  • 23 Jan
    • 本能寺ホテル

      「お館様は、冷徹非道で鬼のようなお方なのだ」 ―森蘭丸(演・濱田岳)     上映時間   119分 製作国    2016年 日本   <内容> 人生をふわふわと流されるまま生きている女性主人公が、本能寺の変前日の本能寺にタイムスリップする映画。   <感想> 本能寺の変、タイムスリップ、で連想したのが眉村卓『とらえられたスクールバス』。アニメ映画化に際し『時空の旅人』という題に変更されたのですが、自分は元のタイトルの方が素朴で好きです。   印象に残ったのは主人公(綾瀬はるか)と、ホテル支配人(風間杜夫)とのやり取り。相手が聞いてくれている、わかっていると思い込んで話す綾瀬さんと、実はちっとも聞いていない、何を言っているのかわからないのに受ける風間さん。一方通行なのに成立している不思議なやり取りがユーモラスでした。   信長(堤真一)の描き方は僕にはしっくりこず、作品全体としての面白さを減じてしまったと感じました。けれども映画(ドラマ、小説、芝居も)は歴史ドキュメンタリーじゃないんだから、いいのだ、と反省。そもそも歴史解釈や人物像も、あくまで学説なので、これから先どうなるかわかりませんし。 濱田岳さんの森蘭丸を見た綾瀬さんの「イメージが違う」というセリフも、パターン化された歴史人物像を皮肉っているのかもしれません。 その濱田蘭丸は、鬼上司に側仕え、胃痛に悩む、現代のサラリーマン的な人物。同じようなシュチュエーションのCMに出ているだけに、クスリとさせられます(オヤジギャクじゃないですよ)。 *冒頭に掲げたセリフは記憶に頼ってるので、細部は異なっているかもしれません。 そんな蘭丸ですが、ラストはかっこよかったですよ。もちろん信長も。   本能寺の変の前日、当日に絞った「タイムスリップ」も、時と場所を制約して、主人公二人(綾瀬さんと堤さん)の人物を描き込む上で有効だと思いました。 反面、平成の現代の場面では京都のあちこちを描いています。   最後のシーンでは京都の過去と現代の画像が流れてゆくのですが、これは綾瀬さんも出演していたテレビドラマ『JIN-仁』のオープニングを彷彿させます。      

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  • 03 Jan
    • ヒトラーの忘れ物

      「読書記録を綴る」と書いた早々、映画の感想を書く。 いい加減である。 それが私だ。     原題 Under sandet / LAND OF MINE 上映時間    101分 製作国    2015年 デンマーク/ドイツ 初公開年月    2016年12月   内容 1945年5月ドイツ占領下から解放されたデンマーク。しかし、西海岸には連合軍の上陸を防ぐための大量の地雷が残されていた。200万個以上もの地雷撤去を命じられたのは、異国に置き去りにされたドイツ兵たち。その大半は15歳から18歳の少年兵だった。 デンマーク人の殆どが知らされていなかった歴史の暗部を描く。   感想 悄然と引き上げてゆくドイツ兵たち。ジープですれ違ったデンマーク兵がいきなりその一人を殴りつける。 「その旗から手を離せ! それはお前たちのじゃない!」 何度も何度も執拗に殴るデンマーク兵。殴りつける腕は太く、胸板も厚い。その顔は怒りに満ち、怒りは狂気に満ちている。 冒頭のこのシーンに彼の人となり、怒りと悲しみがにじみ出ています。   この冒頭のシーンから、映画とわかってはいても、緊張の解けない場面の連続でした。   集められた少年兵たち。 「ナチスの罪を償え」と、地雷撤去を言い渡され、訓練を課せられます。 最初は模擬であったのが、実物を用いた訓練に。 そして大方の予想通り事故で命を落とす者が出てきます。 そんな短期間の訓練を終えた後に彼らが遣わされたのが、冒頭のシーンで登場した、愚直で粗暴な鬼軍曹ももとでした。 美しい砂浜を指差して、彼は言います。 「ここの地雷を全て撤去したら、ドイツに帰してやる」     「人間は変わることができることを描きたかった。」 監督のマーチン・サンフリートはそう語っています。 主人公である鬼軍曹の怒り、悲しみ、憎しみの背景は一切語られることはありません。観客である我々に想像が委ねられています。少年兵たちが食中毒になったのを「いい気味だ」とほくそ笑む農婦。彼女の憎悪についてもまた然り。 彼らの憎しみが赦しに変わることはできるのか。   対して少年たちは、彼らの「夢」を語ります。「祖国を復興させたい」「技師になりたい」「一緒に会社を作ろう」 彼らは本当にドイツに帰れるのでしょうか。   原題(デンマーク語の方)は「砂の下に」といった意味でしょうか。無味乾燥なタイトルゆえに、史実を描いたドキュメンタリータッチのこの映画に合っていると思います。 邦題も私は気に入っております。「忘れ物」は直接は地雷のことでしょう。拡大解釈すれば、取り残された兵たち、傷を受けた心、ドイツに対する憎悪。 古今東西、戦争を始める時、負けることを考えた指導者はいた/いるのでしょうか。自分の国の子供たちが、例えば「ドイツ人」というだけ理由で憎まれ、虐待されることを、その可能性を、はなから忘れてはいないでしょうか。   映画を見終わった後も、その圧倒的な内容にしばらく呆けていました。 危うく鞄を忘れるところでした。    

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  • 01 Jan
    • 読書会

      今年2月より読書会を主催することとなった。 なので自分の読書記録を綴ることにする。 他に雑感等。   いつまで続くか。。。 読書会までは続けたいな。  

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  • 09 Apr
    • 井上靖 『わが母の記』

      年をとるのはステキなことです わが母の記 (講談社文庫)/井上 靖 ¥500 Amazon.co.jp 5年ぶりくらいのご無沙汰です。 まあ色々と、それこそ色々とありまして、職も住まいも変わりました。 ぐうたらに無責任に生きておりましたが、親父が亡くなりまして、さすがにこたえました。 私も今年四回目の年男になります。老けるにはまだ早すぎますが、先がちらほらと見えてまいります。 ちなみに結婚には失敗しました。 年をとる、というと、私にはすぐと思い浮かぶ歌が三つございます。 ひとつは大黒摩季さんの「夏が来る」。冒頭に挙げました「年をとるのは素敵なコトです」という言葉はこの歌からです。もっともこの歌の場合は20~30代位の女性を指してるんでしょうが、なんとも素敵な言葉だと思います。 なぜか現代では「年をとる」マイナス面ばかり言わることが多ございますが、そんなこたあない。この『わが母の記』にしたって、私には今の年齢になって読んでよかった、と思いますよ。年とってよかったとね。 年をとることによって失うものもあるけど(それは不可抗力だから、若い人は揶揄しちゃあいけませんヨ)、得るものもいっぱいある。プラスマイナスどちらに傾くかはその人次第でしょうし、おんなじ人でも日によって変わってくるんでしょうね。 もっとも大黒さんのこの歌では「素敵なコトです」が強がりにも聞こえるかも。どう捉えるかはまた人によるのでしょうけれどね。 二つ目は斎藤茂吉の ミュンヘンにわれをりし時小夜更けてほとの白毛を切りて棄てにき という短歌。「ほと」というのは、まことにスミマセン、陰毛のことでございます。 私はこの歌を、中学生の時に、茂吉の次男である北杜夫さん――北さんも去年お亡くなりになりましたね。年月を感じます――のエッセイだかで知り、ずっと覚えていたのです。小さい頃に頭に入れたデータというのは断片にしろ、意外と残るものですよね。 それはともかく北さんが言ったのかは覚えてませんが、頭に白髪ができる以上に「ほと」に白髪ができるのは老いを感じちゃうんだそうで、私の場合は、これまた汚い話かもしれませんが鼻に白い毛を見つけた時におんなじ思いをしました。頭髪なら若白髪ってもんがあるでしょう? だからまだ「年とってない」と理屈つけれるんですが、頭髪以外だとやはりこたえますね。 俺も年とったなあ、なんて。 (「ほとの白髪」には別の解釈もあるそうで、興味ある人は調べてみてください) 三つ目は江戸時代の禅僧、仙厓和尚(1750年~1835年)の「戒老偈」というやつでして――これは歌ではありませんかね――、 皺がよる ほくろができる 腰まがる 頭ははげる 髪白くなる 手は震う 足はよろつく 歯は抜ける 耳は聞こえず 目はうとうなる 身に添うは 頭巾、襟巻き、杖、眼鏡 たんぽ、温石、しびん、孫の手 くどくなる 気短になる 愚痴になる 心は歪む 欲深くなる 聞きたがる 死にともながる 淋しがる 出しゃばりたがる 世話やきたがる またしても同じ話に 子を褒める 達者自慢に 人は嫌がる  という、身も蓋もないものですが、こういうのがあるのです。 先ほど「俺も年をとったなあ」なんて偉そうに書きましたけど、こういうのを読むと、私もまだまだ若造ですね。生意気言っちゃあいけませんね。 長々と書きましたけれど、実はこの三つ、これが私がこの本『わが母の記』を読んだ感想および読み取った内容を表しているからなんです。 この本は井上先生のお母様、ご家族の実際をを描いたエッセイとも小説ともいえる作品です。 井上靖の本を読むのは、恥ずかしながら、実に三十数年ぶりです。最後に読んだは『後白河院』か『蒼き狼』か、いずれにせよ中学生高校生くらい。 後白河院 (新潮文庫)/井上 靖 ¥420 Amazon.co.jp 蒼き狼 (新潮文庫)/井上 靖 ¥704 Amazon.co.jp 私が「俺は文学青年だ」なんて威張ってた時です。 三十数年ぶりに井上先生の文章に接しましたが、実に読み易く、またしっかりした文章をおかきになる人だったんだなあと。ちょっと上から目線な感想をもっちゃいましたけど、昨今そうでない文章に多く接したからなんでしょう。母が点訳をやっていて、しょっちゅう文章の意味とか文法とか聞いてくるもんですから、自然と「点訳しやすいか、しにくいか」という観点で呼んじゃってるのかもしれません。 ぐいぐいと、というよりすっと引き込まれてしまう。力強く引き付けるよりやさしく誘ってくれる、少なくともこの本ではそうでした。 そして冒頭の大黒摩季さんの歌詞の一節になるんです。私はこの歳でこの本に出会えて本当によかったと。少年時代出会っていたら、それはそれでまた貴重な体験でしたろう、けれど私には今、この歳で読めたのが、大げさに言えば運命的なものを感じました。 偉そうなことを言えばこの本は私ら以上の世代の人にこそより深く味わえるものなんじゃないかと。いや、もっと乱暴に言えば、私らの世代、40後半~60前半くらいの人にこそ一番ぴったりくるんじゃないかと。 本当に乱暴なことを言ってますが、これもあくまで個人的な感想ですよ。 最初の部分ではお父様のこと、その死のことが書かれておりまして、これは先年親父を亡くした身には、それを引きずっている自分には、実にこたえました。 「私は父によって死から守られていた」 という一節がありますが、確かにそうですね。(年齢にもよりますが)親が死ぬということは「死」がはっきりと一歩自分に近づいてきたことを感じさせます。祖父母の時とは違う。そして母親がまだ生きているこの時点では「まだ半分死から守られている」。 メインはタイトル通りお母様のお話です。エッセイとも私小説とも言える三つの短編からなってます。 近く映画も上映されますが、映画ほどドラマチックな展開はありません。とはいえ、私も予告編を見ただけなんですが。 自分の母親が呆けていく様を描いている、その描き方が扇情的でもなく、突き放してもなく、描いている。 先に挙げた「戒老偈」ではないけれど同じ話を何度もする、ってとこから始まります。「戒老偈」ほどひどくはないですけれどね。 個人的にはお母様が嫁のいる息子たちの家ではなく、夫がいるいないはあるけど娘たちの家で面倒を見てもらいたがった、てとこが興味深かったですね。ウチの父方の祖母もそうでしたから。少しわかる気がします。 しかし、やはり寂しくもありますね。自分を産み育ててくれた母親が老いてゆくのは。ウチの母はまだかくしゃくとしておりますが、それでも70代。孫がいるんで、やっぱり私ら子供たちも「おばあちゃん」とよんでます。そう考えると自分も年をとったなあという寂しさが、コレ最初の「ステキなこと」と矛盾するかもしれませんが、寂しさがあります。単純なステキでなく複雑なステキさですよね。母の姿は鼻毛の白髪やほとの白髪以上に自分の年を感じさせてしまうものですね。 オマケ 私が買った本には巻末に年表と写真が数葉載っています。 井上先生はお母様そっくりですよ!

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  • 27 Jun
    • 秦健日子 『推理小説』

      アンフェアなのは……俺だな 秦 建日子 推理小説 今回はちょっと辛口で。 夏目漱石の作品には強い女性、恐れないヒロインがしばしば登場しました。いや、ほとんどの作品のヒロインがそうであるのかもしれません。『草枕』の那美、『虞美人草』の藤尾や『三四郎』の美禰子など主体的な生き方をする「新しい女性」が有名ですが、『それから』の三千代、『行人』のお直など「家」に取り込まれた主婦も、どうしていざとなるとものおじしません。むしろ男の方がうろたえている。もっともおとなしい(と私が思っている)『門』のお米ですら、過去の過ちに追いつかれようとして怯える夫の横で、静かな寝息を立てている。それは夫から何も知らされていないからなのですが、恐らく知らされたとしても彼女は夫ほど悶々とせず、逃げるなり立ち向かうなりの行動をとったのではないかと思います。それほど漱石が見る女性は現実への適応能力がある。 *実は藤尾はきつい性格ではあるけれど、弱い女性です。 実際は社会的に弱い立場にある女性――昔の話ですよ――が、強者の男性よりも強い面を持っている。実はこれ、男性ゆえの恐怖なのかもしれませんね。未知への憧れと恐怖。 戦後靴下と女性は強くなったと言いますが、フィクションの世界においても、漱石が昔描いたような、主体的に人生を切り開く女性が多数登場しました。彼女らはやはり魅力的で人気があります。漫画でも、華奢とはいわないが、どう見ても筋肉のあまりついてない女性がしばしば怪力を発するものがある。「火事場のクソ力」は女性の方が強いと言うけれど、危機一髪でなくても常に強い女性が描かれています。 まあ、男性が強く女性が弱いというのは、あまりにもベタなんでしょうかね。 本作は『推理小説』というタイトルにかかわらず、推理小説ではありません。ミステリを何冊か読んだ方なら簡単に見破られる、過去にも数例ある●●トリックと犯人。作中「フェアかアンフェアか」という問題も語られ、ヴァン・ダインの十戒やロナルド・ノックスの二十則も(名前だけ)出てきますが、さりとてミステリが内包する矛盾を描いたものでもありません。それに、それならすでに東野圭吾さんの優れた作品があります。 東野 圭吾 名探偵の掟 名探偵の呪縛 ミステリとしてはアンフェアでも犯罪者の、あるいは人間の心理として自然だ、との記述も出てきますが、それも付けたしの観が否めない。それにこれもまたドストエスフキイが『罪と罰』で見事に描ききっています。 ドストエフスキー, 工藤 精一郎 罪と罰 (上巻) 罪と罰 (下巻) 無差別殺人が行われ、主人公の関係人物にまで魔の手が伸びるか? という部分もありますが、ドキドキハラハラのサスペンスとも言えません。ドキドキハラハラとはこういうのを言う。 ウイリアム・アイリッシュ, 稲葉 明雄 幻の女 何とも中途半端な作品です。本作は後にドラマ化されたのですが、ドラマの原作というよりも、先に書かれてはいるものの、ドラマのノベライズと言った方がしっくりきます。 つまり内容が薄っぺらいのです。手軽に読めるのはよいのですが、せっかく用意した設定をいかしきっていない。 私は本作を読んでしばしば既視感を覚えました。 ・エキセントリックなヒロインと、それに振り回される常識的な(つまり小物臭をただよわせた)男性 ・読者への配慮が欠ける、お手軽な文章 そうです。最近読んだ『涼宮ハルヒ』シリーズです。 つまりこれはラノベ(ライトノベル)とは言わないまでも、キャラクタ小説なのです。 冒頭申し上げた漱石が描いた女性の強さとは異なる、パワフルかつエキセントリックなヒロイン、雪平夏見(ゆきひら・なつみ)――この凝ったネーミングもラノベっぽいと言える――は確かに魅力的です。篠原涼子さんが演じてみたいとおっしゃったのもうなずける。役者ならこういう矛盾を抱えたキャラクタは演じてみたいと思うでしょうね。ロバート・デ・ニーロは『レナードの朝』の主演を熱望し、ジャック・ニコルソンをはじめ多くの名優が『カッコーの巣の上で』で見事な演技を披露しました。 ソニー・ピクチャーズエンタテインメント レナードの朝 ワーナー・ホーム・ビデオ カッコーの巣の上で *雪平夏見がサイコであるという意味ではありません。個性的なキャラクタは多くの名優を惹きつけるということです。念のため。 日常生活ではだらしなく、事件に対しては精力的というのも初期のホームズを思わせます。 つまり「名探偵」の条件にバッチリ。 しかし、ここでも難を言えば、彼女を「無駄に美人」とか、すばらしいプロポーションと書いたのは、まさに「無駄なこと」だったと思います。「美人」というのは一番陳腐な形容ですよね。篠原さんも、読者も、彼女のアクティブさに惹かれるのであって、それを通じて美しいと思う。彼女の強さも弱さも、そしてその生き様も、すべてひっくるめてかっこいい、美しいと感じる。その点ではすごいと思う。主人公の存在感はすごいと思います。 「美人」と書かなくても美しいと思うのですから、「美人」というのは余計な表現。 きついことを言えば安っぽい。 また、作中人物が発した 「読者が本を選ぶのではなく、本が読者を選ぶ」という旨の言葉がありますが、実はこの作品こそが、表現の至らなさで読者層を狭めている。 例えば大物芸能人として浜崎あゆみさんの名前が出てくる。浜崎あゆみと誰々が結婚しないかぎり話題独占云々という文章があるのですけれど、これもまた先の「美人」と同じく、安易な例えですよね。秦さんはテレビ界のお人だし、出版社もそちら側の人間だからスルーしたのでしょうが、失礼ながら浜崎さんは全世代に知られているわけでもないし、その人気の寿命も読めない。単に「大物芸能人」とすればすむ。他にも同じような例は数箇所あります。 星新一さんは風俗描写を避けた。それはショートショートという特殊なジャンルゆえの配慮かもしれません。それでも星さんのおっしゃるように「風速描写は腐りやすい」。今をときめく芸能人や人気のテレビ番組も、五年十年もすれば注釈抜きではわからなくなる。もちろん浜崎さんがそうだと言っているのではありません。そうでないとも言えませんが。だから少し気を利いた人なら、このような描写は避けるはずです。 風俗描写が必要ならばともかく、文脈から見ても必要がない。単に配慮が足りないだけなのです。 まあ、こんな具合に『ハルヒ』シリーズと同じく限られた読み手に放った文章をつづっているんですよ。 要するに書かなくてもいいことを書き、書かなければならないことが書いていない。 それに正直な話、「強い女性」と「おとなしい男性」には食傷気味です。今後も出てくるでしょうが、恐らく漱石の描いた女性のような魅力は感じないでしょう。 ドラマは未見ですけれど、恐らくかなり面白いでしょう。秦さんが文章で書くことができなかったあれやこれやを見事に表現するでしょうから。 アンフェアなのは安全なところからアレコレ言っている私かもしれませんね。

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  • 22 Jun
    • 聖書と数理哲学序説

      私の家には大小さまざまな聖書がある。旧約・新約そろった正典だけでも6冊。日本聖書協会の口語訳、同文語訳、新改訳、共同訳、そしてキング・ジェイムズ・バージョン(欽定訳)。このうち最初の口語訳は2冊ある。私が一番最初に触れた昭和42年に出版されたものと、平成になってから出版されたもの。内容はまったく同じだ。42年のものは既にぼろぼろになっていて、何度か製本しなおしたがページの欠落があったため、新しく買いなおした。 この昭和42年のものは、もちろん私が買ったものではない。最初の父が買ったものだ。他に読む人がいなかったため、いつの間にか私のものとなってしまったが、最後のページに父の名前が書かれている。 私は思春期から青年期をクリスチャンとして過ごした。カソリック系の幼稚園に通っていたため、宗教的な行事やお話が幼い心に残っていたせいもあるが、やはり聖書が家にあったことが大きい。最初の父は私の人生の初めの6年ほどしかかかわっていないが、聖書を残したことで私に大きな影響を与えたと言える。 8歳のときに初めて手にした。その時はまだきれいだったから、父はクリスチャンではなかったのだろう。ただ数箇所、ドキッとするような言葉に赤鉛筆でラインが引かれてあった。人生のはかなさや女性の悪口が書かれている場面だ。その後私がさまざまな色であちこちに線を引きまくったため、どの聖句に線が引かれてあったかはもうわからないが、初めて目にしたときドキッとしたことだけは覚えている。 私はたぶんに理屈っぽいところがあるのだが、理屈っぽさと信仰とは結びつきやすい。ともに現実的でない一面を持っているからだ。誤解なきよう願いたいのだが、「一面を持つ」だから、現実的なところも、もちろんある。 もしかしたら私の少し浮世離れした理屈っぽさ、簡単に言えば理想主義的な面は最初の父の血を引いているのかもしれない。 私には二人の父がいたわけだが、「実父」「養父」という呼び方はできない。最初の父には悪いが、10の歳から大学を出るまで育ててくれた、そしてその後も何かと私を助けてくれた二度目の父を「養父」と呼ぶことはできない。彼こそが私の実父である。戸籍上も私たち兄妹は養子でなく実子にしてくれた。 先日父のことを書いたところ、「すばらしいお父様でしたね」とのお言葉をいただき、感激した。しかしこの父はまことに現実家で押しも強く、ゆえに倒産したとは言え会社をやってこられたわけだが、理屈っぽく理想主義な私とはそりが合わなかった。勘当されたこともある。 先日本を整理していたら古い岩波文庫が出てきた。ラッセルの『数理哲学序説』。昭和45年の版。 ラッセル, 平野 智治 数理哲学序説 多分父が夜間大学の学生だったときに読んだものだろう。 私が覚えている父はあまり本を読まない人だった。読むとしても松下幸之助や盛田昭夫、岡田卓也など実業家の者がほとんどだった。父の意外な一面に触れた気がする。とは言うものの、よく考えてみればこれも父らしい。自分が作った会社に普通の人には耳慣れぬ数学用語を使った人だ。父の中には苦学して修めた学問に対する愛着があったのだろう。 旧字で書かれ、ページもすっかり変色した本だけれど、結構面白い。今朝の公園で読んでいる。 私がもしいなくなって、私の遺した本を人が見たらどう思うだろう。歴史の本、自然科学の本、ミステリ、ファンタジー、児童書、ライトノベル、漫画、宗教書などなどなど。まるで統一感がない。オタクだと思われるだろうな、きっと。

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  • 07 Jun
    • 恥ずかしい本

      本屋さんや本をめぐる体験は、皆様もさまざまなものをお持ちのようで。自分が飛びぬけて異様でないとわかり、安心しました。 久しく前から、書店での紙カバーを遠慮するようになりました。なので電車やバス内でも裸で読む、つまりタイトルなどが他の人にもわかるわけです。それで著しく恥をかいたのが、『ゴキブリ3億年のひみつ』という本を読んでいたとき。 安富 和男 ゴキブリ3億年のひみつ―台所にいる「生きた化石」 以前書いたのですが、夕方は女子高生にクスクスと笑われ、深夜には酔っ払いに絡まれました。 普段は他人が何を読んでいてもそっとしておいてくれるのですが、それほどゴキブリはインパクトがあるのでしょうか。どうも過剰反応を示す方が多いように感じます。これはいずれ別の機会に。 先日『涼宮ハルヒの憂鬱』と『蟹工船』を買ったときは、いまさらプロ文(プロレタリア文学)なんてキザったらしく見えるだろうと、『蟹工船』の上に『ハルヒ』のカバーをかぶせて読みました。しかしよく考えればこの年でアニメ絵の本を読むのも恥ずかしいなあと思い、はずした『蟹工船』のカバーを『ハルヒ』の方にかぶせておきました。よくよく考えれば無意味なことをしている、なんて思ったのは家に帰った後です。 谷川 流, いとう のいぢ 涼宮ハルヒの憂鬱 小林 多喜二 蟹工船 一九二八・三・一五 人目を気にする、というのは弱気になっているということですね。恥ずかしいなら買うなよ、とお叱りを受けそうです。 そういえば『ハリー・ポッター』シリーズも、イギリス版の話ですが、アダルト仕様というのがありまして、中身は同じなんですが、表紙が大人向けになっているんです。 これが通常版。児童書扱い。 J. K. Rowling Harrius Potter Et Philosophi Lapis / Harry Potter and the Philosopher's Stone そしてこれが一般向け。 J. K. Rowling Harry Potter and the Philosopher's Stone (Harry Potter) 表紙が違うだけで中身は同じです。日本なら大人でも人前で漫画や漫画雑誌を広げるのが珍しくないのですが、むこうでは違うようです。

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  • 29 May
    • 澤口たまみさん

      ここ一ヶ月、朝一時間早起きして、天気のよい日は出勤途上近所の公園に立ち寄ることにしています。ベンチに座って、朝の空気と光に触れ、時には本を読んだりします。 こんな柄にもないことを始めたのは、先日紹介いたしました澤口たまみさんの本を読んだためです。 澤口さんは岩手県にお住まいの、生き物のお好きな作家さんであり、お母さんであります。そして私たちと同じブロガーさんであります。 本書は澤口さんがご自身のブログ『たまむし日記』から60編を採択し、若干の修正を加え、一冊にまとめたものです(本書「プロローグ」より)。 『たまむし日記』のURL→http://moon.ap.teacup.com/tamamushi/ 以前ご紹介しましたように、澤口さんは生き物に対してとても優しいまなざしをもっていらっしゃいます。 これは本書のタイトル『虫のすむ家 雑草の庭』からもうかがえます。虫や雑草は、とるに足らない存在として扱われることが多い。虫が入ってきたら排除し、雑草が生えてくれば引き抜いてしまう方もいることでしょう。そんな彼らを文字通り住まわていせる澤口さんの目はどんな小さな生命もとらえ、その心は彼らのメッセージを受け取り、そして私たちに伝えてくれます。 もちろん虫や雑草ばかりでなく、そのまなざしは犬や猫、鳥、園芸植物といった私たちに近しい生物、そしてご自身のお子さんをはじめとする子供さんたち、そしてお母さん方にも及んでいます。 「虫が好き」というと「変わり者」あるいは「人間嫌い」というイメージを抱く方がいらっしゃるかもしれません。中には『コレクター』という映画を想起される方も。 確かに私は多少虫好きで傲慢な人間は嫌いですが、世の中、虫も嫌いで人間も嫌いな方もいれば、両方とも好きな方、人間好きで虫嫌いな方などさまざまで、そこは他の事物が好きな方と変わらないと思います。 ただ、失礼ながらえらそうな事を申しますが、虫も生き物である以上、虫好きな方は生き物が好きな方となるわけです。そして世間の評価として「生き物が好き」=「優しい」というのもある。ということは 虫好き=生き物好き=優しい という評価が下せるであろうことを付け加えさせていただきたい。ちょっと強引だけど。 *ここでいう虫は昆虫ばかりでなく、やまと言葉の虫、「ミミズだってオケラだって」の虫と解釈願いたい さてさて虫好きにこだわりすぎてしまいました。本書は先述しましたように虫や草の話ばかりでなく、お子さんのお話やご自身の子供の頃や若き日の話、旅行記、そして郷里岩手県の偉人である宮澤賢治のことなど多岐にわたっています。ご自身の「ずぼら」も包み隠さず書いていらっしゃる。 犬や猫を飼ったことがある方、飼ったことがなくてもお好きな方はきっと本書を読んで心温まる、また胸つまされる場面が多かろうと思います。またお母さん方は子育てや家事の描写にうなずかれることでしょう。 私が冒頭柄にもない話をしましたのは、本書に収められた賢治の話に影響されたからです。 本書4話目「光の子ども」では朝の光をあびるお庭の話から賢治の話へとつながり、そして賢治の言葉を受けて 人間の場合、光や風をエネルギー源にして、養分を作り出すことができるとすれば、それは心の栄養にほかなりません。 (18ページ) と述べていらっしゃいます。 私はこの言葉に非常に感銘を受けました。いわば「賢治流光合成」あるいは「澤口さん流光合成」と呼べるこの考えに触れたときに、陳腐な表現ですが、雪が日の光に当たったように、私の中の何かかたくななものが溶けてゆくのを感じました。 それ以来雨の降らない日には早朝近所の公園に行き、朝の空気と光に触れています。南北を大通りに区切られたこの公園は「ビジネス街のオアシス」として近所の人々にも親しまれているとか。早朝のことゆえ車も人の通りもほとんどありませんが。 私はこの公園で朝の光を浴びながら、多量の排気ガスの中辛抱して立っている木々たちに感謝し、時折通りかかる人々と挨拶を交わし――「おはようございます」という挨拶は、他のどんな言葉よりも交わしやすいものですね――時にはお気に入りの本を読みます。 『たまむし日記』もそうしたお気に入りの一つであることは言うまでもありません。

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  • 28 May
    • 井上ひさし 『井上ひさしの 子どもに伝える日本国憲法』

      子どもさんだけでなく、万人向け! 井上 ひさし, いわさき ちひろ 井上ひさしの 子どもにつたえる日本国憲法 国民投票法以来、改正するのしないのとにぎやかです。ところで「一気に改正を狙っている」という方々には失礼ですが、それは杞憂であると思います。国民投票にもってゆくまでがえらく大変ですし、国民投票になっても、過半数を得られるかどうかわかりません。 それよりも、愚かな私は、改正手順をもう少し具体的にしてほしいなんて思いますね。103条もある憲法の、どこを改正するかをどう論議するのか、その情報は国民にどう伝えられるのか。具体的にどのような投票になるのでしょうね。まさかイエス/ノーの二者択一ではないでしょう。イメージがわかないのですよ。どうも騒いでいるわリには中身がないような気がします。 103条もある憲法を、全部読んだ人はどれくらいいるのでしょうか? いや、読んでいないからあかん、いうてるわけじゃあないんです。ただ9条ばかりがクローズアップされるけれど、それは改正=9条=軍国化というプロパガンダに乗せられているんじゃないかな、なんて思います。 103条もある憲法だけど、実はそんなに長くはない。中学高校の教科書巻末付録に必ず載ってまして、それも十数ページでおさまります。しかし授業で全部扱うことはまずない。それは失礼ながら中学生には少し難解だから。 まあ、そんな訳で先回ご紹介したような書籍が出ているのですね。先回ご紹介した以外にも文庫で数冊出ています。そこでも申しましたが、そんな立派なやつでなくていい、文庫で十分。憲法は中身に権威があるのであって、変な飾り立てはそ、れこそ宗教書やレーニンや金日成の巨大な像のごとくうさんくささがつきまとう。 いたずらに神聖視するのはカルトみたいでよくないと思うのですが、、軽視するのもよくないでしょう。憲法の三原則――基本的人権の尊重、国民主権、平和主義はとても大切なものです。政治家にならなくても、日々の生活の中で心得ていなければいけないものです。だから「公民」というのですね。権利ばかりを主張する声が大きくなった昨今、特に大切だと思います。ところがその公民で憲法をすべて読むことはめったにない。週休二日になった現在ではまずないでしょう。 童話屋編集部 あたらしい憲法のはなし 『あたらしい憲法のはなし』は昭和22年、憲法公布の翌年に中学1年生の社会科副読本として旧文部省から出された本です。 これほど平明な憲法の解説書を私はまだ見たことがありません。なぜ教材からはずれたんでしょうね。 現在では写真の童話屋編集部のものが比較的簡単に入手できます。なにせ300円です。子供向けとはいえ、大人が読んでも決して損はありません。 挿絵がないものでしたら、ネットでも読むことができます。 http://www.nginet.or.jp/box/newkenp.htm 井上ひさしさんが書かれた『子どもに伝える日本国憲法』は、次の三つの部分から成り立っています。 ・憲法の原則「平和主義」を表している前文と第9条を子供むけに「翻訳」した「絵本 憲法のこころ」 ・井上さんが朝日小学生新聞に連載したものをまとめた「お話 憲法って、つまりこういうこと」 そして付録として ・日本国憲法全文 挿絵にはいわさきちひろさんの絵を用いていまして、「絵本」の部分はカラーになっています。 井上さんは劇作家であり、日本語を誰よりも大切に扱っている一人です。言葉やその周辺の文化をわかりやすく説明した本をこれまでにもたくさん書かれています。そんな井上さんが「翻訳」した憲法は実に読みやすい。 ただ第9条は翻訳というより意訳、しかも井上さんの思いがこもっていて、本来の条文より長いものとなっています。 憲法前文は崇高なものです。この部分は理念を語っているのですから、それでかまわないと思います。しかし現代人にはややこしすぎる。井上さんは本書で「格調高い、すばらしい文章だと、私は思います」とおっしゃり「声に出して読んでみてください」と呼びかけていますが、正直ここだけは首を傾げざるを得ません。致命的なのは一文がだらだらと長いこと。修飾と非修飾の関係があいまいになるし、読みづらい。原文である英文の方が読みやすいくらいです。 「お話」の方は9つの部分にわかれ、憲法の理念と、いくつかの条文について解説しています。 学校ではせっかく学ぶ機会、教える機会がありながら、なおざりにされているところでもあります。 特に「7 『個人の尊重』ってなんだろう」、「8 日本人であるということ」は必読です。 当たり前のことですが、個人は尊重されなければならない。つまりお互い他人を尊重しなければならない。これこそが民主主義の根本であると私は考えます。単に多数決でいこう、というのは数の横暴に過ぎません。そして社会科教育のもっとも大切なことであるとも考えています。 学校で歴史を学ぶのは、単にナショナリズムや自虐史観を植えつけるためではなく、もちろん年号年代を暗記するのでもなく、人間の多様性を学ぶことだと思うのです。それぞれの時代の、それぞれの生き方―成功失敗を問わずを見る。つまり他人の行いを見るのですね。そして地理は世界の多様化を学ぶのです。それぞれの地域の環境や文化を見る。歴史にしても地理にしても、自分とは異なる存在、自分たちとは異なる価値観があることを学ばなければならない。そして民主主義の根本原則である個人の尊重を学ぶ。 「日本人」という言葉はあいまいです。法的には日本国籍を持っているもの、となるのでしょうが、私たちの多くは日本に生まれ、育ち、なんとなく「日本人」をしている。 ところが井上さんは「そうじゃないんだよ」とおっしゃっています。私たちには外国に移住する自由もあるし、外国人になる自由もある。私たちはさまざまな理由から、日本に住むことを選んでいる。主体的に「日本人」をしているんだと。 そして第22条を「翻訳」されています。 ほかの人に迷惑がかからなければ 私たちはどんなところに住んでもいいし、 どんな仕事を選んでもいい。 また、親が日本人だから一生、 日本人でなければならないということもない。 (本書51ページ) ちなみに原文はこうです。 第22条 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。 2 何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。 一昔前(ふた昔前?)CMではやった「職業選択の自由、アハハン」というやつです。 言われてみれば確かに私たちは日本人であることを選んでいるのですね。井上さんにはぜひ全文を「翻訳」して欲しいなあ。 さて、主体的に日本人であるということはどういうことか、を井上さんはこう説明されています。 私たちが「もうこの国はいやだ」といって外国に移住すれば、日本という国はなくなる。私たちひとりひとりが、自分の意思で日本に住むことを決めたのだから、日本があるのだと。 *異論はおありかと思いますが、「住む国を自由に選べ」と言われれば日本を選ぶ方が多いのではないでしょうか。それは日本がすばらしいからではなく、文化や習慣、そして言語など実際の問題で。 ここは特に名文だと思います。国の成り立ちや主権在民について実にわかりやすく説いている。 本書は子供ばかりでなく、万人向けの本であります。 *先回の本をこき下ろしておいて、今回は持ち上げる。なんて一貫性のないやつだ、とお思いになるかもしれません。 あるいは井上ひさし、いわさきちひろという名前に目がくらんでいるのだろう、とおっしゃる方もいるかもしれません。 確かに私はご両人のファンであります。 しかし私は井上さんの護憲論には賛同していません。それでも憲法の理念はすばらしいものであることは井上さんと同意権です。 本書は憲法を押し付けているのでなく、わかりやすく説いている点で先回の本とは大きく異なっています。 特にネット社会で自己主張ばかりして他者を軽んじる方が少なからずいます(私もそうかもしれない)。そのような方の言葉を見るにつけ、憲法の「個人の尊重」をもっと広く知ってもらいたいと願ってやみません。 また上から口調になってしまった。。。

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  • 26 May
    • 美川圭 『院政―もうひとつの天皇制』

      私のミッシングリンクがまた一つ埋められた 美川 圭 院政―もうひとつの天皇制 私はヘンリー5世を中心に英仏百年戦争からばら戦争、テューダー朝あたりまでのイングランドの歴史を追い、機会があれば紹介しているのですが、現在ばら戦争で足踏み状態です。われわれ日本人になじみがないものをどうやって紹介すればよいかを悩んでいます。百年戦争ならジャンヌ・ダルク、テューダー朝なら「青ひげ」やトランプのキングのモデルであるヘンリー8世、『王子と乞食』のエドワード6世、カクテル「ブラッディマリー」にその名を残すメアリ1世やかのエリザベス1世と有名人があまたいるのですが、その谷間であるばら戦争は。リチャード3世がもっとも有名になるのでしょうか。彼は日本で言えば吉良上野介のように、芝居のイメージが実在を上回り、ずい分損をしている人です。 一つ考え付いたのがキングメーカー(国王製造人)という言葉をとっかかりにできないかな、ということ。キングメーカーは歴史用語であるとともに、現在でも政界や財界の実力者に使われる普通名詞でもあります。ゲームの好きな人なら『プリンセスメーカー』という作品をご存知でしょうか。このタイトルも、製作者が意図しているかどうかはともかく、キングメーカーを想起しますね。 院政。この言葉もキングメーカー同様、歴史用語であるとともに、現代でも長老政治の代名詞として使われています。 歴史上では白河天皇が譲位し、上皇となって政治を始めた1086年に始まり、以後鳥羽、後白河、後鳥羽4代の専制期(正確に言えば平清盛の傀儡であった高倉院政があって、後白河院政を中断している)、鎌倉後期の制度化された院政が続き、後醍醐天皇の親政の後は形骸化し、断続的に江戸時代まで続きました。最後の院政は尊号事件で松平定信とやりあった光格天皇の1817年~1840年です。彼は明治天皇のひいおじいさんにあたります。そう思えば、ずい分最近まであったわけです。 中学では白河が上皇となってから、高校ではその前の三条天皇の親政から、それまでの摂関政治から院政へ移行したと学びます。しかし、考えてみれば白河以前にも上皇となった人はたくさんいたわけです。上皇となれば院庁と呼ばれる、上皇をお世話する役所が作られ、何名かのお役人がそこで働きます。この院庁と「院政」の院庁とどう違うのか。また摂関家が衰退した原因が、天皇に就ける外孫を設けることができなくなったからだ、というのが一般的な説明ですが、その後も摂関は続き、大きな権力を振るっているわけです。歴史というのは人の営みの積み重ねですから、よほどのことがない限りそれは継続であり、断続ではない。教科書のような線引きは、問題をある程度明瞭に捉えることはできますが、深く考えようとすると疑問がどんどんわいてくる。 本書は、そんな疑問にほぼ完全に答えた傑作でしょう。特に白河院政を詳しく分析し、その成立過程をわかりやすく説明しています。50年近くも院政をしき、「天下の三不如意」賀茂川の水・双六の賽(さい)・山法師はどうしようもならぬ、つまりそれ以外は意のままであると豪語したと伝えられる白河上皇。望月の歌をよんだ藤原道長や「朕は国家なり」のルイ14世を彷彿させますが、果たして彼らのような権勢を誇ったのか、どうか。 結論を言えば、院政とは王家(中世日本の院政を行う上皇を家長とした天皇家を、それまでの、そして近世以後の皇室と区別して王家と呼ぶ)と摂関家の妥協の産物であり、妥協したがゆえに摂関家は勢力を減退させ、王家へと権勢が移っていったのです。 院政期の話題で避けて通れないのは荘園と武家ですが、これらも史料を丹念に追い、一般に流布したイメージとは異なる像を映し出してくれます。 摂関家への荘園の集中、普通これは摂関の全盛期、道長・頼通父子の時代がもっとも盛んであったと語られますが、実はそうではなく、院政期に王家に対抗するために荘園の集中が始まり、王家、摂関家による荘園争奪戦みたいなものが行われていたそうです。 鳥羽以降の記述は、残念ながら事件を追うばかりといった観がいなめませんが、それでも保元・平治から平家の政権には、一般に流布した軍記物のイメージを覆す解釈が施され、非常に興味深いものです。 土地制度、王家、公家から見た武家政権の成り立ちが語られ、自分が今までいかに軍記物やそれを題材にした解説書、小説、ドラマなどに影響されていたかがわかり、正直恥ずかしかったです。 特に私の印象に残ったのは清盛の福原遷都です。 通常平家政権の失敗は平家の公家化、摂関家の猿真似で語られることが多く、頼朝は在地武士の利益を代表する存在に徹したから「新しく」、清盛はそれらを考慮しなかったから「古い」とされています。 実はこの見解には長年疑問を抱いていました。いつか詳しく語りたいのですが、簡単に言えば、結果からのやや強引な見解ではないかなと思っていたのです。 本書はそのような私の長年の疑問に答えてくれた本であり、また、私にとって長年不明であった摂関から院政へのミッシングリンクを埋めてくれた本であります。 そして物事は常にいろいろな角度から見なければいけないという大切なことを痛感させてくれた本でもあります。

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  • 25 May
    • 「写楽」編集部 『日本国憲法―ピースブック』

      日本国ハ神聖ニテ不可侵ナル憲法之ヲ統治ス 「写楽」編集部 日本国憲法―ピースブック 本書はルビつき大活字の憲法全文と合間合間にきれいな写真を載せ、付録に英訳憲法と大日本帝国憲法をつけたハードカバーのきれいな本です。 憲法に親しみやすい配慮がこらされています。 改憲護憲騒がしい中、憲法に目を通すことは有意義なことでしょう。 しかしながら、申し訳ないのですが、私はこの本を読んで居心地の悪さを感じました。 「日本国憲法ってすばらしいんだよ」 奇麗事を子供に押し付けるような、と言えば言いすぎでしょうか、そんな姿勢が何とも気持ち悪い。 聖書の言葉(聖句)を親しみやすい現代語で表現し、写真とともに載せた本がありますが、それを想起しました。写真の質がなんとなく似通っているからでしょう。もちろん写真はきれいなものです。 でも憲法と聖書は違うんじゃないですか? 聖書は、科学的でなく宗教的な解釈ですが、一言一句変わることなく、はるかなる昔から現代まで続いています。 しかし憲法は、いくら最高法規であるとはいえ、人間の作ったものに過ぎません。聖書やコーランなどの聖典は一言一句不変で結構ですが、憲法がそれじゃあ困ります。96条に改正の手順が明記されていますから、不変にこだわるのは違憲であると解釈できないこともないわけです。 さらに。聖書やコーランは朗読、時に暗誦するために、語句が洗練された名文であります。アラビア語で詠唱されるコーランを聞いていますと、意味はわからなくとも心に染みるものがあります。聖書(原文は旧約がヘブライ語、新約がギリシャ語ですが)も、英語ではキングジェイムズバージョン(欽定訳)、日本語では文語訳がしばしば文学などで引用されます。 ところが日本国憲法はそうではありません。むしろ悪文ではないか、という意見もあります。皆が知っておかなければいけない大切なものならば、少なくとも義務教育を終了した人間ならすらすらと読めなければならないのに、ややこしい表現が多い。聖典も難解な文章ですが、こちらは独特のリズムがある。憲法は聖典ではないですから、詠唱できなくてもよいでしょうが、恣意的な解釈ができるような余地が多すぎる。 私はここで憲法の中身を云々しているのではありません。憲法を神聖視するかのような風潮や、この手の出版に居心地の悪さを感じているのです。 憲法は改正されるものだということをまったく考慮しない装丁の出版物だからです。 ちなみに日本国憲法は大日本帝国憲法に明記された改正の条項に従って改正されたものです。押し付けかどうかはともかく、法的手続きをきちんと踏んでいます。 ですから、同様に現憲法がいつ改正されても、決しておかしいことではありません。 (どこをどう改正するか、あるいは改正しないかということは別として) 童話屋編集部 日本国憲法 憲法に親しむのならこちらの本がずっと優れています。値段が安く、小型で荷物にならず、どこでも広げられる。寝転がって読むこともできる。もちろんこちらもルビつきで、活字も大きく、読みやすいです。 *「憲法は国民に向けて書かれたものではない」という解釈もあります。国民向けではなく、国家権力をしばるために書かれたという意味です。 *個人的な意見を述べれば、憲法100条~103条、「補則」はいらない。というより、なぜ憲法に盛り込んだのかがわからない。旧体制から現憲法への暫定処置が書いてあるだけのものですから。しかしこれらを削除するのにも96条の改正の手続きを踏まなければいけないので、ずっとそのままにされています。 日本国憲法 補則 第100条 この憲法は、公布の日から起算して6箇月を経過した日から、これを施行する。 2 この憲法を施行するために必要な法律の制定、参議院議員の選挙及び国会召集の手続並びにこの憲法を施行するために必要な準備手続は、前項の期日よりも前に、これを行ふことができる。 第101条 この憲法施行の際、参議院がまだ成立してゐないときは、その成立するまての間、衆議院は、国会としての権限を行ふ。 第102条 この憲法による第一期の参議院議員のうち、その半数の者の任期は、これを3年とする。その議員は、法律の定めるところにより、これを定める。 第103条 この憲法施行の際現に在職する国務大臣、衆議院議員及び裁判官並びにその他の公務員で、その地位に相応する地位がこの憲法で認められてゐる者は、法律で特別の定をした場合を除いては、この憲法施行のため、当然にはその地位を失ふことはない。但し、この憲法によつて、後任者が選挙又は任命されたときは、当然その地位を失ふ。

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  • 24 May
    • 小林多喜二 『蟹工船』

      プロ文の傑作 小林 多喜二 蟹工船・党生活者 小林多喜二と『蟹工船』は、プロレタリア文学の代表として国文学および日本史の教科書に必ずと言ってよいほど載っています。恐らくほとんど全国の中学生・高校生の目に触れ、耳に入っている名前です。 そしてその際作品よりも多喜二の生涯が、正確に言えば多喜二の思想と死がいつも語られています。 こばやしたきじ 【小林多喜二】(1903-1933) 小説家。秋田県生まれ。「1928 年 3 月十五日」でプロレタリア文学の旗手として登場。「蟹工船」「党生活者」など労働運動・革命運動の現実を書いた。地下活動のさなか、官憲の手で虐殺された。 [ 大辞林 提供:三省堂 ] 作家の生涯が作品と絡めて語られることはよくあります。太宰治や三島由紀夫など、その生涯や思想が好んで語られる作家ですね。それでも彼らはたくさんの著作があり、作家=作品というとらえ方はされない。それが多喜二の場合、若くして死んだことから著作がすくなく、また共産党活動をしていたこと、そしてセンセーショナルな死とあって、作品を独立して語られることが少ない。かく言う私も色眼鏡で見、相当敷居の高い作品だと思っておりました。 高校時代にはとてもじゃないが読む気にならず、初めて読んだのは大学を出てからです。 「プロ文(プロレタリア文学)のプロはプロパガンダのプロだ」 なんてうそぶく友人もおりました。かの太宰治も、プロレタリア文学を評して 「無理な、ひどい文章だ」 と語ったことがあります。 (太宰の指摘はまことにごもっともなのですが、彼自身党活動を支援し、転向してしまった。彼にとっては活動支援というのはファッションのようなもので、このせりふの背景にはそういった自分を恥じる意識があるのだと、勝手に思ってます。) 確かに主義主張を押し出すあまりに、人物描写、場面描写が形骸化することはよくあります。現在でもそのような書籍が多く見られます。 しかし作品を読まずにあれやこれや言うことのなんとむなしいことか。太宰は作品を読んでの発言ですが、太宰ファンだった高校生の私は、太宰の文学評を聞いて、食わず嫌いになっていたのです。一度でも本作を読めばそれがいかに愚かなことであるか、はっきりとわかります。 本書はプロ文の本来の特質である現実主義に徹した文学です。実際にあった事件をもとに、新聞社に勤めているという立場を活かして十分に取材し、ただ単に事実を羅列することなく、劣悪な労働環境にいる人々を見事に描いています。これは共産主義をうたった作品でもなければ、資本家や当時の支配層を告発した作品でもありません。人間を描いた作品です。 タイトル通り蟹工船「博光丸」――オホーツク海に蟹漁に出向き、水揚げし、船内の工場で缶詰に加工する船が舞台であり、登場人物の全天地となっています。さまざまな事情から期間労働者として集められた人々は「糞壷」と呼ばれる狭い空間に住居し、会社の代表である淺川監督から文字通りこき使われ、リンチされ、生きながら殺されつつあります。主人公といえる中心的なキャラクタはおらず、時折名前が出てくるものの、それで識別できるような人物は監督である淺川意外は皆無といってよく、糞壷に住居する群集全員が主人公といってよいでしょう。 資本家の手先(なんて書くとプロパガンダ文学めいてますが)である淺川たちは船の上層で清潔かつ豊かに過ごし、労働者達は船の下層で不潔に暮らしています。その不潔さや、彼らの無学さも無骨な文体でリアルに描かれています。また彼らの交わす会話を通じて、当時の工場や鉱山での様子も語られます。 私は本作以前に夏目漱石の『坑夫』――これは漱石には珍しくドキュメンタリータッチの作品なのですが――を読んだのですが、それが牧歌的に思えるほど、悲惨な状況が語られています。 夏目 漱石 坑夫 *とはいえ、決して『坑夫』は牧歌的な作品ではなく、これはこれでシビアな内容です。また朝日新聞に移る前の漱石はしばしば社会問題を取り扱った作品を書いております。 正直申しまして彼らの不潔さと無学、そして無知には時折軽い嫌悪を感じます。 何の楽しみもない彼の性欲というのも大変であって、雑夫として乗り込んでいた少年達を、お菓子などでつってその捌け口にするなど、読んでいてやるせない場面もいくつかあります。淺川を恐れ憎みつつも、アメとムチを使い分ける(といってもムチが圧倒的なのですが)手法に簡単に乗せられる。護衛として付き従う海軍の駆逐艦、そこに掲げられる日の丸。それらを見て頼もしさを感じたりする純朴さも持ち合わせている。つまり彼らは私達と変わらぬ人間なのです。 私が彼らに軽い嫌悪を覚えるのは、私が清潔かつ健康的な環境に充足しているからであって、現在でも劣悪な環境で働いている人は少なくないでしょうし、そのような人々の有様は本書の彼らとそう変わりはないでしょう。 私達は本書に何を見るか。プロ文とか、共産主義とか、各種お題目を取り払って何を見るか。 そのような意味で本書は文学を読むとはどういうことかをも私達に教えてくれる作品です。

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  • 23 May
    • 谷川流 涼宮ハルヒシリーズ

      角川に望むこと (各画像がアマゾンへのリンクです) シリーズとして現在出ている9巻までを読みました。 受賞作である1作目『涼宮ハルヒの憂鬱』に比しうるのは、4作目の『涼宮ハルヒの消失』くらいでしょうか。ただこれもSFでは定番のネタ、人気の仕掛けを用いているのですから、個性あふれる1作目には及びません。 正直に申しましてシリーズ化は無理があったと思います。量産できる作家さんではないと思います。 これは私の想像ですが、谷川さんには初め続編の構想はなかったのではないでしょうか。1作目の終わり方からも、主要人物の一人である古泉一樹(こいずみ・いつき)の設定からもそれがうかがえます。かわいそうに彼は2作目以降はいてもいなくても同じ扱いとなりました。 かつて(現在も?)少年漫画の格闘もので、敵の強さのインフレという風潮がありました。主人公の成長にしたがって、敵がどんどん強大化してゆくのです。そしてかつての敵は仲間となり、強くなった主人公の前座に落ちぶれるというパタンもよく見られました。 古泉に与えられたポジションがまさにそれで、2作目以降は単なる解説役に落ちぶれてしまいます。9作目まで見ても彼の活躍の場はほとんどありません。無理なシリーズ化の最大の犠牲者が古泉でしょう。 また漫画との比較になってしまいますが、人気作がその人気ゆえに連載を終了できず、ずるずると長引く例が過去現在たくさんあります。このハルヒシリーズもそんな印象を受けます。受賞作である1作目、これは秀作でなかなか面白いのですけれど、それを大々的に売り出し、かつ長期的な売り上げを確保するためにシリーズ化をする。そのためにどんどん内容が薄くなってゆく。 私は、谷川さんは短編向きの作家さんだと思います。ファンの間で評価の高い4作目『涼宮ハルヒの消失』にしても、分量的には1作目よりも短く、この作者の欠点である冗長な表現を削れば中篇となるボリュームです。 短編は秀作と駄作が入り混じっています。これも無理な量産のためでしょう。ネタがなくただキャラクタのどたばたを描いているものも少なくありません。シリーズの後半になればなるほどだれた表現が目立ち、読むのがつらくなってきます。 1作目のキャラクタ設定が破天荒なゆえにキャラクタに人気が出、それゆえに同じキャラクタを使わざるを得なくなった。これは不幸なことではないでしょうか。 角川に望むことは、無理な量産を強いて才能をすり減らすのではなく、じっくりと育てること。 安易なキャラクタ人気に頼ることなくストーリーで勝負してほしいことです。 今回かなりえらそうなことを書きました。不快に感じる方がおありかと思いますが、私なりの愛着の表れということご了承を。

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  • 16 May
    • 谷川流 『涼宮ハルヒの憂鬱』

      キョンと言っても鹿の仲間のキョンではありません 谷川 流, いとう のいぢ 涼宮ハルヒの憂鬱 諸書によれば「おたく」という言葉はコラムニストの中森明夫さんが1983年に使ったのが最初だそうです。その定義は人によってかなりの幅がありますが、最大公約数的なものを述べれば 俗に、特定の分野・物事を好み、関連品または関連情報の収集を積極的に行う人。狭義には、アニメーション・ビデオ-ゲーム・アイドルなどのような、やや虚構性の高い世界観を好む人をさす。 ・ 漫画― 〔補説〕 多く「オタク」と書く。二人称の「おたく(御宅)」を語源としエッセイストの中森明夫が言い始めたとする説が有力。1980 年代中ごろから用いられるようになった →マニア [ 大辞林 提供:三省堂 ](下線引用者) ということになりましょうか。異論は多々あると思いますが、普通の辞書に載っている解釈ですので、ご年配の方々を含めた一般的な見方ではないかと思います。 そして事象は言葉に先行するものであります。ならば、ガンダムの第一作を題材にした漫画を読めば当時の声優さんの声が脳内で自動再生される私は、オタク第一世代といってもよいでしょう。私の周囲の人間も同じ解釈のようです。 ところがいつの間にか私は時代に取り残されておりました。 「萌え」という言葉に拒絶反応をし、アニメ絵を見れば避けて通るようになりました。簡単に言えば若いオタクさんたちと話が合わないのです。アメーバーヴィジョンなどに投稿されているその手の動画も苦手です。 これではいかん。なんとか社会復帰せねば。 なんてことを思いましてね。「社会復帰」という言葉がふさわしいのかどうかは怪しいのですけれども、本当にそう思ったのだからしょうがありません。 アニメ絵に拒絶反応があるというのは損なことです。表紙やイラストが漫画チックなものが多くなって久しいのですから。見た目で判断してしまうと、名作傑作を逃してしまうことに。 とうことで今話題の(と書いてる時点で私は遅れているのか?)『涼宮ハルカの憂鬱』を入手。初めてライトノベルというものを読みました。 ライトノベルがオタク文化に属するかどうか、これまた多々意見がありましょうが、imidas等でそのように分類されているので世間一般にはそうなのでしょうし、私もそう感じます。 ライトノベル ラノベと略される。漫画・アニメ調のキャラクターをカバーイラストや挿画に用い、その魅力が商品力の少なからぬ部分を担っている小説のこと。漫画・アニメ・ゲーム分野の潮流をくみ、そのような人物設定や世界観を用いているところに内容的な特徴がある。 (中略) ラノベは一般の文芸に対して低く見られているが、ラノベ出身の直木賞作家も数人出ている。 〔imidas2007より 下線引用者〕 実にわかりやすい説明であります。欲を言えば「ラノベ出身の直木賞作家」を挙げていればもっとわかりやすかったでしょう。 そして下線部の観点からすれば、本作はまさしくライトノベルの王道を行っていると言えるでしょう。漫画・アニメ・ゲーム。その中でも特にゲーム、それもいわゆる美少女ゲームをやったことがない方、あるいは苦手な方には本書は読みづらいかもしれません。ええと、私はそれらに抵抗がないので十分楽しめましたよ。 ヒロイン涼宮(すずみや)ハルヒと語り手であるキョン(これはあだ名で、本名は最後まで不明です)のキャラクタになじめるかどうかが大きな分かれ目です。 ハルヒは本文でも書かれているようにはなはだエキセントリックな性格で、幼稚かつ自己中心的であります。加えて美人(本作の女性キャラは全員美少女なのですが)。実はこの手のキャラクタは決して特殊ではなく美少女ゲーム定番です。 対するキョンは受動的。周囲の状況に心中突っ込みは入れます――それもかなり饒舌な突込みを入れますが、ハルヒの行動に振り回されてばかりで、主体的に行動することは滅多にありません。実はこれもゲーム世界では普遍的なのです。ほとんどすべての美少女ゲームに共通しているといってもよいのですが、プレイヤの分身である主人公はゲーム世界の中で女性キャラクタの言動を受けて自分の言動を選択してゆきます。女性キャラの行動を待たねば物語が進まないからであります。(これまた異論はありましょうけれども) キョンはまさにゲームの主人公的なニュートラルなのです。その無個性さゆえに語り手となりうるのです。地の文における彼の饒舌さもゲーム世界そのままで、ゲームでは主人公の一人称視点で語られることが多く、周囲の状況に一人で突っ込み(時には一人でボケとツッコミの両方をやることも)ます。 本名が不明だというのもゲームの主人公と同じ無個性さを象徴しています。 キョンの、ひいては物語のゲーム的性格がもっとも顕著にあらわれているのはその会話においてでしょう。 彼の台詞はしばしばカギ括弧でくくられずに書かれています。しかしそれが心の中のつぶやきかと思えばそうではなく、他の人物がちゃんと言葉を返しています。 作者が意識的にしたことなのか、はたまた無意識なのかはわかりませんが、この仕掛けはすぐれてゲーム的であり、ゆえにゲーム世代の読者は物語に引き込まれてゆくのです。 本書の評価が二つに分かれるのもこういった物語の性格にあります。 私は他のライトノベルを読んだことがないのでわかりませんが、実は上記の事柄はライトノベルには多く見られるものなのかもしれません。たとえそうであるにせよ、すぐれた仕掛けであることには変わりはありません。 物語の前半はお約束なキャラクタがお約束なドタバタを演じて過ぎてゆきます。ハルヒとキョン以外のキャラクタも美少女ゲームに出てくるものばかりなので、作中でハルヒ自身がそのようなキャラクタを集めた(あるいは集まった)と言っており、ここでも自己突っ込みが見受けられます。正直私には前半はつらいものでした。このままダラダラで終わるのならば、私のオタク社会復帰は無理だろうと感じましたね。 ところが後半で物語りは変貌を遂げます。そのゲーム的な性格は相変わらずなのですが、主役、つまり主体的なキャラクタであるハルヒの立ち居地がまったく反対になってしまうのです。彼女の性格は相変わらずのままなのに、です。クライマックスでは彼女が狂言回しであったこと、ゲームでいうところのプレイヤの位置であったことがわかり、逆にキョンが登場人物物語を引っ張るのです。 この逆転が本作のスニーカー大賞(角川主催のライトノベルを対象とした文学賞)を受賞した理由であり、人気の理由でしょう。 そして見事なことに世界観が逆転してもそのゲーム的性格は変わらず、むしろ強まっているのです。 これはアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』あたりから描かれてきたのですが、観察者のいない世界は存在が不確か(かもしれない)であり、観察者の中心である自己が認識しうる世界が現実であるというもの。世界の中心は自分であり、自己の変革により世界が変わるというもの。 ゲームはまさにそうですね。ゲーム世界に存在するすべてのキャラクタ、すべての施設はプレイやの分身である主人公のために準備され、主人公次第で変わってゆく。このように申しますと先述した受動的な主人公キャラクタと矛盾していると思うかもしれませんが、主人公は世界を観察し、それを受けて行動し、その主人公の言動で世界も変わってゆくということです。 私はネットゲームをやったことがないのでわかりませんが、一人でやるロールプレイングやアドヴェンチャー、シミュレーションゲームではそうです。 本書がアニメ化され深夜枠で放送、そこで大きな人気を得たのは、上記imidas定義での優れたライトノベルの証明でしょう。

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  • 10 May
    • 金城模 『マンガ 嫌日流』

      *お断り 今回の記事に関しては複数の方に内容が適切かどうか判断をお願いしております。それゆえ内容の変更または記事全体を削除する場合もあります 内容をあれこれ言う前に、出版社に問いたいことがたくさんある 金 城模 マンガ嫌日流 今回はレビューではありません。本書の内容はアマゾンや他のブログ等で多くの方がレビューを書いておられる。しかし、私には内容よりもなんで本書を出版したのかが問題だと思うのです。 扱うのはマンガ。マンガは別ブログで語っているのですが、本書は以前扱った『マンガ 嫌韓流』に関連したものなので、こちらにも載せました。 本書の出版元は『マンガ嫌韓流』と同じ晋遊舎。てっきり『嫌韓流』のブームに便乗した他社からの出版だと思っていましたので、びっくりしました。 本書の最後に「出版社からのお知らせ」として、出版理由が書かれています。少し長くなりますが、以下に全文引用いたします。 出版社からのお知らせ 最後まで本書にお付き合いいただきまして、ありがとうございました。読者の皆様はどのような感想を持たれたでしょうか? いろいろなご意見があると存じますが、まずは「事実誤認が多すぎる」と思われたのではないでしょうか? 事実、本書で紹介されている「歴史の事実」は、明らかな誤りや勘違い等が散見されます。事件や出来事の解釈も、日本人の感覚からは受け入れ難いものばかりといっても過言ではないでしょう。 「ではなぜこのような本を出版するのか? いったいどんな意義があるのか?」と疑問に思われるかもしれませんが、小社は次のような理由で本書の出版を決意いたしました。 キム氏は本書の第1話でも述べているように、『マンガ嫌韓流』を読んで、その反論として『嫌日流』を描いたと公言しています。他の日本の出版社がどこも扱わないのであれば、『マンガ嫌韓流』を出版した小社が引き受ける「義務」があるのではないか、韓国側にも反論の機会を与えるべきではないかと考えました。また一般の韓国人がどのような歴史観、対日観を(誤った認識を含めて)持っているのかを知る上で、またとないテキストになりうるのではないか、とも考えて最終的に本書の出版を決断しました。本書が読者のみなさまの日韓関係に対する理解をより深めていただくきっかけに、さらには日韓友好の一助となれば幸いです。 株式会社 晋遊舎 (『マンガ 嫌日流』291ページより 下線引用者) 確かに私も読んでいて正直申しまして不快に感ずる部分はありました。 しかし繰り返しますが、本書の内容云々は問題ではありません。日本にも歴史事実を誤認した説もあり、本もあります。どんな内容であろうと主張するまたは出版するのは自由です。 私は本書の内容よりも本書を出版した晋遊舎に不快を感じざるを得ません。 確かに『嫌韓流』の派生物ではあるでしょう。しかしあえて出版する必要を少しも感じません。本書の内容すべてが韓国人の多数意見かどうかがまずわかりません。先述したように韓国、日本、中国、アメリカ、ロシア、、、どこの国でも唯我独尊的ナショナリズムの主張・書物は存在するのです。 もし韓国人の多数の意見を本書が反映しているとしても、出版する意義をかんじません。引用部に書かれているように、本書の内容はお粗末なものです。「反論の機会を与える」のであれば、もっと上質なものを紹介すべきでしょう。 あるいは著者である金氏が出版を打診してきたのかもしれません。それでもこのような紹介のされ方を著者が望んだでしょうか。 *誤解がないように書き添えますが、最終ページ以外はおそらく手を加えずに出版されています。明らかな事実誤認に対しては欄外に註をつけていますが。 著者はわざわざ「日本版特別あとがき」といいうマンガを書き下ろして最終章として付け加えているのです。主張の是非は読者が決めることで、わざわざ出版社からお知らせしてもらわなくても結構です。この日本版を、「出版社からのお知らせ」を、著者は、そして韓国の読者はどう思うでしょうか。 本書に対する正直な感想は、『嫌韓流』の縮小再生版である、というものです。 ですから『嫌韓流』の欠点が如実に出ております。 かつて私の友人に、このような暴言(?)を語った者がおりました。 「推理小説なんて所詮はフィクションさ。犯罪トリックを考えるのも作者なら、それを暴くのも作者。最初から犯罪者と捜査官が馴れ合っているのさ」 確かに皮肉な見方をすればそうでしょうね。だからと言って創作の苦しみが減るわけではありませんが。 『嫌韓流』、本書、その他類書の内容ははまさにこの友人の言う「なれあい」です。作中何度も議論がなされますが、反論する側も作者が書いているのですから、結果はおのずから決まっているのです。きつい言い方をすれば自論を補強するためのまやかしの議論に過ぎません。 誤解しないでいただきたいのは、「だからだめだ」と申しているのではないのです。自作自演の反論であれ、調べられる限り公平に描いているのでしょうから。 しかし読者が本書を読んで嫌悪感を覚えるとすれば、それは『嫌韓流』にその責任があるのです。同じ手法でやり返されたのです。その質の高低の差はあるでしょうが、同じ手法なのです。 つまり、私が言いたいのは、出版するのであれば著者と出版社側の、あるいは著者と『嫌韓流』の著者との対談を設けるなど他の方法でなすべきではなかったか、と言うことです。 今回の出版は失礼ながら出版社の自己満足、一部読者への迎合としか感じられません。

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  • 09 May
    • 武田邦彦 『環境問題はなぜウソがまかり通るか』

      最大の欺瞞は「地球に優しい」「環境に優しい」というコピーだろう お詫び 今回は特定人物のマイナス評価をしております。このような姿勢、話題がお嫌いな方は「続きを読む」をクリックしないでください。 最近言い訳ばかりだなあ…… 武田 邦彦 環境問題はなぜウソがまかり通るのか なんとも刺激的なタイトルであります。環境保全というのは今や人類の最大課題の一つといってもよいでしょう。個人から市町村、国家、はては国際スケールにいたるまでさまざまな取り組みがなされています。そういった流れに警鐘を鳴らすタイトル。思わず手に取ってしまいました。 実を言えば私はこのような姿勢には常に好意を抱いております。世の大勢にかかわらず自分の正しいと思うところを主張するというのは勇気と忍耐がいるところであります。例えば凶悪犯罪が起こるたびに罰則の強化が叫ばれますが、それに動ずることなくずっと死刑反対を訴えている方、逆にマスコミなどのバッシングにあっても被害者遺族の気持ちを訴え続ける方。立場は異なれ、一事の風潮に流されることなく辛抱強く活動を続けてゆくさまには尊敬の念を抱かずにはおれません。 かつて日本が真珠湾を攻撃し、アメリカ世論が一気に開戦やむなしに傾いたときにもあくまで戦争反対を訴えていた人々がおりました。彼らの主張の是非はともかく、反対意見が主張できることは民主主義の根本原則であり、反対意見に耳を傾けることもまた民主主義社会の大切な原則なのではないでしょうか。 しかしこの本を読むのには苦労をしました。私が環境保護を推進しているから、読みたくなかったのではありません(私は観光保護推進派でも反対派でもありません。個人的にごみが増えるのがいやで、それなりに工夫しているだけです)。読解力が不足しているのかもしれませんが、ともかく読みづらいのです。 アマゾン等のレビューで高い評価を受けていますが、私にはそうは思えません。 *アマゾンのレビューでも低い評価がいくつかありました。最初に表示される、最新5件だけを見て判断していました。申し訳ありません。ですから皆様も本書のレビューをチェックされるには、すべてに目を通すのがよろしいかと思います。 著者の武田さんがこの本で主張されたいことはタイトルどおり。 しかし、こうした地球にやさしいはずの環境運動が錦の御旗と化し、科学的な議論を斥け、合理的な判断を妨げているとしたらどうだろうか。環境活動という大義名分の下に、人々を欺き、むしろ環境を悪化させているとしたら――。 (本書3ページ Introductionより) そしてこの問題定義通り、国家や企業は「環境活動という大義名分の下に、人々を欺き、むしろ環境を悪化せせている」ことを、ペットボトルのリサイクル、ダイオキシン報道、地球温暖化問題など個々の例を挙げ、説明されております。マスコミの報道が偏っており(あるいは不正)、特定企業・団体に利益を誘導するシステムになっており、既得権を守るために政府は法を作り、国民を欺いているというのです。 まことにショッキングなことです。私たちが善意から行っている行動のほとんどが騙されている、踊らされているというのですから。 さて読者である私たちの多くは素人であります。専門家である武田さんがおっしゃる事にうなずかざるを得ません。武田さんも素人である読者のためにわかりやすく図表や例を挙げて、説明を試みていらっしゃいます。 私が読みづらさを感じたのは実にここなのです。それほど多くはないのですが、図表のいくつかに出所が記されておりません。たしかに私たちは素人ですが、重要なデータは検証したいと思う方も出てくるでしょう。だのにいくつかでそれができないのです。もっともひどい例はごみの分別をやめた地方公共団体の紹介で、「長崎県の海沿いにある伝統のある市」としか書いていない。なぜはっきり書いていないのでしょうか。理解に苦しみます。またグラフの読み取りが明らかにおかしな記述がいくつかあります。そして例やたとえになるとわかりづらく、これはおかしいな、と思わざるを得ないのがかなりあります。 どうやらかなり思い込みの激しい人物らしいぞ というのが私の武田さんにたいする正直な感想です。 例を挙げましょう。 JR東海が流した 「東京と大阪間を飛行機で行くのに対して、新幹線を使えば二酸化炭素の発生量が10分の1になる」 というテロップの欺瞞を暴くのに、こう説明されています。 確かに単純な燃料消費なら10分の1になるだろうとした上で、しかし新幹線はレール、橋、トンネルなどの設備設置および維持、安全点検のために人件費等費用がかかるとして、欺瞞であると結論付けているのです。 ここで武田さんはJR東海の欺瞞を暴くという正義感に燃えすぎで、航空機にも同じように設備設置と維持、安全点検の費用がかかることを忘れてしまっています。これはあまりに片手落ちというものです。 これは武田さん、および彼の著作を読んだ方々の主張する「指定ごみ袋、マイバッグの方がレジ袋より環境に負担がかかる」にも言えます。これも上記のように本書には文章の記述だけですまされています。しかし、素人の私が考えても、レジ袋がすべてごみ袋として再利用されるわけではないのですから、一枚当たりの資源消費、製造コストなどの安易な比較では結論の出るものではないでしょう。 本書ではいくつか大切なことも書かれております。例えばペットボトルのリサイクルの現状、ダイオキシン騒動における報道の無責任などは私たちも十分注意すべきでしょう。 それでも武田さんの思い込みの激しさゆえに、踏み込みが足りないものもまたかなりあります。 地球温暖化にたいしては 「北極・南極の氷がとけ、海面が上昇する」 という報道および世間の思い込みに過剰に反応しすぎています。確かに北極の氷がとけて水面が上昇することはない。私はそのような報道がされたこと、そう信じている人が多いことは知らなかったのですが、例として引いている朝日新聞の紙面こそ小さくて見えないものの、年月日を明記しており、また武田さん自身の教え子さんの例も書かれておりますから、そうなのでしょう。しかしそれをいつまでも引っ張りすぎなのです。さきほどの新幹線の例と同じで、そのことばかりを問題視する。せっかく 「南極周囲の海面は年々低下している」 という事実を国際機関のデータを示しながら、科学的にわかりやすく説明しているのに、それを発展させることなくデータ提示で終わっている。あまりにも中途半端。このように読者自身が危機感を感じる重要問題は中途で放り出し、わかりきっている世間の誤解をくどくど繰り返されたのも、読むのをしんどくさせたのです。 結論を言えば、本書は見るべき主張はあるものの、全体としてトンデモ本といわざるを得ません。 そして残念なことに、本書はある人々の錦の御旗と化しています。おそらくこれは武田さんの本意ではないでしょう。 本書は各種ある仮説の一つに過ぎないのです。

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  • 03 Apr
    • すばらしい女性を見つけた!

      春です。まだ冷たい風が吹き、冷え込みもしますが、春が来ました。 野に山に美しい花開く季節。 なんてがらにないことを書きましたが、俺は草花の名前はほとんどわかりません。 『シートン動物記』『ファーブル昆虫記』は読んだけれども、「~植物記」というのには出会わなかったなあ。 好きな花は? ときかれたら 「ラフレシア」 と答えています。 ラフレシア【(ラテン)Rafflesia】 ヤッコソウ科(ラフレシア科)の植物。ブドウ科植物シッサスに寄生し、葉はなく、花は世界最大で直径約1メートル。花びらは5枚あり、多肉で黄赤色。開花すると悪臭を放つ。雌雄異花。東南アジアのジャングルにまれにみられ、1818年に英国のT=S=ラッフルズが発見。 [ 大辞泉 提供:JapanKnowledge ] 「悪臭」というのは腐肉のような臭いで、花の色もなんとなくそんなイメージですね。その臭いで花粉媒介者であるハエをおびきよせるのだそうです。 なかなかインパクトのある花です。 こんなふざけた答えをするのは、「花の名前をあまり知らない」というコンプレックスゆえ。ですから花に詳しい人には尊敬してしまいます。花屋にいくといつも店員さんにいろいろな名前を教えてもらってもいます。 椎名 誠 蚊學ノ書 話はすこし変わるけれど、ぼくは草や花の名前を沢山知っている女性と野道などを歩くとドキドキする。 「あっ、うれしい。あそこにヒメオドリコソウがありますわ。ムラサキケマンとハルノノゲシもある。本当に春なのねえ……」 などと言いつつ野道を歩いていく女性というのはいかにもひたむきな日本の女、というかんじがして魅力的である。 (椎名誠『蚊學ノ書』29ページ) まったく同感であります。花に詳しい男性と野山を歩くとただただ感心しますが、女性と歩くとドキドキしてしまうのであります。 その伝でぼくはせめて蚊にくわしい男になりたいと思っているのだ。 「あっ、いまここのところを刺しているのはセスジヤブカですよ。あっ、その隣にきたのがネッタイシマカでこれはデング熱の仲介をするというので恐れられています。いやあしかし本当に夏が来たんですねえ……」などというのもなかなか個性的で男らしいではないか。 (同書29、30ページ) これまた大いに同感です。蚊でなくとも、野山にある何かに詳しくなりたい。名前を知れば、そのものたちとの距離が縮まり、自分の世界が広がるではないですか。普段は見向きもしない雑草でも、たとえばオオバコとかギョウギシバなど、名前を知ると見る目が違ってくる。 俺は蚊には詳しくなく、アリやハチなら次々と名前を挙げることができるのですが…… 「あっ、今あなたが踏みつけそうになったのがクロオオアリですよ。その横のやや小さいのがクロヤマアリ。あなたがさっきもたれかかった木にはトビイロケアリがいましたよ。小さいから首筋から入ったのにお気づきにならなかったでしょう。春が来たんですねえ……」 ではロマンがないではないか。個性的ではあるが、男らしくはない。 ロマンや男らしさ、女らしさはともかく、春になるとたくさんの虫が出てきます。 小さな子供さんは虫や花が好きです。甥っ子が小さいころ、散歩に連れてゆくたびにタンポポやダンゴムシを 「お母さんにおみやげ!」 とポケットに詰め込もうとするので苦労しました。 「ポケットに詰め込んだら、潰れてしまうがな。手に持っときなさい。それはダンゴムシとちゃう、ワラジムシ。くるっと丸まらへんやろ? 虫は逃がしてやろうな。こんどちゃんとケースを持って来よう」 しかし母親とは偉大なものですね。甥っ子が持ってくるそれらの「おみやげ」を 「ありがとう~」 と笑顔で受け取る妹。ダンゴムシだろうがミミズだろうが平気で受け取ります。昔はキャーキャー言ってたのにな。 月刊 かがくのとも 2007年 04月号 [雑誌] ここに出てくるお母さんはすごい! 小さなみなちゃんが庭で見つけた虫の名前を次々と教えてくれるんです。 ダンゴムシにワラジムシ、ゲジ、ヤスデ、ハサミムシ、アゲハの幼虫……。 ジクモを恐がるみよちゃんに 「へいきよ、 おかあさんが ちいさかったころは こうして てのうえに クモを のせて あそんだのよ」 (12ページ) とおっしゃる。すごい! すばらしい! 椎名さんではないが、こんな女性と野山を歩いたらドキドキしてしまいます。 いや本を読んだ時点ですでにドキドキでした。いいなあ。こんな女性と暮らしたいなあ。俺はアリとハチだけなんだけれどね。 著者は澤口たまみさん。応用昆虫学専攻。付録のブックレットにお写真がありましたが、きれいな方です。 俺も子供のころはよく虫をとってきて、誉められたり叱られたりしたものでした。 今でも忘れられないのは、コカマキリの卵を取ってきたはいいが、しまいっぱなしにして、そのうち忘れてしまって。春になって壁一面に孵化したばかりの小さな小さなカマキリたちがびっしりと並んでいたこと。掃除機で吸い取る母に泣きながら抗議したものです。もちろん抗議は無視され、小さな命を奪う結果になった管理能力のなさを怒られました。そうです、虫を持ち込んだことを怒られたのではなく、放りっぱなしにした無責任を怒られたのです。 もちろん虫が好きな人もいれば嫌いな人もいるでしょう。不潔な虫もいれば危険な虫もいますから、子供の無邪気さにいつもニコニコしてはいられないでしょう。しかしただ毛嫌いしているのでは、本当は何が不潔で何が危険かはわからないもの。 そして子供は大人の反応に敏感なものです。願わくは世のお母さん方よ、虫を好きにならずとも、拒絶はしないで。美しい花も小さな虫も、俺たちと同じように春を待ちわび、出てきたのだから。

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  • 21 Mar
    • ヌオリワーラ 『牧場の少女カトリ』

      児童憲章第九条 「すべての児童は、よい遊び場と文化財を用意され、わるい環境から守られる。」 (『牧場の少女カトリ』前書きより) 『牧場の少女カトリ』は1984年にフジテレビ系の「世界名作劇場」で放映されたアニメです。1900年代のフィンランドを舞台にした作品で、アニメならではの美しい風景描写や音楽が印象的な作品でもあります。 このオープニングを見てのとおり、主人公カトリは小さいながらも実によく働く。6歳のときにドイツに出稼ぎにゆく母と生き別れ、戦争(第一次世界大戦)により母とは音信不通、祖父の病気から家計は苦しくなり、9歳で働きに出るのです。 1984年といえば同年3月にNHKドラマ『おしん』が終了しています。日本人の半分以上は見たといわれる『おしん』。社会現象にまでなったおしんとこのカトリを重ねて見た人も多かったのでしょう。「西洋版おしん」とも呼ばれました。 しかしアニメは決して辛さを前面に押し出したものではなく、カトリの持ち前の明るさ、頭のよさ、そしてややご都合主義ともとれる強運から、見ていてほほえましい作品に仕上がっています。また、日本にはあまりなじみのないフィンランドという国の自然や文化、そして社会状況も織り込まれ、年長者の鑑賞にたえる作品になっています。フィンランドサウナのことも出てきます。レーニンも一話だけですが登場しますし、ロシア革命も出てきます。また当時ロシアの支配下にあったフィンランドのようすや、自立する女性の姿も描かれていて、主人公カトリ以外にも見所は結構あります。私はこの作品を通じてフィンランドの民族叙事詩『カレヴァラ』を知りました。絶版で店舗在庫のみだった岩波文庫版を買ったのを覚えています。 ロシア帝国の支配下にあった(自治は認められていたが)フィンランドで、民族叙事詩の持つ意味が大きかったことが、アニメからもわかります。 文字通り名作ぞろいの「世界名作劇場」において、この作品は影が薄いようです。というのもヌオリワーラの原作がほとんど知られていないからでしょう。アニメのオープニングでも 原作 アウニ・ヌオリワーラ 「Paimen,piika ja emanta」より となっています。製作当時翻訳本が絶版となっていたのでしょう。 アニメ放映ということもあって、再販され、児童書コーナーに並びました。私が買ったのもそのうちの一つです。 これがその表紙に描かれたカトリ。奥付では1983年12月初版となっているのですが、ちょと古臭い絵ですね。文体も、活字も同じくちょと古い。装丁・挿絵は芝美千世さん。訳は荻野洋子さん。ただし「ヌオリワーラ原作/荻野洋子・文」となっていますので、リライトされたかもしれません。調べましたら、昭和36年に『牧場の少女』として、同じ荻野、芝のペアで出ていますので、その再版かと思われます。 またこの本以外にも何回か出版されたようです。 アウニ・ヌオリワーラ, 森本 ヤス子 牧場の少女カトリ 『残された人びと』と『未来少年コナン』でもそうでしたが、原作とアニメとはまた別物と考えたほうがよいようです。もっとも「コナン」ほどはアレンジしていませんが。 原作では時代はもう少し古く、はっきりとは書かれておりませんが、作者ヌオリワーラの少女時代、1883年生まれですから、1900年前後となるでしょうか(アニメは第一次大戦、ロシア革命があるので、1914~17年)。 働き者で利発なキャラクタはアニメと同じですが、不正に対しては激しい怒りをあらわす面もあります。また、アニメでは強運の持ち主で、その明るさからかたくなな大人の心を和らげるカトリですが、原作ではそれもいつも成功とは限らず、心を閉ざしたまま分かれる人々もいます。 つまり原作はよりシビアなのです。当時の農村の状況、貧しい家庭に生まれた立場、女性の立場がはっきりと描かれています。子供向けに表現は和らげているとはいえ、あるお屋敷では主人の愛人と私生児まで登場し、カトリと対立します。 そして最大の違いは女性の生き方でしょう。 カトリの母親は出稼ぎに出たのではなく、生活苦からカトリを祖父母に預けた後、農場主と再婚をします。母との再会は割りと早くなされますが、その事実を知ったカトリの子供らしい苦悩が、見事に描かれています。 アニメとは異なり、原作での女性たちは家庭の中におさまり、自立よりも結婚を望みます。それが女性の幸せなのです。 カトリ自身もある農場主と結婚する、幸福な未来を結末にこの物語は終わるのです。 それは時代の制約ということもあるでしょうが、しかし、彼女たちは決して弱い存在に描かれてはいません。この作品には、カトリのせりふには「運命」という言葉がよく出てきます。それはあきらめの言い訳ではなく、逆らえない運命に愚痴をこぼさず、とらわれず、まじめに働いて自分で自分の運命を切り開いてゆくのです。 身を粉にして働き、向上心向学心を忘れないカトリに、やはり影響され、守り立てる人々が現れるます。おそらく彼女と結婚する農場主の若旦那さんも、そんな出会いとつながりなのでしょう―実は本作にはカトリの少女時代のみ描かれ、五年という月日を飛ばして、幸福な結婚が約束されたラストシーンになります。ヌオリワーラには自分の少女時代を描いた本作以外に、自伝的な小説が何作かあるそうですから、カトリのその後はそこで描かれているのでしょう。残念ながら邦訳は出ていません。 アニメのカトリも、原作のカトリも、ともに私たちに勇気と辛抱強さと希望とを与えてくれています。

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  • 19 Mar
    • 渡部昇一 『ドイツ参謀本部』

      歴史を動かした個人と組織 渡部 昇一 ドイツ参謀本部 いまだに根強い人気がある田中芳樹さんの『銀河英雄伝説』。個人的にはオーベルシュタインやルビンスキー、トリューニヒトといった策士が好きですが、物語世界におけるボリュームからすれば、やはりラインハルトが第一でしょう。 彼のモデルは複数あると思うのですが、ナポレオンを連想する人が一番多いのではないでしょうか。歴史を動かした個性として。 田中 芳樹 銀河英雄伝説〈8 乱離篇〉 歴史もまた現代社会と同じく多数の人間の集まりであり、それが一個人に左右されることなどめったにない。現代の日本で総理大臣がかわっても、われわれの暮らしが劇的に変化することはない。これは民主主義社会だからというわけでなく、例えば徳川将軍も、その個性が際立っていたのは初代の家康をのぞけば5代綱吉と8代吉宗くらいで、あとはやはり「誰がやっても同じ」で、血筋が正しければよく、できれば馬鹿より利口がいい、といった程度でした。 *慶喜については保留。私にとってはクレオパトラと同じくらいの評価。 「クレオパトラの鼻が短ければ、大地の全表面が変わっていたことだろう」 とはパスカルの言葉でありますが、しかし彼女がやったことは自分の王国の滅亡を多少引き伸ばしただけで、むしろカエサルやアウグスツスこそが彼女の人生を変えたと言えます。 じゃあカエサルがいなければローマはどうなっていたのか。 ナポレオンがいなかったら歴史はどうなっていたのか。 この「たら、れば」は非常に難しいです。実際彼らは存在したのだから。 それでも多くの人がこのイフにチャレンジしています。その中でもっともよく見られるのは 「彼がいなくても、彼に代わる存在が出てきたであろう」 というもの。半村良さんの『戦国自衛隊』はそのSF的解答であります。 半村 良 戦国自衛隊 ナポレオンがいなかったら、おそらく複数の人物がナポレオンがやったことを成し遂げたかもしれません。 そのように考えざるを得ないほど彼の存在は巨大でした。つまり天才でした。 そして天才というのはめったに存在するものではありません。 ナポレオンに敵対した国々の中で、負けっぱなしだったのがオーストリア(ハプスブルク家)、最後に巻き返したのがプロイセンでした。プロイセンの巻き返しは、天才に対抗した一人の秀才から始まります。 その名はシャルンホルスト。 渡部昇一さんの『ドイツ参謀本部』は、ナポレオンの天才に対抗したシャルンホルストと彼によって始まったドイツ参謀本部の歴史です。 シャルンホルストは、しかし、ついにナポレオンに勝利することはありませんでした。それでも彼はフランス国民軍の強さの秘密、ナポレオンの強さの秘密を分析し、天才という個人に対抗する組織を作ってゆきます。そして彼の教え子たちはナポレオンを打ち倒すのです。 そしてプロイセンは近代軍事国家としてよみがえり、ドイツ統一の中心となり、世界大戦でその生命を終えます。 歴史、人間の所業というものは面白いもので、成功よりは失敗が、勝利よりは敗北の方が何十倍もその人なり国家なりの教訓となります。敗北から相手を熱心に研究し、作られた組織、参謀本部。しかし一度勝利するとその初心を忘れ、徐々に硬直化してゆくさまが見事に描かれています。 ハノーファーとう外国(ドイツ北部にあった国家)の平民出身であったシャルンホルスト。彼の軍人としての実績とその理論にプロイセンは破格の待遇でスカウトします。しかしそれは強大な敵に打ち破られていたからであって、彼の唱えた国民国家軍隊は、ついにプロイセンには生まれませんでした。彼のリベラルな思想は受け入れられることがありませんでした。 このシャルンホルストという人物、およそ軍人らしからぬ風采上がらぬこの個性的人物、当時『銀英伝』をよんでいた私は、真っ先にヤン・ウェンリーを思い出しましたね。 シャルンホルストの教え子には『戦争論』を著したクラウゼヴィッツがいます。彼の『戦争論』もまた、ナポレオンと同じくらい後世に影響を与えました。 カール・フォン クラウゼヴィッツ, Carl von Clausewitz, 清水 多吉 戦争論〈上〉 戦争論〈下〉

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