こんにちは、タロット占い師・守田のり子です。




昨日は、大好きなウクレレプレイヤー、

ジェイクシマブクロ氏のライブでしたラブラブ

いやぁ、凄かった。

楽しかったです音譜

 

さて、昨日の続きです
「悪者③」


お母さんは、手術の後、

抗がん剤治療を終えて退院しました。


これ以上、手の施しようがない、

これ以上は良くならない、

と主治医に言われて、退院してきたのです。


そのまま死を待つ事に納得できなかった母は、

自らガンの治療法を探しました。


現代では「子宮頸がんワクチン」が

認可されているように、

“ガンはウイルスによっては発症する”という説も

認知されています。


しかし、35年前は、

「ガン-ウイルス説」を唱えている医者は僅かでした。


母は、“ガンウイルスをワクチンで治療する”という

「免疫療法」を実施しているドクターを探し当てて、

治療を始めました。


何年もかかりましたが、それでガンを完治させて、

後期高齢者になった今も、元気です。


その治療の道のりは、

ここに数行で書けるものではありません。

母はガンを完治させるために、大変な苦労をしてきました。


その、母の生きるモチベーションになったもの。


それは、おばあちゃんの

「あんたが死んでも、

子供たち(私と弟)の面倒はみない!」

という、あの言葉だったと、後に聞きました。


「あの子達を残して、絶対に死なれへん。

何としてでも生き延びるんや。」

と、母は決意したそうです。


私が大人になって、母からその言葉を聞いた時、

あの悪者』の言葉に、そんな裏効果があったのかと

ちょっとビックリしたのです。



さて、母の退院後。


おばあちゃんと同居していた叔父夫婦は、

おばあちゃんの性格に耐えかねて、

おばあちゃんを置いて、引っ越してしまいました。


その時、ばあちゃんは私たちに言いました。


「あんたらのせいで、

○○ちゃん(叔父さんの事)は引越したんや。

あんたらの面倒を見るのが嫌になったんや。

あんたらのせいで、

私は○○ちゃんと一緒に暮らせなくなったんや」

と。


叔父は、豪華な新居を、うちの近所に建てたのです。

充分な広さがあり、

おばあちゃんを連れていけない訳ではありません


うちの母は、弟である叔父に頼みました。

引越しするのはかまわない。

おばあちゃんの面倒は、私が見る。


でも、月に一回くらいは、おばあちゃんを

家に呼んで、ご飯でも一緒に食べてあげて欲しいと。


しかし、

叔父夫婦がおばあちゃんを家に招待してくれたのは、

後にも先にも、たったの1回きりでした。


でも、叔父夫婦を責めるつもりにはなれません。

おばあちゃんが、叔父のお嫁さんに

どんな対応をしていたかは、

聞かなくても容易に想像できましたから。

おばあちゃんと離れない限り、

家族が崩壊してしまったかもしれません。


叔父さん・叔母さんとも、とても心優しい人たちでした。

子供の頃、たくさんサポートしてもらって、

私と弟は、大人になりました。

感謝しても、し尽くせません。



おばあちゃんが存在する事で、

皆が不幸になる。


この思いは、私の中で、確信となっていきました。


「生かしておいてはいけない」

という憎しみが、

どんどん私の中で成長していったのです。


おばあちゃんを殺してしまおう。

本気でそう思っていました。

 
しかし、中学生の考える事です。

どう工夫しても、おばあちゃんが不審死を遂げたら、

家族が疑われます。


こんな奴のために、私が捕まるのは嫌や。


じゃあ、どうしたらええねん

って、いつも考えていました。

 
そして、私の考えがまとまったのです。


おばあちゃんに“直接”手を下すのは、

うまい方法じゃない。

違うやり方で、葬ろう。

 

私にも受け継がれている、コイツの遺伝子を

後世に引き継いではいけない。

 
私は、中学生の時に決意しました。
 
私は、子供を作らない。


そして、もうひとつ。

私は、36歳でこの世を去ろう。


それが、私の辿り着いた

「おばあちゃんの殺し方」でした。


わぁ。なんて暗いんやドクロあせる

でも、皆さま、ご安心下さい。

私、もうとっくに、36歳超えてますから(^_^;)



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