常日頃から思っていたことなのだが、繁華街に心地良さを感じるのは大勢の他人が自分に全く関心を示していないことにあるような気がする。格差社会が叫ばれても世界各国に比べればかわいいもので、その、幅の狭い階級が雑踏の中、紛れ、孤独が自分の部屋に通じて、拘泥せずにくつろぐ。メディアに露出している人、ひときわ肌を露出している人、良くも悪くも常軌を逸しているほどの姿かたちの人でもない限り、記憶に留まることもなくその日の夕飯の話題にのぼることもない。
作るでも壊すでもない東京の埋立地で、赤い服を着た女性が殺された。地盤がぬかるんで海水の混じった水溜りでの溺死。現場検証をした刑事の吉岡は、そこで見覚えのあるボタンを目にする。死体に付着した指紋は吉岡のものだった。被害者を縛った黄色のコードは吉岡の家にもある。同僚の宮地は長年組んだ仲間に疑いの目を向ける。吉岡自身も自分を疑う。赤い服を着た霊が現れ、彼を苦しめた。それは緊張と恐怖と、非日常または不条理から笑いをもたらす。アプローチが新鮮だった。
管轄内で似たような手口の殺人事件が続いたが被害者の身元は割れており、演出は犯人も動機も分からせた。最初の事件は謎を残し、共通項を探し、吉岡の記憶を辿りつつ、着いた先からまた二転三転して予断を許さない。
もしリセットボタンがあったなら、僕は何度も押しているだろう。それがない、全部なしにすることができないからこそ悔やみ、改め、学び、成長する。その道程に何があったか忘れることは多々あり、記憶は上書きと改ざんを繰り返してはいるが、自尊心は大概において何の役にも立たないので、羞恥心も極力そぎ落として自らを省みる。