幼い息子のいる女性を、カメラを据えて淡々と捉える。ひたすら切り取るのみで、つかず離れずの距離を保って主観や偏見を排除する。チープで陳腐な表現でいえばそんなところだが、むき出しの生がヒリヒリと痛かった。ジャ・ジャンクー、キム・ギドクの流れを汲むというチャンリュルは、なるほど1シーン1カットを多用して厳しい状況下の人間と対等の目線で向き合い、自らのルーツでもある中国在住韓国人、朝鮮族の女を主人公にして孤独で貧しくも強く生きる様を突きつける。
中国の地方都市の外れ、線路沿いの小さな家でチェ・スンヒは一人息子と暮らしている。道端でキムチを売って生計を立てていたが、収入は多くなく安定しない。許可証を取っていないこともそれを手伝っていた。夫が犯罪に手を染め、それ相応の罰を受け、まだ小さい子供を連れて故郷を離れて孤独な毎日を送る。隣の家では4人の娼婦が共同生活しており、彼女たちもまた底辺だった。昼はスンヒが街でキムチを売り、夜は4人が街で体を売る。同じ朝鮮族だという男がスンヒに近寄り、彼を知っていた娼婦の一人が忠告をする。定期的にキムチを買う警察官が許可証を渡し、娼婦たちはスンヒに酒をおごる。互いに通ずるものがあった。しかし風当たりは常に冷たい。
生きる糧は何か。映像に市井の人を強いられ、そこからささやかな幸福を見出させない。スンヒと接触する男たちは自らの利益のみを考える。心のよりどころさえも奪われたスンヒがとった行動は、動機として充分だった。そしてカメラは重い腰を上げ、彼女の後姿を追い続けた。