バッシング 記憶に新しいイラク日本人人質事件をモチーフというかインスパイアというか、決して社会性のある作品を撮らなかった小林政広監督がそれを題材にした。前作「フリック」と同様に北海道を舞台にして、彼に見えるそこは荒涼とした大地、殺伐とした空気がまん延する。

高井有子はボランティアで戦時国に出向き、そこで拉致監禁されたが、無事帰国した。悪質な電話は毎日鳴る。世間の目は冷たいが、最も怖い顔をしているのは彼女だった。誹謗中傷は止むことがなく、彼女の家族にまで被害は及ぶ。しかし映画は、あくまでニュートラルな立場で描かれていたと思う。高井有子というキャラクターを美化しない。

ベッドで壁に向かい、頭を抱え込んで丸まる。マンションの階段を昇降する時、進む先を何か恐怖が待ち受けているような目で見据える。取り憑かれたようにおでんを食べる。そんな彼女の姿を執拗に映し、画面から緊張感が途切れることはなかった。

果たして税金は、一人当たりどれだけの額が使われたのだろうか。僕にはそのパーセンテージが分からないが、それで目くじらを立てる人間は小さい。小さすぎる。有子にしろ、実際に向こうで人質にされた方にしろ、望んでそうなったわけではなく、結果論だ。覚悟が足りないだなんて言えない。僕にもボランティアの経験がある。有子の言うところの「初めて人の役に立てた」喜びは、僕も知っている。当時のことを今にして思うと、人のためということより、自分のためにとった行動とも考えられる。充足感はえも言われない。そして自分が必要にされていると思った以上に、ボランティアされた人は自分を必要としていないとも、思い返す。

非難する人間たちは事象を側面でしか捉えていなかった。それは独善的な有子も同じ。向き合っていないのであれば、双方は歩み寄れない。四面楚歌の中、彼女は上を向いていたのか。それとも下を向いていたのか。答えはまだ出ていない。というよりも答えはない。