うつせみ 若い男・テソクは空き巣に入り、留守の間だけそこで暮らしていた。そこで壊れたものを修理して、そこにあった洗濯されてないものを手洗いし、そこの人であろう写真をバックに自らを撮る。豪邸に忍び込んだ彼はいつもの所業を行なうが、その家の夫人・ソナがそこにいた。離れたところに隠れてテソクの様子を隠れてうかがっていたが、徐々に距離を近づけて、悪意のない顔で姿を見せた。テソクは驚く。彼女の顔には暴行された痕があった。一度は逃げるようにその場を去るテソクだったが、囚われの身になっているソナを導き、テソクは彼女と二人で所業を繰り返すことになった。

警察に捕まり、そこでテソクに学があることが判明する。生活苦ではなかった。目的があって行動している。刑務所で彼は隠れる術を磨いた。まずは壁際に立って消えたように見せ、欺かれた看守はテソクをいたぶる。それでも次は格子に捕まって頭上へ、その次には影となって看守を欺け続けた。両手を広げ、手の平に書かれた目から、自らが逃げる姿。舞うように彼は、その術を体得する。居場所を探しているかのようだった。存在意義を見つける行為ともとれる。

足りないもの、一人ではなし得ないものを補うかのように二人は愛し合う。二人を乗せた体重計は0を差した。善悪はない。救いはないが悲劇でもない。ないというか問わない。

キム・ギドクはその一挙手一投足が注目され、タイトルが変わっていく様も順繰りに知ることができた。原題「空き家」から英題は「3-Iron」へ。ゴルフクラブ3番アイアンが暴力の象徴として、両方ともストーリーに大きく関わる単語だが、そこから邦題「うつせみ」に転じるのは狙いすぎのようにも思う。1996年のデビューから彼は10年間で12作品を撮った。本作は11作目で、最新作の公開も晩夏に控えている。その恐るべきスピードと、作品からみなぎるパワー。怒りにも似たエネルギーは枯れることはないのだろうか。儒教の国と言われる韓国はキリスト教徒も多く、そこで育った敬虔なクリスチャンとしてギドクの、宗教的な観念が共通して感じられる。