先に、以下のブログを書きましたが、


http://ameblo.jp/fist-history/entry-11284795000.html


平間洋一元防衛大学教授が、市来会のメーリングリストで、『朝雲新聞』に掲載された拙稿を宣伝してくださいました。


本当に、平間先生には感謝申し上げます。


それを受けて、崔三然元韓国空軍大佐から、以下のメールが出されました。



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崔 からの配信をお受けなさる日本の皆様へ。

 日本には古来から人柱と言う慣わしが有りました。私が戦時中の昭和19年10月水戸陸軍航空通信学校に入校した時、


”君達の飛行安全の為人柱になった乙女が居るぞ”


と言う上官の言葉に同期生と一緒に昭和15年11月開校直後大空の女神として遺書を残し
入水人柱になられた藤田多美子さんの廟にご冥福を祈り敬意を表した事が在りました。

終戦と共に世の中は変わり米軍の進駐と共に廟はなくなり、棄てられた胸像と多美子さんの辞世の歌碑は遺族に引き取られ今は水戸市内愛宕古墳すぐ傍の実家の庭に侘びしく佇んでいます。

(中略)

昨年暮れの私の市来会での講演で水戸飛行場での戦争体験のなかで気鋭の歴史作家拳骨拓氏と私の出会いはこうして始まりました。
国籍は変わる事が出来ますが学籍は替えられません。不変です。

私は水戸校のOBとして,そして又当時日本国民の一人として共に戦った者として日本の皆様に訴えたい気持ちで在ります。

人類史上 世界に誇る独特の伝統文化と歴史を持つ国日本が そして又世界に比類の無い繊細な感性と情緒に富む日本人である皆様が藤田多美子さんの霊魂を安らぎの場所に安置させて頂けないものでしょうか。皆様のご声援を仰ぎたく存じます。

崔 拝
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かつて吉田松陰先生は、

至誠にして動かざるものは未だこれあらざる也

と仰せになられました。

崔元大佐の日本を思う気持ち、藤田多美子女史を思う気持ちは本物であると確信しております。

まだ事が動かないのは、私の至誠(真心)が、まだ足らないからなのだと思います。


明日は靖国神社に参詣し、事が無事に運ぶよう、246万6532柱のご英霊に対し、自らの赤心を開陳したいと思います。







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今から四年程前、国会図書館で調査をしていたところ、『朝雲新聞』昭和三六年七月十三日の記事に、ふと眼が止まった。

「亡き娘に父の悲願 飛行場も見える所に」と題されたこの記事には、次のような内容が書かれていた。

昭和一五年一一月二八日、水戸陸軍航空通信学校の古井戸に二二歳のうら若き女性が身を投げた。その名は藤田多美子。井戸の脇に置かれた彼女の遺書には、入水の目的は自らの命を捧げることで、相次ぐ飛行機事故を防ぎたいとの願いを賭けたものであったことが記されていた。

彼女の遺書に曰く、「身は壌土と化するとも魂はかならず永しへに、この地にとどまり、大空翔ける皆々様の御武運をお守りいたす事で御座いませう。最後にお願ひといたしまして、一言申し上げます。此の身は何處へも持ちさらず、薮の陰、森の端でも厭ひません。飛行場の見へます所、何處なりと埋めて下さいませ。朝夕、皆々様のお勇ましい御活動振りを見守りつつ、大日本帝国空軍の益々榮へ勝さん事を、お祈り申し上げたう存じます。

  大君の御楯となれる益荒男をの
        空の勇士にこの身捧げん」

鬼をもひしじく同校の荒鷲たちも、藤田女史の純粋で直向きな願いに感激しないものはいなかった。

この話は美談として讃えられ、地元有志により胸像が造られ学校内に祀られることになった。三笠宮殿下も御台覧あそばされ、大いに感激しご遺族に有り難きお言葉を賜ったとのことである。

しかし戦後、米軍の進駐が伝えられると廟は破壊され、胸像は農家の納屋に捨てられるに至った。ご遺族はこれを探しあて「せめて遺品を飛行場の見える場所に置いてやりたい」と自衛隊に宛てたコメントを『朝雲新聞』に遺していたのであった。

私はこの記事を読み深く感激し、陸海空それぞれの幕僚監部に本内容を問い合わせたものの、寄付されたとの記録はないどころか「初めて聞いた」との回答であり、また日頃お世話になっている偕行社にも確認をしたところ同様の答えであった。

爾来、手がかりがないまま三年の日々を過ごしたが、その間、一日たりともご遺族の願いと藤田女史のことを忘れることはなかった。

事態が動いたのは、昨年一二月八日。まさに大東亜戦争開戦七〇周年の日。真珠湾攻撃に従軍した勇者である市来俊男海軍大尉を会長とし、平間洋一元海将補を世話人とする市来会にて、崔三然韓国空軍元大佐の講演会に参加した私は、偶然にも崔元大佐が水戸陸軍航空通信学校OBであることを知った。

「これは大東亜戦争で散ったご英霊たちのお導きかも知れない」直感的にそう感じた私は、崔元大佐に藤田女史のことを尋ねると、「彼女は私達のために命を投げ出してくださった我々の女神です」との回答。本件の趣旨をご説明し、お力を貸して頂きたいと告げると「それは私たち水戸陸軍航空通信学校OBとしても実現したいことです。喜んでお力を貸しましょう」と、同期や先輩などをご紹介くださり、ついにご遺族の元までたどり着くことが出来たのである。

そして今年、五月五日。崔元大佐と共に、藤田女史の胸像と歌碑の所在を確認した私は、藤田女史の墓地へと足を運んだ。

 崔元大佐は藤田女史の墓前で「藤田女史は私たちに“公”に殉ずる人間のあるべき姿を教えてくださいました」「今の世の中を改善させるには、藤田女史の純粋で美しい心が必要なのです」とお話になり、参列していたご遺族も眼に涙を溜めながら、その言葉を心に刻んだのであった。

 今から五〇年も前の『朝雲新聞』の一記事が、奇跡の連鎖反応によって、ここまで私たちを導いた。

 自衛隊よ。現代の天駆ける大空の荒鷲たちよ。この悲痛なる、切なる願いを、如何に聞き遂げるであろうか!

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