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濱口儀兵衛(梧陵)は、ただならぬ事態を察し、寒気の厳しなか、外へと飛び出した。


時は1854年12月24日。マグニチュード8.4を記録した安政南海地震である。


梧陵の住む海に面した紀伊国広村(現在の和歌山県広川町)は揺れそのものは大したことではなかったが、長くゆっくりとした揺れと地鳴りの音に、梧陵は言い知れぬ危機を感じとったのである。


梧陵の家は高台にあった。自宅の庭から海を眺めてみると、思わず息をのんだ。いつもの見慣れた海岸には水はなく、ただ広い砂浜が広がっていた。


代わりに水平線の先には、これまで見たことがない程の巨大な津波が沖へと襲いくるのが見えたからである。


慌てて下の村を見下ろしてみると、そこでは豊作を祝うためのお祭りの準備に追われており、村人たちは地震に気付いていないようだった。


「いかん!!津波がやってくる!!!」


梧陵は悟った。このままにすれば彼ら400人の村人は津波にのまれてしまうに違いない。どうする・・・時間はない・・・。


梧陵はとっさに、あるアイデアを思い立った。


家に駆けこみ、大きな松明を手にして再度外に出た。


そこには刈りいれたばかりの、たくさんの稲穂が山盛りの束になって積まれていた。


この当時、コメは貴重品であり、おカネと同等の価値があった。


だが梧陵は迷うことなく手にした松明に火をともすと、稲むらの山へと投じた。


稲むらの山は瞬く間に火が燃えうつり、巨大な炎へと変わっていった。


梧陵は自分の畑にある稲むらの山に、つぎつぎと火をつけてまわる。


時刻は夕方を過ぎ、薄暗くなっていた。


梧陵の宅から燃えさかる炎は、村祭りの準備をする村人たちの目にも映った。



「大変だ!庄屋さんの家から火が出ている!!火事だ!!!」



村人たちは火消しをおこなうため、あわてて高台をのぼり、梧陵の自宅がある高台を目指して駆けてだした。


先頭を走ってきた若者が、梧陵の灯した火を消そうとすると、梧陵は叫んだ。




「放っておけ!!村人を集めているのだ!!」




そうこうする内に、村人は皆集まってきた。梧陵は集まりくる村人を逐次数え、安否を確認した。


村人たちは一体、何がおこったのか、理解できずに不思議そうに顔を見比べる。


そのとき、梧陵は叫んだ。



「来たぞ!!やってきたぞ!!!!」



村人は梧陵の指さす方向をみて、驚いた。


そこには異常な速さで押し寄せる津波が見えたからである。




「つ・・・津波だっ!!!」




村人の1人が叫んだとき、巨大な津波は瞬く間に陸へと這い上がり、さっきまで村祭りの準備をしていた場所を一瞬にして呑みこんでしまった。


村人たちはただ、自分たちが暮らしていた家が津波にのまれ、消えていく様をジッと眺めるより他はなかった。




高台では沈黙が続いた。





津波が去ってから、跡形もなくなった自分たちの村を、ただ茫然と見つめていた。


そのとき、村人は気がついた。


自分たちは、梧陵の灯した稲むらの火によって助けられたのだと!!


この安政南海地震の使者は1000~3000人に及ぶと伝えられている。


梧陵の犠牲的精神は、多くの村人の命を救った。

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これは、「稲むらの火」と呼ばれる実話(正確にはほぼ実話)で、小泉八雲によって広く世界へと伝えられ、感動を巻き起こしたお話しです。
戦前は尋常小学校の教科書としても使用されていましたが、現在では余り知られていません。

事実関係については、


「稲むらの火 Webサイト」
http://www.inamuranohi.jp/

または、
http://ja.wikipedia.org/wiki/ 稲むらの火

に詳しいので、興味ある方はご覧ください。


東北関東大震災の被害が伝えられる昨今、多くの方に知って頂きたい話なのでご紹介いたしました。主人公の濱口儀兵衛(梧陵)は、佐久間象山門下の俊才であり、この震災を乗り切ってからは、和歌山県の藩政改革を担って勘定奉行となったほか、現在の郵政大臣などに就任。また和歌山県の県会議長(初代)になるなど活躍し、明治18年に66歳で死去します。
今回、多くの方々が亡くなられましたが、震災から学ぶ教育の重要性を、私たちは再認識する必要があると思います。