ラファエロ前派の水彩画
上は、現在、京都駅の伊勢丹で開催中の「ラファエロ前派からウィリアム・モリスへ展」に出品されている、ロセッティの「レディ・リリス」(1867年)。
この絵は、水彩画である。画材として、水彩・顔料と記されてあった。
顔料をどのように使うのか、つまり、メディウムとして何を使っているのかは不明。
この作品のような、一見すると水彩なのか油彩なのか分からないくらいのしつこく描き込まれた水彩画が、この展覧会には数多く展示されている。どうも、今世間では水彩画ブームのように思われるが、技法書や水彩画の画集を見ても、いかにも水彩ですよというような似た傾向のものが多くて、私はそういう水彩画が好きだけれども、ラファエロ前派の画家たちの水彩もとても魅力があり、また、水彩でもここまで描けるかという重厚さには驚きを覚えた。
近くによって観察したところ、
1. 洗い出しをしている
2. スクラッチをしている
3. 細筆で根気強く塗り重ねている
4. ドライブラシを使っている
くらいのことは分かった。
あとは、自分でマネをして描いてみるしかあるまいね。
展覧会で気になった画家を二人記録しておく。
ウォルター・パウエル・デヴァレル(Walter Howell Deverell) 「アーデンの森のロザリンドとシーリア」・・・これは油彩作品で、森の植物がたいへん上手に描かれていて色彩が美しい。
ウィリアム・ベル・スコット(William Bell Scott) 「水門と湿地のある風景」・・・ この水彩画にはとくに感心した。
高山辰雄の文藝春秋表紙絵
高山辰雄が描いた文藝春秋の表紙絵を集めた展覧会を、BBプラザ美術館で開催していたのを先月見た。
前期・後期と分けて、数多くの表紙絵原画を展覧していた。表紙絵原画のサイズは15センチ×15センチで、そこには驚くべき完結した小宇宙が出来上がっていて、うーん・・・とただただ唸るばかりであった。
何といっても構成が素晴らしい。
で、こういう絵のキッカケはどうしてつかむのか?と思っていたら、会場で観たビデオで、高山辰雄が行きつけの喫茶店に出かけて、コーヒーを飲みつつ小さなスケッチブックにボールペンでこちょこちょスケッチをしているところがあって、なるほど、こういうふうにして作品の最初のキッカケを見つけるのかも知れないなと考えた。
それらのボールペンでのスケッチも見てみたいものだ。
掲載したのは、文藝春秋1987年8月号の表紙絵の「ひまわり」。
中川一政
NHKラジオのラジオ深夜便で、17日(木)の深夜(つまり18日)の「わが心の人」というコーナーで、中川一政に師事した画家小杉小二郎が、晩年の中川の思い出を語っていた。その話を忘れないうちにちょいと書き留めておく。
中川は、元来、弟子をとらない主義だったらしい。先生に就くというのは、先生からエサをもらって飼育されているようなものだから、そんなことではいけません・・・という考えだったそうだ。
中川は現場主義で、現場でモティーフの風景(例えば箱根駒ケ岳)と格闘するような厳しい姿勢で、大変な集中力を持って描いたそうな。それから、中川の趣味は、相撲やボクシングなどの格闘技をテレビで見ることだったという。
中川は、一番体調の良いときに絵を描き、それほどでもないときに書や文章を書き、体調が良くないときはハンコを彫って(篆刻)いたそうだ。
以上だが、ほとんど独学で絵を学んだ中川の弟子をとらない理由が面白いなと思う。
面白いとは思うが、やはり初歩の頃は、絵は先生について学んだ方がいいと考える。
丸木
「原爆の図」の丸木位里、俊夫妻の思い出を、画家の平松利昭氏が、1月20日(木)のラジオ深夜便で話していた。なかなか興味深いことを言っていたので、忘れないうちにメモっておこうと思う。
平松氏は、丸木俊に「1年に1000枚デッサンせよ」と言われたということ。また、「画家は、貧しくてもよいが、卑しくなってはダメ」と言われたということ。うーん、肝に銘じよう・・・。
原爆の図など大作で、丸木位里と俊が共同制作するときには、位里が背景を描き俊が人物を描いた。そのときに、あらかじめ念入りな下図を描くのではなく、「出たとこ勝負じゃ」と言っていきなり描いていくのだと平松氏は話していた。
丸木位里の母、丸木スマは73歳から絵を描き始めた。丸木俊は、「私は他のどんな画家にも決して負けないけれど、スマさんには敵わない」と言っていたという。
掲載したのは、丸木スマの作品。
ヤン・ファン・デン・ヘッケ
美術展に行くと、今までまったく知らなかった画家の絵があり、「ああ、いい絵だなあ」と感動して帰るという思わぬ得をするとことがある。
上の絵の作者はヤン・ファン・デン・ヘッケ(Jan van den Hoecke 1620~1684年)だが、私は全然知らない画家だった。ところでその画家をどこで知ったかというと、兵庫県立美術館で2009年に開催された「静物画の秘密展」で、初めて彼の作品と出会っていい絵だなあと感心したのだね。
昔の画家なんて、私には知らない画家が大多数なのだ。だから、昔の画家の作品が多く出品されている展覧会に出かけると、思わぬ得をすることが多く、コストパフォーマンスがよい。なにせ近頃の展覧会はチケットが高いからね、1500円ですよ!まったく・・・。ともあれ、知識貧乏も得をすることありということ。
話を「静物画の秘密展」にもどす。
この展覧会で、作品がよいので名前をメモした画家が他にも何人かいる。ここに写しておく。
アンブロシウス・ボスハールト(父)
ヤン・アントン・ファン・デル・バーレン
ゲオルク・フレーゲル
ローベルト・フォン・デン・フーケ
ヘーラルト・ダウ
マルティーン・ディヒトル
記憶するにはややこしすぎる・・・。
吹田草牧
掲載したのは、吹田草牧(1890~1983年)の「醍醐寺泉庭」(京都国立近代美術館蔵)。
吹田がヨーロッパに滞在していたときの日記が、「渡欧日記」として、京都国立近代美術館発行の冊子「視る」に時折掲載されていて、私はとても楽しみに読んでいる。
吹田草牧は、1922年の6月初めにヨーロッパに着いている。
忘れないために、「視る」第441号に載っている5月27日(日曜日)の日記を写しておく。以下・・。
八時頃起床。仕事にかかる。肩が凝るやうな気がして、眠くって、かく気にならない。それでも無理にかく。
一時頃石崎さんが来た。明日ルウヴルで写真を撮影するので一緒に来てくれとの話。しばらくして同氏はルウヴルへ行った。それから私もルウヴルへ行く気で居たのだが、だんだん仕事に乗り気がして来たので、そのまま描いて居た。
四時頃、また石崎さんが来たのでしばらく話して一緒に出る。小林氏の五十枚の絵をせめて二十五枚くらゐはかかねばいけまいとの石崎さんの話に、急にまたそれが気になり出して来たので、頭が変になって来た。
ぶらぶら歩いて石崎さんのところへ行き、広田さんの部屋で話をする。そして一緒にデュワ゛ルへ行き、無駄話をしながら賑やかにたべる。みなの時計と、デュワ゛ルやビツソンの時計とが一時間ちがふので、どちらがほんとうかうそかわからなくなってしまった。ビツソンの時計にすると、丁度九時四十分頃だった。宿へ帰ったのは。それから日記を書き、頭が亢奮して居るので、絹を三枚枠に張った。それから中々眠れないのでぐづぐづしてとうとう一時頃就寝。
日記を読む限り、吹田は繊細で神経質な人だったように思う。
新聞の切り抜き
上は、エミール・ノルデの水彩画。
ノルデとは関係ないけれど、忘れそうな新聞の記事の切り抜きが見つかったので、ここに書き写して、切り抜きは捨てることにする。
切り抜いて取ってあったのは、2002年3月17日(日)の毎日新聞に掲載された「ひとり歩きの朝」。これは、新藤兼人が毎日曜に連載していたもの。この日の一文には、「田は濁る」と表題がつけられている。以下・・・
ぼつぼつ行っても田は濁るーわが集落の百姓たちの合言葉であった。
お父さんは、一鍬打ち下ろしては、腰の煙管で一服するという、百姓らしからぬ百姓であったが、それでも、ぼつぼつ行っても田は濁る、といっていた。
少年のわたしには、それは重苦しく聴こえたものだ。自然に向かって一年中たたかいつづけている百姓というものの、受身の緊張感が感じとれるのであった。
暖かい広島地方では稲と麦の二毛作である。
秋、稲を収穫すると、稲株を起こし、鋤を入れて畝を作って麦を蒔く。
春、麦を刈り取って鋤を入れて畝を壊し、稲作のために田を作る。荒れた土塊の田に水を入れ、代掻きをし、田をよく練っておしるこのようにして田植えを待つ。
この間の田の作りが勝負だ。息つくひまもない作業がつづく。急いではならない、遅れてはならない。しかし、きちんと順序に従って作業をすれば、田植えが出来る田になる。
ぼつぼつ行っても田は濁る、と百姓がいったのは、一歩一歩としっかりやれば、しぜんに田は濁って出来あがる、と戒めたのである。
のちになって、わたしはその意味がわかった。
お母さんが、家の前の広い田の稲株をおこしたのを思いだす。お母さんは、朝昼晩の食事をこしらえながら、そのひまに、表の田へ鍬を持ってはいり、一株ずつ起こした。この田の株を起こすのがお母さんの受け持ちだったのである。
何千株という稲株である。見渡せば目がくらむほど広い。一株ずつ起こしながら、いつかお母さんは最後の株を起こすのである。それをわたしは見た。凄い作業だが、お母さんは凄いとは思わなかった。
人は幼児期にうけた印象や体験が将来に影響するようだ。牛がのろのろと代掻きを引き、これを泥まみれになりながら、代掻きをしっかりと握って、ほりゃあッ、と声をかけて追いたてる百姓の姿が、目の中に残っている。
お母さんが、まるで無造作に稲株に鍬をふり下ろす姿が忘れられない。
独立プロはつねに経済的危機にさらされつづけた。
そんなに苦しいのなら、独立プロをやめたらどうか、と忠告をうけたが、自由を求めて独立したのだから、苦しいことがあってあたりまえだと思うことにした。
「第五福竜丸」(1958年)を撮ったとき、厚い壁に突き当たった。太平洋ビキニ環礁でアメリカ水爆実験に遭遇、死の灰をかぶったマグロ漁船第五福竜丸の事件だから、漁業基地焼津港へ長期ロケをした。
わが独立プロは最低の経済状況で、宿賃が払えない、フィルムを買うカネがない、カメラが故障して撮ったフィルムがダメ。立ち往生してしまった。
焼津市役所の協力してくれている課長のところへ行き、カネを貸してくれないかと頼んだ。呆れかえり、カネがないならやめたらいいじゃないですか、と誠実な課長は怒った。当然である。普通カネがなきゃ作らない。
だがわたしたちは作りたかった。不安な顔で佇むスタッフたちにいった。
ぼつぼつ行っても田は濁る。田を作る話をした。前を向いて行けばいいんだ。誰かが背中を押してくれる。「第五福竜丸」は地に膝をつく寸前に完成した。
礒江毅
平塚市美術館で昨年秋に開催された「礒江毅展」は見たかったのだけれど、さすがに関西から平塚市は気軽には行けない距離であり、展覧会チラシを眺めてあきらめることにした。それで、忘れるといけないので、少々記録しておく。上は礒江の作品、下記は平塚市美術館の展覧会の案内解説文。
『透徹した描写力をもち、現代リアリズム表現を追究した画家、磯江毅(いそえつよし1954-2007)の作品を、初めて公立美術館にて紹介しました。
磯江は大阪に生まれ、1974年、西洋美術を本格的に学ぼうと19才でスペインに渡ります。王立美術館でデッサンの基礎を学び、プラド美術館に通って、デューラーやフランドル派の画家たちの名画の模写に没頭しました。マドリッドは、1970年頃から新たなリアリズム表現を求める画家の活動の中心地となっており、磯江は自らを「GUSTAVO ISOE」(グスタボ・イソエ)と名乗って、アントニオ・ロペス・ガルシアといった画家たちと交流し、80年代にはその運動を担う一人として活躍していきます。
存在の実感―リアリティ―をつかんで平面上に写し取るリアリズム表現は、伝統的な西洋美術の根幹をなすものであり、20年以上をスペインに暮らして、それを体得した磯江の作品からは、事物の発するエネルギーやそれを取り巻く空間そのものさえ確固として感じることができます。「リアリズム絵画とは、実体とはフィジカルなものだけど、徹底した描写によってメタフィジカルな世界が見えてくるのを待つ哲学です」という磯江の言葉どおり、個人の情感や主観を排して描写に徹した画面からは、静謐で孤高な精神世界が現出しています。
1996年からは日本にもアトリエを構えて、自分の学んだリアリズム絵画を伝えたいとしていた磯江ですが、2007年に53才の若さで急逝しました。作品の完成に長い時間がかかることもあり、寡作な作家の活動の成果を目にする機会は、これまであまりありませんでした。この展覧会では作品56点により、磯江が極めたその表現世界を展覧しました。』
掲載した作品は人体だけれど、私は静物に興味を持った。
デパートの古径
上は、小林古径の「柿」(1934年、ポーラ美術館蔵)
大丸神戸店に買い物に行ったら、7階の美術画廊で、「掛軸秀作展」なるものを開催していて、名の通った日本画家の掛軸作品を展示販売していた。
そのなかに、小林古径の作品もあった。松の枝にとまったオオルリを描いたもので、大きさは10号くらいだろうか。いい絵だったなあ。でも、そんなことはどうでもいい、価格がすごいのであって、約1200万円。ほう!としか言いようがない、高いのか安いのかよく分からないから。
横山大観の6号くらいの富士の絵もあった。これは、5250万円。250万円は消費税だろう。消費税が250万円とは、これもほう!としか言葉が出ない。
しかし、古径や大観の作品をデパートで売っているという事実に、私はたいへん驚いたのだが、これはそれほど不思議がることではないのだろうか?