センター試験 | ほたるいかの書きつけ

センター試験

 早速あちこちで話題になっているようですが(たとえばこちら-「幻影随想」 )、今年のセンター試験の「倫理」で科学や科学と社会に関する問題が出され、それがなかなか興味深い。

 問題自体はたとえばこちらの『読売』のサイト でご覧になっていただくとして、第4問の問7で、伊勢田哲治『疑似科学と科学の哲学』から引用されている部分を、折角なので、省略されているところを補って引用してみよう。これはこの本の冒頭、「序章」にある文章である。p.5の末尾から。太字強調は引用者による。
(…)とりあえず疑似科学の話を始めるために最低限必要な特徴づけだけしておこう。少なくとも、言葉の定義からして、疑似科学には「科学のようで」「科学でない」という二つの条件が必要である。後者の条件から考えてみよう。
 「科学でない」ことの一つの目安として、その分野の中心的な主張が正統科学(以下、この本では、だれもが認める科学、つまり現代の正統派の物理学・化学・生物学などをまとめて「正統科学」と呼ぶ)から否定されていることは疑似科学の重要な特徴だろう。この観点からすると、精神分析の仮定する心の深層構造などはぎりぎり科学の側に分類されるだろう。創造科学、占星術、超心理学、中国医学などはそれぞれ神による種の創造、惑星の位置と地上の出来事の因果関係、超能力の存在、気の流れによる人体の説明など、とても正統科学の考えと一致しないような主張をしているので疑似科学に分類することになる。
 次に「科学のようで」という方だが、その分野の研究者たち自身は自分達のやっていることが科学的であると主張していたり、少なくとも科学の装いをまとっていたりすることも疑似科学の特徴として入れておきたい。正統科学が認めない主張はいろいろあるが、この用語法によれば、事故の現場に地縛霊がいるとか前世の記憶があるとかいう類いの主張は、それだけでは疑似科学ではない。しかし、そうした主張をある程度組織して科学らしき装いをまとった研究や宣伝がなされるようになると、疑似科学と呼べるだろう。さらに言えば、世界についての経験的主張でないものは疑似科学とは呼べないだろう。「経験」の内容は科学的な実験や観察に限らず、神の啓示だったり心霊体験だったりするかもしれないが、そのレベルの経験的裏付けすらないもの(純粋に空想によって書かれた小説など)はそもそも科学かどうかという議論の土俵に上がってこない。
 言い忘れないうちに強調しておくが、以上の特徴づけは、これからどういうものを扱うかの目安であって、疑似科学の「定義」や、ましてや線引き問題の基準を意図したものではない(明確な線引きの基準などありえないというのが本書の最終的な主張なのでこの点はなおさらである)。
とても重要なのが、これは「定義」ではなく「特徴づけ」である、ということだ。それから、オカルト的な主張も、それだけで「疑似科学」とみなすことは(多くの場合)ないが、なんからの意味で「科学らしき装い」をまとうと「疑似科学」と呼べるように「見える」。例えば、「水伝(水からの伝言)」は多分にオカルト的要素を持つが、科学らしき装いをまとっているため「疑似科学」呼ばわりされる、というわけだ(繰り返すが定義の話ではなく、なぜ人々が「疑似科学」と呼ぶかを分析していけば、そのように特徴づけされるだろう、ということ)。
 以上の部分はセンター試験の論点ではないのだけれども、折角の機会なので強調しておきたい。

 さて、これを受けての問7の問題文を見てみよう。
  1. 「血液型性格判断が科学的に否定された場合でも、ふだんの会話の中で盛り上がる話題としてそれを持ち出すのならば、全く問題はないよね。」
  2. 「血液型性格判断が科学の教科書で否定されたとしても、血液が生命を維持しているのだから、やはりそれは科学的に見て正しいはずだよね。」
  3. 「血液型性格判断がある種の研究者により正しいと主張されたとしても、新たな反証によって否定され得るので、絶対視しない方がいいよね。」
  4. 「血液型性格判断が現在までの研究で否定されたのなら、それを覆す明らかな証拠が出されない限り、科学の主張としては信用できないよね。」
どれが正解かは考えていただくことにして(^^)ってまあ載ってるんですけどね、それぞれ見ていく。
 1は「血液型性格判断」が間違っていると理解した上で、話題として出すのはいいのではないか、ということなのだが、これは「ブラハラ(ブラッドタイプ・ハラスメント)」につながるものだ。また、そうやって話題に出していくことが、ステレオタイプを強化していくことにもなる。
 3はまさに科学的態度であって、たとえばこのブログでも、血液型ステレオタイプが性格に影響を及ぼしているかどうかについて、示唆的ではあるがまだ確定とは言えないのではないか、というようなエントリを書いた。無論、どの程度「絶対視しない」かはグラデーションがあるし、またそのグラデーションを見極めることが本当は大切なのだけれども。
 そういう意味で、3は4とセットになって理解されるべきもの。きちんとした研究結果は尊重されるべきであって、それを覆す証拠が出なければ、暫定的にはその結果を「正しい」と扱うべきもの。そして、「覆す」のも単に違う結果が出ればいいのではなくて、以前の「きちんとした研究」となぜ違う結果が出たのかがある程度は説明されなければならないだろう。
 というわけで、社会的問題としては2だけではなく1も問題なのだけれども、そこはまあ問題がそういう問題だから仕方ない。

 もう一つこの問題で注意すべきなのは、ここで書かれていること自体は、血液型性格判断を否定するものではない、ということ。あくまでも、「~否定されたとしても、~だから、正しいはずだよね」というロジックの組み立てが疑似科学的だということで、「否定されたとしても」という仮定のもとでの話(まあ逆の立場で仮定に基づく議論ができない人が約1名いて大変難儀させられましたが)。もちろん、それは「倫理」の問題だから、それで構わないのだけど。
 しかしそれでも今回の問題に(「倫理」の学力判断とは別に)意義があるのは、漠然と血液型性格判断が正しいと思っている多くの人々に、「ん?ひょっとして、血液型性格判断っておかしいのかな?」と思わせるきっかけになるだろう、ということ。どれくらいの受験生が「倫理」を選択したのかわからないし、解いた人の多くは内容を深く考えるというよりも、文章としてどうかというあたりの判断だろうから、このままほっとけば「そういやそんな問題もあったねえ」で終わってしまうだろう。だからこそ、こうやって話題にしていくことが重要なのだと思う。