『ニューエイジについてのキリスト教的考察』(教皇庁 文化評議会/教皇庁 諸宗教対話評議会) | ほたるいかの書きつけ

『ニューエイジについてのキリスト教的考察』(教皇庁 文化評議会/教皇庁 諸宗教対話評議会)

ニューエイジに興味のある人にはオススメ。コンパクトによくまとまっており、大変濃密である。難を言えば、訳がやや硬いことぐらいか(訳は「カトリック中央協議会」による)。詳細は、カトリック中央協議会内のこちらのリンク をご覧ください。


 リンク先を見ていただけば載っているのだけれども、どういう本かが端的に示されているので引用しておこう。
近年日本においても、スピリチュアリティなどの呼称で顕著な拡大・発展が見られる宗教・文化現象であるニューエイジ。この潮流に関するカトリック教会の見解を示す文書です。その独自な思想基盤を概観し、キリスト教徒にとって受容不可能な要素を明確にした上で、教会がニューエイジに対応する際の勧めが述べられています。また、付録にはニューエイジ思想の要約や用語解説も収録されていますので、聖職者、研究者のみならず、一般読者にとっても興味深い内容となっています。
というわけで、当然ながら、キリスト教の立場から見て受容できないニューエイジの思想というものを批判している本であり、また対象は「司牧活動を行う人々が、ニューエイジのスピリチュアリティを理解し、それに対応する上での導き」と本文に書いてあるように「司牧活動を行う人々」であるのだが、その批判の内容自体はキリスト教の立場に留まらない普遍的なものを含んでおり、大変参考になる。

 簡単に紹介したいところなのだが、あまりに濃密すぎるので、要約できない。というか、要約したレジュメのような本と言うべきだろうか。参考文献や用語解説を除くと、わずか100ページほどにニューエイジとはどういうもので、どのような問題を抱えているかがまとめられている(無論、キリスト教の側からニューエイジにはまりつつある人に対してどう働きかけるか、という話も載っていて、それはそれで立場は違えど参考にはなる)。
 どれくらい濃密かというと、しばらく読み始めてこりゃいかんと付箋を貼りつけながら読んでいったのだが、ほぼ全ページにわたって付箋が貼られてしまった。
 そういうわけなので、以下には、幾つか目についた点を引用することで、どのような内容なのかを想像していただくことにしよう。
 (…)(引用者注:ニューエイジへの)こうした転換の必要性については、次のようなさまざまな言い方がなされます。
(1)ニュートンの機械論的物理学から量子力学への転換。
(2)近代的な理性重視から感性、感情、経験への転換(しばしば「左脳」の合理的思考から「右脳」の直感的思考への転換といわれます)。
(3)個人と社会における、男性支配と父権性から女性性への転換。
 これと関連して、「パラダイム転換」ということばがしばしば用いられます。(後略)(p.28-29、引用にあたってニュートンの英語表記と年代を省略した)
これだけでも『水からの伝言』がニューエイジの思想とマッチしていることがわかるだろう。
 また、個人の意識を変えることが世界を変えるための方法であるということに関し、
あるニューエイジ研究者は、ニューエイジにおけるこうした表面上の政治的無関心の背後に、権威主義の危険性を認めています。デイヴィッド・スパングラー(David Spangler 1945-)も、ニューエイジの問題の一つは、「自分の完全な人生を積極的に造り上げるのでなく、新しい時代(ニューエイジ)の到来を待つことを口実にして、無力感と無責任にひそかに身をゆだねること」だと指摘しています。(p.57)
つまり、実質的に民主主義社会における自律的な主体であることを放棄するものである、ということだ(これはこのブログである種のニセ科学が持つ危険性の一つとして何度か指摘してきた)。なおスパングラーという人自体はニューエイジ側の人であることに注意。
ニューエイジ「運動」は市場原理に完全に適応しました。そして、ニューエイジがこのように広まった一つの理由は、それが経済的に魅力的な商品だったことにあります。少なくともある文化において、ニューエイジは市場原理を宗教現象に適用することによって造られた商品の名称と考えることができます。人々の霊的欲求から利益を得ることがつねに図られています。現代経済における他の諸要素と同様、ニューエイジも、マス・メディアの情報によって造られ、はぐくまれるグローバルな現象の一つです。(p.63)

 ニューエイジが大流行したのは、それが信仰、セラピー、実践をゆるやかに組み合わせたものだからです。こうした諸要素は、しばしば、それらがもっているかもしれない対立や矛盾とかかわりなしに、好きなように選択され、組み合わされます。けれども、これがまさに「右脳」の直感的思考に自覚的に基づく世界観から期待されていることです。だからこそ、ニューエイジの諸思想の根本的な性格を発見し、認識することが重要なのです。しばしば、ニューエイジが示すものは、いかなる宗教に帰属することでもなく、ただ「スピリチュアル」だといわれます。けれどもそこには、多くの「消費者」が考える以上に、特定の東洋宗教との密接なつながりが見られます。このことは、だれかが「祈り」の集いへの入会を選択する際にとくに重要です。しかしそれは、企業経営にとっても深刻な問題です。生活と労働の中で瞑想を行い、精神拡張技術を用いることを労働者に求める企業が増加しているからです。(p.64、太字強調は引用者による)
「絶対矛盾の自己同一」を地で行く感じだが、あらゆる問題は個人に無理矢理還元され、物言わぬ労働者を作り、経営者はやりたい放題である。日航再建に京セラの稲盛があたるとかいう報道があったが大丈夫か。
融合か混同か ニューエイジのさまざまな伝統は、相違が現実に存在することを、意識的かつ意図的にあいまいにしようとします。すなわち、創造主と被造物の相違、人間と自然の相違、宗教と心理学の相違、主観的現実と客観的現実の相違です。理想として目指されているのは、分裂の問題を乗り越えることです。けれども、ニューエイジの理論によって実際の行われるのは、西洋文化の中でつねに明確に区別されてきた諸要素をことごとく「融合」することなのです。この「融合」は「混同」と呼ぶほうが正確ではないでしょうか。ニューエイジは混同に基づいて発展してきたといっても、いいすぎではありません。(p.101)
「創造物と被造物の相違」を除けば、ここで言われていることは、ニセ科学批判の文脈で言われてきたことと基本的に同じである。「水伝」に代表される価値と科学を混同させてきたニューエイジ的な「もの」は、まさにそのことにおいて、宗教の側からも科学の側からも批判されなければならない存在なのである。
 ついでに言うなら、この「融合」を得るための手段として薬物が使用されることを指摘しておくのはおそらく重要であろう(そのことも本文で指摘されている)。

 最後に、「訳者あとがき」から、ニューエイジに関係した運動一覧を挙げておこう。
 ニューエイジは、1980年代以前から展開していたさまざまな運動を母胎として成長してきました。島薗進氏は「ニューエイジの周辺」の運動として次のものを挙げています(前掲『精神世界のゆくえ-現代世界と新霊性運動』36-42頁)。これらのうちのいくつかは本書の中でニューエイジの起源として取り上げられていますが、本書で言及されていないものもあるので、ニューエイジの広がりを理解するために、参考までにここに掲げます。
・ヒューマン・ポテンシャル運動(日本における「自己啓発セミナー」に相当)
・トランスパーソナル心理学
・ニューサイエンス、ニューエイジ・サイエンス
・ネオ・ペイガニズム
・フェミニスト霊性運動
・ディープ・エコロジー
・ホリスティック医療運動
・マクロビオティック
・超越瞑想
・神智学協会
・人智学協会
・クリシュナムルティ・ファウンデーション
・ラジニーシ運動
・グルジェフ・ファウンデーション
・仏教的瞑想・共同体
・レイキ
・気功・合気道
・UFOカルト
(p.161-163)
…壮観ですな。聞いたこともないようなのも幾つか混じっているけど、大方はこの界隈で批判されてきたものである(「仏教的」がどの範囲を指すのかが明確ではないけれど)。

 そういうわけで、宗教と科学の共同戦線と張るという意味でも、重要な文献であると思われる。それは世界観のたたかい以前に、どのような現実社会を構築すべきかという観点からの共闘がいま現在の課題だと思うからでもある。『水からの伝言』に魅かれてしまった教会関係者の方は是非読んでいただきたいと思う。


 ちなみにクリスチャンでもない私がなんでこんな本を発見したかというと、観光でとある教会を見学した際に、カトリック中央協議会の出版案内のチラシが置いてあるのを発見したからだ(ちなみにそれは半年以上前で、この本があまりに濃密なため、最初の方だけ読んで積読状態になっていた^^;;)。同時に購入した『信教の自由と政教分離』(日本カトリック司教協議会 社会司教委員会・編)も面白い。いずれまた紹介できればと思います。

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