『藤子・F・不二雄大全集 パーマン2』(藤子・F・不二雄) | ほたるいかの書きつけ

『藤子・F・不二雄大全集 パーマン2』(藤子・F・不二雄)

 …または、個人的動機の話。の前に、簡単に紹介しましょうね、やっぱし。

 『大全集』のパーマンは8巻分の刊行が予定されているが、1、2巻をもって、『少年サンデー』掲載分は終了である。従って、この巻には、『サンデー』版の最終回も載っている。次巻からは、小学館の学年誌掲載分である。ちなみにパーマンの最初の回は学年誌の方であり、その初回はパーマンのマスクは今とは違う形であった。不人気だったようで、子ども受けがしそうな今の形(特にマスクの下の部分が唇のように上向きに丸まった部分)に変更した、とはどこかで読んだ藤子F氏の言葉である(どこで読んだんだったか…)。それは私も読んだことがないので今から楽しみなのだが、それはそれとして。

 この巻に掲載されているもので出色の出来なのは、やはり「パーマンはつらいよ」ではないだろうか。この巻の「解説」には2号の声優である大竹宏氏が談話を寄せているのだが、彼もこの回を取り上げている。ネタバレありで簡単に紹介すると(結論がわかってても感動するのだ)、夜の出動が続いたパーマン、昼間は眠くてたまらない。パーマンの活躍はみんな知ってて感謝もするけれども、パーマンの正体が須羽みつ夫であることを知らない周囲の人たちは、最近いつもみつ夫が授業中居眠りをしているのを知っている。家族やみっちゃんにまで注意される始末。ついにみつ夫は嫌気がさして、たまたま来ていたスーパーマン(後には「バードマン」と呼ばれるようになる)に、パーマンであることを「せめてママと先生とみっちゃんにだけでも、ぼくがパーマンだってことうちあけたいんだけど……。」とお願いする。もちろんそんなことは認められない。で、
みつ夫(以下み): だってそれじゃあんまりだ。

み: つらい思いをしたって、なんのとくにもならないし。

み: だれひとりぼくに感謝してくれるわけでもないし。

スーパーマン(以下ス): そんなことないよ。
ス: みんなパーマンには感謝してるさ。
み: それは須羽みつ夫と関係ないもの。

ス: いいかい、自分のとくにならなくても、ほめられなくても、しなくちゃいけないことがあるんだよ。
み: どうしてさ なぜ?教えてよ。

ス: 自分で考えたほうがいい。そのうちきっとわかるよ。

み: そんな返事はインチキだ。ごまかしだい。
と言って、パーマンセットを放り出し、「やめます」と宣言してしまうのである。

 さてそんなみつ夫、夜になって、「さあ、今夜からゆっくりねられるぞ。」と布団にもぐりこむ。そこに窓からスーパーマン。パーマンセットを星へ帰るまで「あずかっといて」と置いていくのである。
 やがて鳴るパーマンバッジ。パーマン仲間の呼び出しだ。やって来ない1号にしびれを切らし、他のパーマンたちがみつ夫のところへやってくる。水害が発生している、助けに行こう、と。しかし、パーマンをやめる意思の固いことを悟った仲間たちは、しかたなくみつ夫を残して現場に行く。
 そして、布団の中のみつ夫。
み: 水害か……。
み: まあ、関係ないけどね……。

み: ねようねよう。
み: 明日はおくれずに学校へ行けるぞ。

み: (目を開けたまま)グウ…。

み: 現地の人たちは大変だろうな……。
み: 関係ないけどさ……。

み: ねむれることは楽しいな。
み: あったかいふとんはうれしいな。
み: ぼおやはよい~子だ、ねんねしな。(モゾモゾと布団の中で動きながら)

み: (布団の中で目を開けながら、水害の状況や翌日の新聞を想像する。想像した新聞には、「大水害に 死者二十三人 不明…」「市をひとのみ」などという見出しが踊る)

み: (ムクリ、と布団から起き上がる)

み: (電気をつける)

み: (着替える)

み: (パーマンになって窓から出ていく)
ス: 出かけるの?
み: あ、スーパーマン。

ス: なんのとくにもならず、人にほめられもしないのに、なぜ行くんだい?

み: わからない…………。でも行かずにはいられないんです。

み: わけはあとで考えるよ。
み: いそがなくちゃ。

ス: (飛んで行く1号の後ろ姿を見ながら)だれがほめなくても、わたしだけは知ってるよ。きみがえらいやつだってことを。
(終わり)
いやあ、全然「簡単」な紹介じゃないですね。(^^;;

 この話、昔から知ってはいた。知ってはいたけど、今回あらためて読んでみて、なんて深いんだろう、と思った。子どものころは、なんか騙されたような気がしたものだ。しかし今読むと、今でもわからないのだけど、なんかわかるのだ。「わかってはいないけど、わからないわけにはいかん!!」みたいな。:p
# 『無謀キャプテン』(島本和彦)のもじりですよ、もちろん。

 それなりに長いこと生きていれば、「わからない、でもせずにはいられない。わけはあとで考える」なんてことは、時折訪れるものだろう。ニセ科学への批判だってそうかもしれない。きっかけは色々あるかもしれないけど、それを持続させる力が何に起因するものなのか。幾つか挙げることはできるだろうけど、でも「こうだ」とはなかなか言い切れない人が多いのではないか。それでいいのだとも思うし、だからこそ個人的な動機を他人が問い質すのは意味がないとも言えるのだろう。こういうのは、たまに表明したり、なにかの折に語り合ったりして、決意を固め直すのにはとても重要だと思うのだけれど、とやかく言われる筋合いのものではないよね。


 先日、『ディア・ドクター 』という映画を観た。鶴瓶が主役はってるやつ(上映中なのでネタバラしはしませんが)。鶴瓶が演じる過疎地の「医師」伊野がなぜ「医師」を続けていたのか、伊野を取り巻く人々が推測する場面がある。伊野と深く関わっていた薬の営業マンが、イキナリ座っていた椅子から後ろに倒れる。思わず手を出し助けようとする人。「あなた、僕を愛してたりします?そんなことないですよね。じゃあなんで助けたんですか?」「こんな感じじゃないんですかねえ」と、その営業マン。わざと倒れて「思わず」手を出さざるを得ないような状況にその人を追い込んだわけだ。
 何が言いたいかというと、結局個人的な動機なんてものは、自分でもよくわからないことが多いんじゃないか、と。だから文学ではあっても、論争のネタではないだろう、と思うのだよね。

 しかしまあ人間は理屈だけでは生きていけないイキモノであるのも確かなことで。だから「個人的な動機」も、たまには語るのも重要なんだと思う。ここで紹介したパーマンの話に感動するのも(感動するよね?ね?ね?^^;;)、その重要さを物語ってもいるのだろう。
 そのあたりの間合というか割り振りというかメリハリが難しいところではあると思うのだけども、ね。
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