「動機」「目的」ってなんだ? | ほたるいかの書きつけ

「動機」「目的」ってなんだ?

 大学院に入ったばかりの院生によくある風景。研究室のゼミだと思ってください。

(論文紹介編その1)
聴衆: …で、なんでまた著者はそんなこと調べようと思ったの?
院生: え?さあ~、本人じゃないのでわかりません…
聴衆: いやいや、イントロに書いてあるでしょ?

(論文紹介編その2)
聴衆: なんでそういう仮定をしたの?
院生: さあ~、したかったんじゃないですか?
聴衆: なんでしたかったのさ?
院生: 本人じゃないからわかりません…
聴衆: それ説明できなかったら紹介する意味ないでしょ!!

(研究発表編)
聴衆: …で、結局なにが面白いの?
院生: え?なにがって言われても、面白いと思ったんですが…なんかこういうの好きだし…
聴衆: いやいや、あなたの個人的な興味とか動機なんか聞いてないよ、どういう意味があるのさ?
院生: …
聴衆: だから、それを調べると、一体どういういいことがあるのさ?
院生: いいことって言われても、特に役に立つような話でもないし…
聴衆: え?だったらわざわざゼミで発表なんかするなよ、自分で一人でやってろよ!
院生: えー?だけど、これがわかったら、○○を理解する手がかりになると思うんですけど…
聴衆: それを説明してくれって言ってんの!!

新米とそうでない人の間で話が通じない、ってのはよくあることです。大学院生にとっては通過儀礼みたいなもんですね。
 「著者(あなた)が~したのはなんで?」という質問は、日常会話とは違って、普通はこの研究をする意味は社会/学問/コミュニティにとってどういう意味があるのかを問うものなんですよね。「気持ち」はどうでもいい。小さいころから疑問で疑問で仕方なくって、必死に勉強して大学院に入ってやっとこさそのテーマに取り組めた…なんてのは、他人にはどうでもいい話なわけです。そんなことより、それは人に聞かせる意味のある話なのか、それともそんなマニアックな話なら自分一人で勝手にやっててくれ、というものなのか、それを見極める方がずっと重要なわけ。だから、論文の「イントロ」ってのは重要で、「この論文はこの分野でこういう重要な位置付けがなされるべきものだ、だからあなたにとってこの論文は御利益がありますよ!!読んでね!!」というのを訴える場でもあるわけです。
 「その2」についても同様で、たとえば「○○が完全な球だと仮定する」とか「△△は一様であると仮定する」なんて文章があった時に、そうしたい「気持ち」なんてのはどうでもよくて、球や一様だとすることに合理的な意味があるのか、よくわからんけどとりあえず第一歩として単純化した、ってことなのか、そういうことを聴衆は知りたいのです。

 なんでまたこんな話を書いたかと言うと、最近(に限りませんけど)、ニセ科学を批判する目的はなんなんだ、みたいな話を目にすることが多いのですよね。で、「オマエラの正義を振り回すな!!」とか言われることもあるんだけど、それは物凄い違和感を感じるわけです。

 個人的な動機はいろいろあるでしょう。私もたまに書くこともあります。もちろん私に限らず、ニセ科学批判にコミットしている人は、時折そういうエントリを書かれることがあります。書く理由ももちろん様々なんでしょうけれども、実は、それはニセ科学批判が持つ「意味」とはなんの関係もないのですよね。本人が正義感からやっていようが、嗤いたいからやっていようが、はっきり言えばどうでもいい。いやもちろん、一人の人間として見たときにどうよ?ってのはありますし、文脈によってはそっちの方がずっと重要という場合もありますけれども、しかしニセ科学を批判することの意味や目的はなんだ、と問う時に、個人的な動機をあれこれ言うことにはなんの意味もない。

 その批判は的確か、とか、その批判によってどういう効果があるのか、を問うことは重要ですよ。とっても。だけど、その時に個人的な動機を持ち出されても、ねえ。

 科学が宗教や思想と決定的に異なるのは、客観的に検証が可能か、というところです(検証というものをどう捉えるか、ということになると哲学の領域に入っていき、そこでは科学も相対化されある種の思想の一つとなりますのが、そこはおいといて)。科学で検証可能なとき、ある主張が正しいか間違ってるかに民主主義も義理も慈悲もありません。自然は人間と独立に「ただある」のみ、です(繰り返しますが、その「正しさ」を確定するプロセスのややこしい話はおいておきます)。
 ニセ科学ってのは、そういう客観的に検証可能なものを含んでいるのであって、ということは、少なくともその部分を問うのに個人的な動機を持ち出すのは本来はおかしな話なわけです。もちろんその背後にある「思想」についてだって、論じる時は論理的に論じなきゃいけないわけだから、動機が出てくるのはおかしいわけですが。

 もう一点。目的にも色々あるわけです。「○○を解明することは、△△や□□や××にとって有意義だろう」みたいなことはざらにある。水伝を批判することは、結晶の成長についての正しい知識を伝える意味もあるし、結晶成長の面白さ・重要さを伝える意味もあるし、「言語とは何か」「美醜とは何か」といった問題意識を伝える意味もあるし、さらに生き方を問う意味だってある。ある批判が、そのうちの一部にしか意味がなくったって、一部にあれば大いに意味がある(まあ他の部分でデメリットが大きかったら困るのですが)。
 さらに、それぞれの意味の階層がまた大きく違う場合だってよくある。ニセ科学なんてのはまさにそうで、「正しいか間違ってるか」が問える部分もあれば、個々人の価値観に大いに依存していてなかなか問えない部分もある。このとき、批判の目的はどっちなんだ、という問には意味はなくて、答としては「どっちも」となるわけです(もちろん、どっちが主でどっちが従か、ってのは、場面場面で色々あります)。


 もちろん、上で述べたように、そういう感覚は大学院レベルで実地で鍛えられるもので、それが一般的だと言うつもりは毛頭ない。それはごく一部の人にとって必要な discipline であって、一般に必要な常識とは違うでしょう。だから、ニセ科学に対する批判にたいし、素朴な違和感の表明として動機を持ち出される分には、「うーん、ちょっと違うんだけど、まあしょうがないか」と(私は)思います。それに、そう思うからこそ、個人的な動機も表明したりするわけです。ブログは論文じゃないし、広い層に伝えたいし。ただやはり、きっちり議論するとなると、そこは要求せざるを得ないかなあ…と悩ましいところです。


 「一般」という言葉を出してしまったので、ついでに。
 「一般の人」にとって必要な(科学的)常識…って、ものすごい難しい問題だと思うわけです。filinionさんのエントリ に対するブクマコメント にも書いたことですが。だってさ、「一般の人」を問題にするってことは、言ってしまえば学校教育で何を教えるべきか、という問題ですよね。小中学校で(場合によっては高校まで入れてもいいのかもしれませんが)。で、学校で何を教えるべきか、ってのについては、学習指導要領ってやつがあるわけです。これも散々バトルがあってわけわからんものが出てきたりするわけですが、しかし発達段階を考慮しつつ何をどう教えるか、ってのは、それはもはや教育学の大問題ですよね。それだけでも、そんな簡単に答が出るものではないということは想像がつくでしょう。
 filinionさんの歯切れが悪いのは当たり前で、こんな大変な問題に対して「~をやればいい」とか「~があればいい」なんて簡単に言えないですよね。

 私だってそれなりに考えはするんですが、しかし答は出ない。確かに、必要そうなキーワードは思いつく。「最低限必要な知識はあるだろう」とか、「知識だけじゃなくて批判的・論理的な思考が大切だよな」とか。でも、「じゃあそれで悪徳商法から身を守れるのか」と言えばNo。それに、「最低限」をどこに設定するかというのがそもそも問題だし、批判的な思考っつったっていつもいつも誰でもできるわけじゃない。自分の分野について見れば、高校レベルを最低限、ということにしたいけれども、自分を省みるに分野外のことについてもすべて高校レベルをマスターしているかと問われれば、「すんませんっ!!」としか言えないです。
 じゃあ知識や思考はどうでもいいのかと言えばそうではない。小学校レベルのことがきちんと理解されているだけでも大いに助かるわけです。

 そういうわけで、「一般に必要な素養」(知識も含めてより広いものを指したかったので「素養」としていますが)がなにか、ってのは、「どうしても必要なもの」「なるべくあった方がいいもの」「なくてもなんとかなるけどあった方がいいもの」というようにグラデーションがあって、しかも「どうしても必要なもの」ってのがなかなか見出せないのですよね。それは「必要な素養」が必要とされる状況があまりにも多岐にわたっているから。ある状況のクラス(たとえば悪徳商法にはまらない、とか)では、どうしても必要な知識はコレだ、と言えるかもしれない。でも、それが必要でない場合だって思いついちゃうわけで。

 A, B, C と三つの事象があった時に、A∩B≠φ, B∩C≠φ, C∩A≠φ,だけど A∩(B∩C)=φ, なんて場合もあるでしょう。抽象的?A=悪徳商法、B=カルト宗教、C=ニセ医療(ホメオパシーとか予防接種反対論とか)とでもしてみましょうか。悪徳商法とカルト宗教、のように、二つについて共通のものをくくり出すことはできても、全部に共通のものをくくり出すのは難しかったりします(あ…この例だとあるかも^^;;)。だけどまあ全部に共通はしなくても、結構広い範囲で共通のものはありそうな気はする。だから、全部にとって必要、という発想だと、たぶん答はでなくて、一通り学んだときに、全部に対抗できるような素養が獲得できていればいい…というふうに考えていくことが必要なんでしょうね。おそらく。

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どーでもいいのですが、300からブクマのついているエントリに、一番でブクマをつけられるとなんか嬉しいですね。「おお、見る目あるじゃん、自分」みたいな。でも、単に夜更かししてただけなんだよな。(^^;;

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ああ、またダラダラと長文を書いてしまった。^^;;
前半と後半でエントリ分けるべきだったかもしれん。が、まあいいや(すんません)。

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誤植コッソリ修正。あーハズカシ。^^;;;;