『藤子・F・不二雄大全集 エスパー魔美 1』(藤子・F・不二雄) | ほたるいかの書きつけ

『藤子・F・不二雄大全集 エスパー魔美 1』(藤子・F・不二雄)

 今週はとにかくメチャメチャに忙しくて(間に出張も挟まった)更新もままならなかったのですが。コメントいただいた皆様、ありがとうございます。ちょっと考える気力がまだ起きないので、明日以降、御返事したいと思います。特にメカさんのコメント群については、新しいエントリを作ろうと思っています。しばらくお待ちください。すいません。

 で、だいぶ時間がたっちゃいましたが、藤子・F・不二雄大全集の8月分配本に含まれている『エスパー魔美』について、ちょっとご紹介。
 エスパー魔美、小学生のころだったかな、たぶん高学年だったと思いますが、初めて読みまして。色々と学ぶところが多かったのです。主人公の魔美と高畑くんが中学生という設定も大きかったのだと思いますが、自我に目覚める年頃だけに、作者としては、まるで自分の娘に語るように、世の中というものを語りたかったのだと思います。
 そういうわけで、当時の私にとっては「ちょっと大人」の中学生が展開するお話に、「ああ、大人って、色々ややこしくて大変だな」と、心の奥深くに染み込んでいったのです。
 今回、その中でも特に心に残っている作品が掲載されていました。ちょっとだけ引用します。筋がわかってしまうとアレなので、私が感銘を受けたところを抜き書きするような感じで(その分面白さは伝わらないと思いますが、まあそれは実物を読んでもらうということで)。

p.140 (「くたばれ評論家」)より。カッコ書きは引用者による。
パパ: くたばれ!!

魔美: パパの声だわ。

パパ: だいたいな、おまえなんかにだな、絵がわかってたまるかってんだ!!
パパ: ヘッポコ評論家め!!
パパ: 大ばか者め!!

パパ: こうしてやる!! (本をたたきつけながら)

パパ: えいっ!
パパ: えいっ! (ジャンプしながら本を踏みつける)

魔美: どうしたの?
魔美: そんなにあれくるって、パパらしくないわ。

パパ: 読んでみろ!

パパ: 月評欄! ぼくの個展の批評がでてる! 剣鋭介という評論家だ。
(以下、剣による酷評が続く)
この後、魔美は剣に抗議しようとして剣の家に入り込む。p.150から。
魔美: (…)だからパパがあの作品にどんなに情熱をそそいだか、よく知ってるんです。学校勤めのかたわら、ねる間もおしんで……。

魔美: それを……、
魔美: それをあなたは!
魔美: 情け容赦もなく……。

剣: お答えしよう。

剣: その一! 情けとか容赦とか、批評とは無関係のものです。

剣: その二! 芸術は結果だけが問題なのだ。
剣: たとえ、飲んだくれて鼻唄まじりにかいた絵でも、傑作は傑作。
剣: どんなに心血をそそいでかいても駄作は駄作。

魔美: 父の絵が駄作だと!?

剣: 残念だが……。
そして魔美は腹いせに、剣の書きかけの原稿を、テレキネシスで庭にばらまき、復讐をとげる。
家に戻り、家族との会話。
魔美: わるい人には天罰が下るって、ほんとだよね、パパ。
パパ: だれだい、そのわるい人って?

魔美: きまってるでしょ。剣鋭介氏よ。

パパ: ハハハ わるい人ってのはかわいそうだよ。

魔美: だって!! あんなひどい批評をかいたじゃない!

パパ: マミくんそれはちがうぞ。

パパ: 公表された作品については、見る人全部が自由に批評する権利をもつ。

パパ: どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ。
パパ: それがいやなら、だれにも見せないことだ。
魔美: でも、さっきはカンカンにおこってたくせに。

パパ: 剣鋭介に批評の権利があれば、
パパ: ぼくにだっておこる権利がある!!

パパ: あいつはけなした! ぼくはおこった! それでこの一件はおしまい!!

パパ: つまらんことにいつまでもこだわってないで、さっさと忘れなさい。
最後。落ちはまあ書かないでおくが、パパの一言。
パパ: ばかいえ! そのうち、あいつにもけなしようのないすばらしい絵をかいてみせるさ。
ああ、大人だ。オトナの世界ですよ。公の場に何かを晒すというのは、こういうことなのですよね。ネット上に簡単に自分の言説を公開できてしまう昨今、このオトナの世界の厳しさを理解している人が一体どれだけいるのだろうか。無防備な言葉を晒し、簡単な批判すら予想だにしないブログが氾濫するこの状況、もの凄く怖いと常々感じているのですが…。「物を言う」ということについて、未だに私の頭をかすめるのがこの話なのです。
 また、ネット上に限りませんが、批判というものをどう考えるか、という意味でも、重要な視点を提供してくれていると思います。公権力の介在を排除しようとすれば、私的自治のなかで、たとえどれだけ精神的につらい思いをしようとも(程度問題はあるわけですが)、そのこと自体はあり得るものとして受けとめなければならない。もちろんそれは反論する自由もあるからこそ、なわけですが。ニセ科学への批判やそれへの批判についても同様でしょう。

 さて、次。これ、話としてはポジティブな物言いになっていますが、「信じる」ということの本質を言い当てていると思います。そして、そのネガティブな面が、ニセ科学やオカルトを信じる心性と実は同じである、ということも。

p.322(「魔女・魔美?」)より。
魔美: あたしに関するうわさを信じる?信じない?
魔美: ねえ どっち?

高畑: ふしぎとしかいいようがないね。
高畑: 密室の会話を、
高畑: 聞きとるなんてことは……、

高畑: エスパーででもなけりゃ、できることじゃない!

魔美: やはり……、
魔美: そう思われてもしかたないわね。

高畑: おい、まてよ!

高畑: 一つ考えたことがあるんだ。
高畑: 真犯人をさぐる方法について。

魔美: じゃ、高畑さんは、
魔美: 犯人はあたしじゃないと?
高畑: あたりまえだろ!

魔美: あらゆる証拠が不利なのに?それでもあたしを信じてくれるの!?

高畑: 理屈じゃないんだよ、人を信じるってことは。
そう、理屈じゃないんですよね。信じるってことは。そして、ここにこそ、ニセ科学やオカルトを批判することの難しさがあると思うわけです。
 島本和彦にも同種の言葉があって、たとえば「わかってはいるが、わかるわけにはいかん!!」とか、「正義より友情だ」みたいな(後者はうろ覚え。友情じゃなかったかな。すいません)感じなんですが、生きる上では確かに理屈より大事なものはあるんですよね。それが、いい方向に向かうのであればいいんですが…。

 さて、ついでにもう一つ。エスパーであるということが、世の中にとってどういう意味を持つか。

p.81 (「勉強もあるのダ」)より
魔美: ね、ね、ママ!
ママ: なあに、マミちゃん。

魔美: これは「もしも」のことなんだけど、

魔美: もしも………
魔美: もしもよ。
魔美: もしも家族にエスパーがいたら……
魔美: すてきだと思わない?

ママ: なによ、そのエスパーって?

魔美: 超能力者よ。手をふれずに物をうごかしたり、
魔美: 人の心を読んだり、そのほかいろいろと……。

ママ: 気味がわるいわね、

ママ: そんな人が身近にいたら。
ママ: いつ心を読まれてるかと落ちつけないし、へたにおこらせるとなにされるかわからないし。
(以下、魔美のパパとの会話。下線は原文では傍点)
魔美: これはもしもの話なんだけどさ。

魔美: もしも、
魔美: パパがエスパーだったら、どんなことする?

パパ: ぼくが?
パパ: そうね…………
パパ: 自分がエスパーだってことをひたかくしにかくすだろうね。

魔美: かくす!?どうしてよ。
パパ: 平和にくらしたいからね。

パパ: 人間には先天的に自分とは毛色のちがうものをきらう性質がある。
パパ: エスパーもけっして歓迎されないだろう。

魔美: だって! ユリ・ゲラーとか、スプーンまげとか、
魔美: みんなテレビにでて、英雄みたいになったじゃない!!

パパ: 彼らはよく失敗した。インチキという声も高かった。
パパ: だから、ほんのごあいきょうですんだ。
パパ: だがもし……ほんとのエスパーなんてものがこの世にいたとしたら……、
パパ: はじめはものめずらしさでチヤホヤされるだろうが、

パパ: やがて、その力へのねたみとかおそれとかで、迫害がはじまるよ。

パパ: 一つの例がヨーロッパの魔女狩りだ。

パパ: あやしげな魔法を使ったという罪で、大ぜいの人が処刑された。

パパ: うちのフランスのご先祖には火あぶりになった人がいたそうだ。
魔美: 火あぶり!?
先天的かどうかはおいといて。まあ、この手の特殊能力を持つ人が迫害されたり秘密組織に追われたり、というのは昔からあるテーマではあるのですが、子ども心に「そういうものなのか…」と、大人の世界を垣間見たような気がしたものです。

 『ドラえもん』に限らず、藤子作品は大人になってから読み返すとまた深い理解に到達することが多いのですが、『エスパー魔美』はもともと中学生が対象で、しかも各話のページ数も結構あり、丁寧に書かれていることが多いのですよね。そういうわけで、今読んでも、なにかと勉強になるのです。それ以上に面白いわけですが。ついでにこれが「単純所持」あたるか、という論点もあるのですが、それはまたそれとして。